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ソクラテスの問答法

哲学/思想

はじめに

ソクラテスは、私たちのイメージにあるような本や論文を書くタイプの哲学者ではなく、ただ市中でひたすら様々な人と対話し続けた実践の人です。
書き物は死んだ言葉だとして好まず、生きた言葉の対話によってのみ知の活動を行いました。

ですので、ソクラテスの哲学の概念などというものは、あってないようなもので、第三者によってテクストで書き残されたソクラテスの姿を頼りに想像するしかありません。
特にソクラテスの弟子であるプラトンの著作が、質、量ともに群を抜いており、一般的なソクラテス像は、ほぼプラトンの描くソクラテスとなっています。
その中では、ソクラテス自身の考えとプラトン自身の考えが混在しており、それを分けることはかなり難しくなっています。

本項では明らかにプラトンの創作や誇張であるプラトン的ソクラテスの言動は省いた上で、ソクラテスの哲学的実践である「問答法(ディアレクティケー)」の概要をまとめます。

問答法の原理一、愛知(フィロソフィア)

「哲学」という日本の語は、ギリシャ語で「フィロソフィア」(英語で「フィロソフィー」)です。
知(ソフィア)を愛する(フィロ)で「フィロソフィア」、直訳すると「愛知」です。
日本でも最初は、道理や知識を表す「哲」と、のぞみこいねがう「希」を合わせて、「希哲-学」と訳され、「愛知」と同じような意味を持っていました。
その後、「希」の文字が省略され、「哲学」となります。
それによって「フィロソフィア」において重要であった、愛し希う(こいねがう)「フィロ」の部分が失われることになってしまいす。

しかし、ソクラテスの「フィロソフィア」において一番重要なことは、その知を「愛する」ことです。
一般的な知識人のように、知を所有して自分を権威づけたり、知を売って商売にしたり、知によって何かを上手く為したり、知によって人を操ったりすることは、別の愛するもの(金や権力など)の為の手段として、知を利用することにすぎません(ソフィストがその典型です)。
そういう人々は「知」をもてあそび、平気で「知」を裏切り、心の底では「知」を憎み、軽蔑していたりもします。

例えば、一般的な知識人は、「知」よりも自分のプライドや財産や生命などを愛しているので、それを失う危険があれば、平気で知を捨て、真理を捻じ曲げます。
しかし、ソクラテスであれば、論理的に絶対正しいと思ったことであれば、たとえガリレオ裁判のような尋問にかけられても、正しいことは正しいと断言します。
なぜなら、「知」を愛しているからです。

いかなる時でも正しい「知」を優先するのが、彼の哲学(フィロソフィア)の本質です。
知識人(ソフィスト)の堕落した「知」に対抗するために生み出したのが、ソクラテスの「フィロソフィア(愛知)」の概念なのです。

問答法の原理二、無知の知

「知」を愛し、希う(こいねがう)、ということは、すなわち、自分が「知」を持っていない「無知」の状態であるということです。
自分は無知であると自覚し、知が欲しいと知を愛し希うことが、すべての学びのはじまりと動因であり、自分は知っていると勘違いしている者には、学びの可能性は永遠に閉ざされています。

巷の知識人(本当は知らないのに知ったふりをしている)に、自らの無知を自覚させ、知を愛し希う「フィロソフォス(愛知者、哲学者)」に回心させることが、ソクラテスの仕事です。

ソクラテスは常に質問者、聞く(訊く)立場に立ち、対話者を吟味するようなスタンスで対話をします。
対話者が述べたことを吟味し、一つ一つに矛盾や誤りを発見し、ソクラテスは延々と対話者の言論を否定していきます。
そして対話者は、最終的にアポリア(行き詰まり)に陥り、結局、自分は何か知っているようで何も知らなかったことに気付き、自己の無知を自覚することになるのです。
これがいわゆる「無知の知」、自分が無知であるということだけは確実に知っている、という状態です。

問答法の原理三、アイロニー

ソクラテスは自分の意見を積極的には述べず、嘘をついている犯人を尋問し、その嘘を白状させるかのように、対話者に問い続けます。
まるでソクラテスが真実を知っている名探偵で、その正しい知識をもとにして尋問しているかのように見えるので、人々は勝手にソクラテスを知識を持った真の知者だと思い込むのです。
しかし、ソクラテス自身は、自分は無知で何も知らないから教えて欲しいと懇願し聞いているだけであり、子供の素直さが大人の無知を暴き出すのと同じ様に、問いの形で対話者の無知を暴き出してしまうのです。

だから人はそれをソクラテスの「エイローネイアー(英語のイロニー、独語のアイロニー)」と呼びます。
本当は知っているくせに「空とぼけ(アイロニー)」、知らないふりをして「偽装(アイロニー)」している「皮肉(アイロニー)」屋だと。
知らないくせに知っているふりをしている自称知識人の前で、反対にソクラテスは知っているのに知らないふりをした道化を演じることで、対話者自身の二重性(自己欺瞞)を暴き出すことに成功します。
例えば、私が一般人を相手に知ったかぶりをした知識を披露している時に、明らかに自分より賢そうな人が出てきて、「僕は無知だから賢いあなたに質問させてください」と言われれば、強く動揺し、自分の虚偽性を痛切に反省させられることになります。

ソクラテスを神格化する人たちは、彼が全てを知った上で質問していると考えますが、実際のところ、ソクラテスは本当に知らないのであり、彼はただ、聞く技術や理解する技術や問う技術などの一般的な論理思考能力が極めて高い、助け手にすぎないのです(要は専門的な知識量を誇るタイプの知者ではない)。
ソクラテスは自らのその力を「産婆術」と言います。

問答法の原理四、産婆術

ソクラテスは自身の仕事(問答)を産婆に喩えます。
それは対話者の精神の内に宿っている知識を、上手く引き出す作業です。
産婆自身は自分の胎内に子供を宿せないお婆さんであるように、精神の産婆であるソクラテスも、自分の胎内には知識を何も持っていない無知な人間だと言うわけです。

例えば、幾何学の問題で悩んでいる対話者と問答するソクラテスは、ただそれをよく聞き、理解し、不明な点を問い続けるわけですが、その問いが極めて適切な反省の契機となり、対話者は知的に進歩するわけです。
別にソクラテスに幾何学の深い専門知識があるわけではなく、ただよく聞き、よく理解し、よく問うているだけにすぎません。
しかし、先にも述べたように、それを傍から見ると、ソクラテスがあらゆる専門的な知識を持った上で質問している知者のように見えるわけです。

そもそも人は自分の内にない経験領域の知識を持つことはできませんし、知識は自分の内から生ずるものしか真の知識たりえません。
単純に外から知識を与えられるだけでは、知識として身に付くことも、納得され自己に統合されることもありません。
知識は外から与えられるものではなく、潜在的に自己の奥深くに眠るものを引き出してくる、というのがソクラテスの基本的な考えなのです。

問答法の原理五、よく生きること

無知であり何の知識も持たないソクラテスが、唯一積極的に語り続けたことは、「ただ生きることではなく、よく生きること」です。
言葉を変えれば、「ただ生きる」という生存に関わる物的・量的・肉体的なものばかりに目を向けず、「よく生きる」という生の質、魂(精神)を善くすることへの配慮が必要だと語るのです。

なぜ、そんなことを述べるかというと、当時の荒廃した市民社会を憂いていたからです。
続く戦争(ペロポネソス戦争BC431年-BC404年)によって、人々の人間性は荒み、己が生存のための目先の利益のために、簡単に悪に染まっていきます。
善いことをする者はバカと呼ばれ、悪いことをする者が利口だと褒められ、人々は善をなすことを恥じ、悪をなすことを誇り、金、物、権力などの生存(ただ生きること)をより増大させるものを獲得することに夢中になり、抗争と残酷が社会全体を覆っていきました。
この「ただ生きること」を可能な限り増大させるための知的な技術を与えたのが、「ソフィスト」と呼ばれる知識人たちです。
世俗的利益を最大化し、社会的成功をおさめ、いかに多くのものを所有する権力者に成るかという術策の知識を、高額な金を取って教えていたのです(元は純粋な知識人であったソフィストが野蛮な時代背景により、そう変化したということです)。

「知」まで荒廃してしまったそんな状況で、ソクラテスは片っ端からソフィストに問答の体裁をした論争を挑み、彼らの無知を徹底的に暴き出し、先に述べたような知を愛することや魂を大切にすることへの回心をうながしたのです。
「ソフィストvsフィロソフォス(愛知者、哲学者)」という構図は、「ただ生きることvsよく生きること」という構図に重ね合わせることができます。

 

おわり

 

プラトンの弁証法につづく