ゴッフマンの『行為と演技』(3)

社会/政治 芸術/メディア

(2)のつづき

<第五章、役割外のコミュニケーション>

非公式のコミュニケーション

役割を演ずるという公然と伝達されるコミュニケーションの背後には、それと異なり矛盾する、暗黙のコミュニケーションの流れがあります。
公然(公式、表、役割内)の方が虚構で、暗黙(非公式、裏、役割外)の方がリアルでいうことではなく、双方の型のコミュニケーションは表裏一体のものであり、切り離すことは出来ません。
公然のコミュニケーションという相互行為の流れを中断せず維持するためには、暗黙のコミュニケーションによる調整や操作が必要なのです。
公式に遂行されるパフォーマンスが全てである訳でもリアリティである訳でもないのです。

その役割外の非公式のコミュニケーションの四つの類型(1.不在者の扱い、2.演出上の談合、3.共謀、4.一時的再構成)を以下で考察します。

1.不在者の扱い

パフォーマンスチームの構成員たちは、オーディエンスが不在の舞台裏にいる時には、異なる扱い方をします。
オーディエンスはあだ名で呼ばれたり、物真似をされたり、悪口を言われたり、また時に面前とは逆に褒められたり、対面的な相互行為とは背馳する態度が取られます。

例えば、舞台裏における貶めは、不在者を生贄にしてチームの結束力を高めたり、対面的行為において生じる自尊心の損失を補償したり、不満のガス抜きにしたりして、表の秩序立った公然のコミュニケーションを円滑に維持する調整機能を持ちます。
舞台裏において比較的悪く扱われることを通じて、対面において比較的良く扱うことが保証されるのであり、それらは撚り合された一本の糸です。

2.演出上の談合

オーディエンスが不在の時には、チーム内で演出上のコミュニケーションが為され、表舞台(表-局域)での筋書きや舞台装置の考察、演技指導、慰めや鼓舞、情報交換など、次のパフォーマンスに向けた秘密裏のやり取りが行われます。

3.共謀

表舞台においても、役柄から外れた別のコミュ二ケーションの流れがあります。
目配せや隠語や暗号や皮肉などに代表されるように、公然としながらもオーディエンスに気付かれないよう取られる、パフォーマンスチームの共謀的なコミュニケーションです。
公然の役割遂行以外の言動は、パフォーマーの印象に不整合を引き起こし状況の意味付けを破壊してしまうため、役割外のコミュニケーションは、オーディエンスに気付かれないよう行われます。
例えば、妻は些細な声の調子の変化によって、客の前で主人の尊厳と印象を壊さないよう、夫に秘密の命令を下すことができます。

4.一時的再構成

パフォーマーとオーディエンスの社会的距離や同一性を破壊しない程度に、チームの役割類型や公式の軌道を逸脱するようなコミュニケーションがあります。
非公式的な形で、一時的な再構成の働きをします。

あてこすり、意味深長な発言、冗談に混ぜた本意、探りを入れるような慎重な打ち明け、暗示的要求、意図的に不明瞭にされた言明、両義的な指示、など。
例えば現在の友人関係を壊さないまま恋人関係に持ち込みたい異性間の友人、例えば現在の取引関係を壊さずに相手に批判を加えたい商売人などが、冗談とも本心ともとれる両義的で暗示的な意味深なコミュニケーションによって関係の再構成をはかろうとする時などです。

そういう非公式の伝達経路を通して、不満や要求や指示や開示などを非公式に伝え、相手チームとの公式の社会的距離を破壊しないままに、その関係の変化をうながす再構成の動きを生じさせます。
そういうコミュニケーションにおける「あそび(ゆるみ)」の部分の柔軟性が、社会的距離や同一性を保ちつつ、役割の変化や強化を可能にします。

それは、空間、場所的な面においてもあります。
例えば、非日常の祭りにおける無礼講が日常社会の慇懃講を強化し支えるあそびになっているように、劇の枠組みを超え、相対的に規定されている公式の社会役割の位置を一時的に解除するような非公式のあそび(ゆるみ)のコミュニケーションの場が、主題となる劇を円滑に進めるために必要になります。
表舞台では敵対する弁護士同士が喫煙室で談笑したり、上司と部下が食堂で親しんだり、医師と看護師が同じ席で意見を述べあったり、そういう公式の関係をゆるめるあそびの場があることによって、表舞台での破壊的なひずみを取り除き役割を再強化したり、情報交換や役割の一時的軟化により新たな関係構築への契機として機能したりするのです。

 

<第六章、印象操作の技法>

四つの驚異的出来事

パフォーマンスが攪乱され、パフォーマーのリアリティが脅かされる出来事(アクシデント)の主な形態は以下の四つになります。
・「何気ない仕草」パフォーマーの意図しない行為によって印象を壊すような出来事。
・「失策」パフォーマーの意図した行為によって印象を壊すような出来事(意図した行為の失敗による失策)。
・「不時の侵入」偶然や予想外に、局外者が局域に侵入したり、オーディエンスが裏舞台に侵入するような出来事。
・「騒ぎ」チーム内の対立が“騒ぎ”として表舞台に表れ、裏情報の露呈、印象の崩壊、チームの分解や再編が生じ“新しい場面”への移行の契機となるような出来事。

劇の参加者は、これらの出来事によって、当惑、焦燥、狼狽、憤慨、茫然自失し、演技(パフォーマンス)の遂行に支障をきたし、さらにリアリティの危機は加速します。
出来事(アクシデント)からショーを守るためには、相互行為の参加者全員が、防衛措置的な属性を所有する必要があります。

三つの防衛措置的属性

「演出上の忠誠心」
チームの成員の裏切りや背任を防ぐための属性です。
パフォーマンスチーム内の連帯感を強化し、オーディエンスに対する情動的つながりを無くし、罪責感なく欺ける(演技できる)ようにします。
パフォーマーとオーディエンス間の感情的紐帯を絶つことで、劇に集中し、危険を回避します。
例えば、洋服の販売員は、躊躇なく売れ残りの服を人気の服と偽り、客に売り切ることができねばなりません。

「演出上の節度」
ショーを台無しにしないよう、パフォーマーが自己の役目をよく理解し、不足も過剰もない節度ある優秀な演技者であるための属性です。
メンバーとの関係においても冷静に対応し、仲間のミスを埋め合わせ、アクシデントが生じても全体の印象を壊さぬように、自ら修正することができます。
論理的な説得力や、EQ(感情)マネジメント、危機管理能力に優れ、冗談、謝罪、自己反省などの自己卑下を自ら引き受けられるだけの自己距離化が可能な、節度と余裕が求められます。

「演出上の周到さ」

先見的な思慮や配慮によって、ショーに適切な演出の準備を為しておくことで、アクシデントや攪乱を回避し、パフォーマーの都合にあった印象や解釈を与えることができます。
その方法をいくつか紹介します。

・忠誠心と節度あるメンバーの選出。
・最も安全なオーディエンスの選択(例えば、教師役割を安全に演じられるのは優秀すぎず劣等過ぎない学校の生徒)。
・パフォーマンスチームおよびオーディエンスの統制可能な人数的制限。
・パフォーマンス能力に応じたオーディエンスとの接触時間の制限(接触時間が多いほど印象を壊す可能性が高くなり演技の難易度は上がる)。
・パフォーマーの演ずるものを否定できないような権威付けの防壁(例えば、一般人は高度な専門家の言うことは鵜呑みにするしかない)。
・コンテクスト情報を読み、状況に適応的な演技を可能にする思慮深さ。
・オーディエンスの侵入可能性に応じた裏領域の限界設定(侵入可能性の大きさに反比例し裏領域は小さくする~例えば生徒のヒソヒソ話は教師の聴力の範囲ぎりぎりで設定される)。

保護的措置(察し)、察しに関する察し

ショーはパフォーマー側だけでなく、オーディエンス側からも守られています。
例えば、私たち社会に生きる者は、相手が舞台を整える時間を与えるために、来訪時には必ず事前に連絡を入れ、部屋に入る前はノックをします。
仮に不意な侵入(局外から局内、表から裏領域)が生じてしまった時も、オーディエンスは気付かないふり、無関心を装うことが多く、その社会的エチケットによって、プライベート空間はある程度保護されています。

観劇や結婚式などが客のエチケットなしに成り立たないように、ショーはオーディエンスのエチケット(察し)なしに進めることは不可能です。
オーディエンスは適切な関心(及び無関心)をもち、攪乱や越境や騒ぎを起こさぬような積極的心構えが必要です。
オーディエンスは察し、パフォーマーのミスを見ないふりをし、パフォーマーの危機を暗黙の共謀関係によって救います。
パフォーマーはこのオーディエンスの協力を有効にするために、普段以上の節度と周到さによって、曖昧でデリケートなこの察しを壊さぬような察し(察しに関しての察し)によって、対応しなければなりません。

オーディエンスは察しを働かせ、時にパフォーマーはそれに保護されていることに気付き、さらにオーディエンスはパフォーマーが察しに気付いていることに気付くことがあります。
この眼差しの交差の瞬間に、相手の情報と演出的構造の全体が露呈し、共有され、チームの壁は消失し、事態そのものがありありと見えてきます。
互いにそれに羞恥を感じるにせよ、共に笑ってしまうにせよ、すぐに乱れた襟を正し、壁を作り直し、何事もなかったかのように元の役割に戻ります。

お互いが役割の向こう側に、役割を背負うという難しい仕事をになう孤独な演技者を見出し、ある種の同胞意識を感じますが、それと同時に、常に他者は得体のしれないものでもあり続けます。
ポーカーゲームの読み合いのような他者との演技と眼差しの交差のゲーム中で、エゴは宙吊りにされたような不安定な状況にあります。
演技の虚構性が大きいほど、エゴは自己疎外と他者への慎重さを拭い去ることができず、両価的感情のはざまで生きることになります。
好きな異性の前で無邪気を演じる女にとって、男がそれを無邪気に信じているのか、それとも無邪気に信じているふりをしているだけなのかは、永遠に謎のままです。

 

<第七章、おわりに>

表出の弁証法的関係

本書において、表出というものを、単に表現者(行為者)の自己完結的なものとして扱うのではなく、そのコミュニケーション上の機能を考察してきました。
印象は不透明な事実に関する予示的な情報となり、発信者の最終的帰結を待たずに受信者は反応を方向付けることができます。
行為主体は行為に先立ち、状況に関する情報を必要とするわけですが、他者の内実という不透明な情報に関しては、表出的動作や地位の記号などの「見せかけ」を手掛かりにして、予測的に反応するしかありません。
行為主体が状況の「リアリティ」を得ようとすればするほど、「見せかけ」に注視しなければならないという、弁証法的な関係が生じることになります。

行為主体は、他者が与える過去および未来についての印象(情報)を基にして、他者の扱い(反応)を決定します。
印象には相応の要求や約束が含まれており、倫理的(道徳的)性格を帯びています(例えば相手の印象が王様と乞食では扱い-反応-が相当異なる)。
ですので、他者を観察する行為主体(エゴ)は、他者に対して、他者がエゴに与えようとする印象の正確さを求めています。
上に述べたように、観察する者(エゴ)は事象の把握に際し他者の表現・代理的呈示(representation)に頼るため、常に観察される者(他者)には、詐称・偽の代理的呈示(mis-representation)の可能性が開かれており、印象を操作することが可能だからです。

しかし、エゴは多くの場合、自らの仕事を遂行するためには、むしろ印象を操作することが不可避であると考えます。
ここにおいては、被観察者(他者)はパフォーマーに転じ、観察者(行為主体)はオーディエンスへと転じ、パフォーマー(被観察者)の対象に向けているように見える行為が、実はオーディエンス(観察者)に向けられている劇化された仕草(何気ないように見えながら意図された)となるということです。

行為主体は、自らの役割に見合った扱い(反応)を他者に要求すると述べましたが、反対に他者からは、行為主体(およびその行為)がその役割に見合うだけの資格(水準)を有していることを要求する、という倫理的関係にあります。
しかし、行為主体は基本的に、この水準を実現するという倫理よりも、この水準を予示する印象操作の商いに関心を持つ、倫理の商人なのです(優れた教師であることよりも、優れた教師であると見えることを重視する)。
私たちの関心は、自らの能力という商品をいかに売るかというビジネスに向けられており、それを信じて買う他者との人倫的関係は希薄になっていきます。
社会の倫理が人々に求める社会化した人間(確固とした社会役割を背負う人間)としての義務と権利(利益)が、必然的に人を劇に習熟した孤独な演技者とならざるを得ないよう駆り立てる、弁証法的な関係を生み出すのです。

演出と自己

自己という個人は、パフォーマーとして印象を作り呈示する者、役割の性質や属性として設計され喚起された登場人物(キャラクター)としての者、という二つの基礎によって成り立っています。
この「パフォーマーとしての自己」の諸属性と、「役割としての自己」の諸属性は、本質的に異なった次元にあります。

第一に、パフォーマーとしての自己は、常に学習し、役割のための訓練を行い、希望や不安の思いに耽り、チームメイトやオーディエンスを求め、他者からの関心を配慮し、失策や信用失墜などの危機を回避しようと努める行為主体です。

第二に、役割としての自己(キャラクター)とは、表層にまとわりつくイメージ群であり、彼自身に由来し所有する安定的な属性などではなく、場面(舞台)と演技行為(パフォーマー)と目撃解釈(オーディエンス)によって、一時的に生成されるもの(効果)です。
適正に演出され演技された場合、役割がパフォーマーの自己に帰属するようなイリュージョンを生じさせ、またパフォーマーはそれを目論みます。
しかし、ここで捉えられる自己(イメージ)は、原因としてのものではなく、プロダクトされた産出結果にすぎず、自己はその人自身などというものではなく、シーンに由来するものでしかありません。
役割(キャラクター)としての自己とは、印象の寄せ集めによる“劇的効果(ドラマティックエフェクト)”であり、その本質は“存在”ではなく、“かりそめの信用”です。

一般的に考えられる自己や肉体は、たんに束の間の協同制作物(印象)を絶え間なくかけかえていくための一本の留め釘にすぎません。
それは自己-産出(セルフプロダクション)を維持するための留め釘です。
パフォーマーを装飾する裏舞台×その飾られたパフォーマーをさらに装飾する表舞台(舞台美術)×そのパフォーマーによる舞台上での演技×オーディエンスによるその観劇と解釈。
これら四つの人的・物的配置の掛け合わせによって、「自己」なるものが産出されるのです。
この複雑な機構が滑らかに回転し、ショーが上手く進めば、各々の役割のパフォーマーは、まるで確固とした自己を内在しており、そこからパフォーマンスが流出してくるようなリアリティのイリュージョンを生じさせるのです。

 

おわり

(関連記事)メイロウィッツの『場所感の喪失』

(関連記事)サルトルの『存在と無』