ニーチェの『道徳の系譜』第二論文~罪と罰、良心と負い目

哲学/思想 宗教/倫理

<第二論文「罪と罰、良心と負い目」>つづき

十三、刑罰の意味内実

刑罰においては、持続的なものである「慣行、行為、ドラマ、手続きの厳密な順序」と、流動的なものである「意味、目的、期待」があります。
例のごとく、凡庸な学者たちは、目的のために手続きが開発されたと考えますが、事実はその逆で、刑罰の手続きは古くから持続的にあり、そのうちに刑罰とその解釈が持ち込まれるということです。

刑罰の意味や目的は歴史と共に流動するため、初期の段階ではその意味の変化を把握できても、後期の段階になると複雑に積み重なり結晶化したそれを分析することが非常に困難になります。
凡庸な学者のように時代精神に則った一義的な定義付けを行うのではなく、現代の刑罰の意味内実を真に捉えようとするなら、むしろそれは定義付け不可能なものとしてあらわれてきます。
可能なことは、その折り重なり結晶化した複数の意味のイメージのようなものを羅列することくらいです。

・被害の再発生を防ぐための刑罰
・被害者への賠償としての刑罰
・犯罪の一般への拡大と社会の混乱の防止としての刑罰
・加害者を片付けたり隔離するための刑罰
・刑を執行する当局者側に恐怖を植え付けるための刑罰
・犯罪者が享受してきた社会的利益を返済させる刑罰(苦役労働)
・退化する要素を除去するための刑罰(純潔種の維持、社会的タイプの固定など)
・祝祭、見世物としての刑罰
・受刑者および観衆に記憶させるための刑罰
・直接的復讐から保護されていることに対しての謝礼としての刑罰(苦役労働)
・自然状態でなされる復讐(法外に強力な者、特権的な者による)との妥協としての刑罰
・法や秩序や政体に対する敵(社会契約違反者、反逆者、裏切り者、破壊者)との闘いとしての刑罰

十四、刑罰は罪の感情を目覚めさせず、むしろ失わせる

凡庸な者たちは、刑罰の最も本質的な意味、効用として、「罪の感情を目覚めさせること」などと考えます。
良心の呵責や悔恨を起こさせるための刑罰、というわけです。
しかし、現実的に真の悔恨を為す受刑者など稀にしかいません。
むしろ刑罰は人間の罪の感情の発達を著しく妨害するものです。

犯罪者は、裁判や刑執行の手続きを目の当たりにし、自分の犯罪行為は“それ自体としては”決して悪いものではないということを感じてしまうからです。
スパイ、虚偽、買収、詐術、謀略から、剥奪、誹謗、監禁、拷問、殺害まで、正義を名乗る権力が何の良心の呵責も見せずに公然とそれを犯罪者に対しやってのけるからです(善の名において)。
自分の為した犯罪行為と同じことを為す裁判官や刑務官を見て、この行為自体が問題なのではなく、特定の観点から見られた特定の利益に従い、事の善し悪しが判断されているだけだと知ってしまうのです。

十五、刑罰の効果の実際

受刑者たちが感じている良心の呵責とは、「自分はあんなことをなすべきではなかった」という悔恨ではなく、「思いもよらず、まずいことになってしまった」という思い出です。
彼らは罪に対する悔恨を感じながら刑を受けているのではなく、まるで思いがけない病気や事故や死に直面してしまったかのように、ある種の宿命として受け容れているだけです。

刑罰は、人間の恐怖心を強め記憶させ、より悪賢さを鋭敏にし、より慎重により疑い深くより隠密に行動しようとする意志を醸成します。
刑罰は無節操な欲望を制御させる効果、いわば人間を飼い馴らすことはできても、人間を倫理的に「より善く」することは決してありません。
ただ、痛い目に合って悧巧になるだけであり、悧巧になるということは、即ち、より悪くなる(より悪が奥底に染み込み巧妙になる)ということです。

十六、良心の正体

では、本来的な意味での「良心の呵責」とは、一体どういう起源をもつものでしょうか。

「本能」という無意識のうちに働く調節機能によって上手く生きていた半ば動物的な人間が、平和を強制する社会という新たな環境に移住する際、備えていた本能はすべて無価値となり、「意識」という貧弱な機能(思考、推論、計算、因果の把握)に頼らざるをえなくなりました。
本能は地下に押し込められ、それが満たされる機会は非常に少なくなり、内部で満足を求めざるをえなくなります。

これが人間の内面化と呼ばれるもの、「魂」の生育です。
人間の内面も最初は皮膚のように薄いものでしたが、外部への発散が抑圧される度合いが増すごとに、より分化、拡張し、広大さと深淵さを獲得します。

社会は、人間自らの持つ自由な本能の野蛮を恐れ、強力な防壁を築き上げたわけですが(法や刑罰など)、それによって人間の野性は消失することなどなく、ただ内側へと向きを変え、人間自身に刃向かうものになったということです。
野蛮も敵意も破壊衝動も、すべてが自虐の方向へ向きを変え、本能の持ち主自身を標的として発散されるようになったということです。
これこそが、「良心の呵責」の正体です。

人間(本能)は、社会という慣習と規則の檻に閉じ込められ、我慢しきれなくなり、自分で自分を引き裂き迫害するようになったのです。
おのれの我が身そのものを、闘いと冒険の荒野として、弄り回さなければならなくなったのです。
噛む対象を失った檻の中のライオンが、自らの身体を噛み千切るように。
「良心(の呵責)」の発生と共に、人間は人間であることに病み、自分自身に苦しむ、癒しがたい不治の病を発症したのです。

十七、良心の発生条件

国家のはじまりとは、社会契約説のような後付けの夢想によるものではなく、何の顧慮も理性もない宿命的な強制として、強者たちによって暴力的に与えられた支配です。
彼らは、本能的な形式創造を為す、無意識的な芸術家であり、稲妻のように閃光的で必然的で確信的な存在です。
生きた支配形式、部分や機能の境界を定め、関係付け、全体としての意味の連関に満ちた新世界を創造するのです。
この天性の組織者の内には、罪も責任も顧慮も存在せず、ただ芸術家的エゴイズムに満たされています。

「良心の呵責」は、彼らが直接作り出したしたものではないにしても、この少数の強者による芸術家的暴力によって、恐ろしい量の自由の本能が世界から消し去られ(潜在化され)なければ、この醜悪な植物(良心)は育ちえなかったはずだということです。

十八、非利己性という美徳の正体

この人間の能動的、創造的な力(力への意志)は、国家を作り出した後、やがて内側へ向き、ちっぽけで、ケチくさく、後ろ向きになり、心の奥の迷宮の中で、消極的な理想を創造し、良心の呵責なるものを形成したのです。
違いは、形成的暴力的なこの力の向けられる対象の差です。
前者は外部・他者に向けられる支配であるのに対し、後者は内部・自分自身に向けられる支配であるということです。

芸術家的残忍さでもって、自己を切り刻み縫合しひとつの形式を与え、自ら分裂することを好み自らを苦しめることに悦楽を感じる、狂気的で活動的な「良心の呵責」というこの存在。
これこそが、理想や空想や美の母胎です。
無私、自己犠牲、自己否定なるものを、私たちが美しいもの、理想的なものと感じ、そこにある種の快感を得るためには、自己自らを醜いものと断罪する残忍で分裂した自己を前提とせざるをえません。
道徳的価値である「非利己的なもの」は、良心の呵責、自己虐待の意志が生み出す、倒錯的で残酷なものなのです。

十九、二十、負い目(負債)と神の起源

原始的な種族社会では、自分たちの生きる基盤を作ってくれた先代に対しての法的な義務感情(債権債務関係)をもっています。
種族の存立のために犠牲を払ってくれた先祖のために、自分たちも返礼しなければならないという負債としての負い目が生ずることになります。
食物や初生児のような生贄、礼拝堂、祝祭、崇拝、慣習への服従、などは、その返礼の感情から生ずるものです。

種族がより生き永らえ繁栄するごとに、この負債、負い目は大きくなっていきます。
種族の強さと負い目は比例関係にあり、反対に、種族が弱体化すると負い目も減じることになります。
この債務意識が強大になり、恐怖すら感じる不気味なものとなった時、先祖はついに「神」と言われるものに姿を変えます。
共同体の構成要因が血縁から別のものに移っても、神の概念は受け継がれ、成長していきます。
そして、人類史上、生成した神概念の中で、最も強大であるキリスト教の神の出現は、最も強い負債感情(負い目)を生じさせることになります。

二十一、二十二、良心の呵責と負い目の共謀

国家によってもたらされた「良心の呵責」が、宗教によってもたらされた「負債(負い目)」という口実(理由、前提)と結びつく時、自己を攻撃しようとする残忍性は、さらに冷酷で激しいものとなります。
神に負債があるという観念が、自らを責め立てるよう駆り立てる拷問具となります。
動物的本能を持つこと自体が、神に対する「罪」となり、先祖に対する反逆ととらえられるのです。

人間は持って生まれた自己の本性、自然性を否定する「否」を、肯定的な「然り」に反転して外部に投射し、実体化したものが「神」なのです。
聖なる神という理想を確立することによって、人間はいかなる罰によっても罪を償えないほどに呪われた存在(永遠の罪人)となり、人間存在それ自体が絶対的に無価値なものであること(ニヒリズム)を確実なものとし、脱出不可能な罪と罰の迷宮に自らを閉じ込めるのです。
人間とは、自らを生んでくれた母なる自然を悪魔と罵る錯乱者、行為の野獣であることを抑圧された観念の野獣、反自然的で陰鬱で悲哀に満ちた不治の病人。
社会とは、すなわち、狂者たちの病院のことなのです。

二十三、高貴な者たちの神、ギリシアの神々

これまでキリスト教的な神の病的さについて述べてきましたが、だからと言って神々の観念すべてがそうであるという訳ではありません。
例えば、ギリシャの神々は、自主的能動的な高貴な人間の反映であり、人間の内にある本性の獣は神と共振し、自己を肯定していました。

ギリシャ人は、自らを十字架にかけ凌辱するようなあざとい卑屈さなど微塵も持ち合わせておらず、良心の呵責など入り込む余地を与えない明朗さを持ち、魂の自由のためにむしろ神を利用したのです。
彼等は、ライオンのような勇気を持つ、華麗な子供なのであり、自ら走り自ら転げるその天衣無縫な軽率が、時に行き過ぎることもありました。
しかし、審判者であるゼウスは、そういう人間の行き過ぎを「悪しきもの」だと断罪することはなく、ただ、無分別や愚かさとして許容していたのです。
人間に罪などない、あるのは愚かさである、というのです。

ギリシャ人は、人間の残虐や非道を目の当たりにすると、「神が彼を惑わしたに違いない」と、それを神々のせいにし、悪の原因として神を利用します。
キリスト教の神が罰を引き受け人間に罪を与えたのとは正反対に、ギリシャの神は人間の罪を引き受けるというもっと高貴なことを為すのです。

 

おわり

※割愛した第三論文の主旨は、基本的に第一、第二論文と同じです。