<第一論文、よいと悪い>
二、イギリス心理学者による考察
先行する道徳の歴史家たちには、歴史的精神が欠けており、本質的に非歴史的に考えます。
彼等(イギリスの心理学者)は言います。
「非利己的行為の恩恵に与った人々の側から“よい”と賞賛されたその事実が忘却され、習慣化したものが“善”と呼ばれるものである」と。
「利益」「忘却」「習慣」「誤謬(錯覚)」というイギリス心理学特有の推論です。
しかし、真実はその逆であり、「よい」という判断は、よいことをしてもらった人々の側からではなく、それを与える「よい人々」の側から生じているといことです。
この「よい」というものに利益は関係なく、あるのは高貴と卑賎の間隙を生む距離のパトス(感情)、上位の種族の下位の種族に対する支配的感情です。
それが「よい」と「悪い」の対立の起源です。
三、スペンサーによる考察
イギリスの心理学者より、ハーバード・スペンサーらの見解の方がまだ合理的です。
スペンサーは、「よい」とは「有益」「合目的的」と同じものであるとみなします。
過去の経験から証明された「役に立つもの-立たないもの」の判断と認定を、「よい-悪い」の概念で行っているだけだと言います。
忘れるどころか、過去の忘れえない経験を常に基準にしているものです。
四、「よい」の語源
様々な言語における「よい」という言葉には共通した概念変化があり、それが元々「高貴な」「気高い」などを語源とするもので、精神的な特権階級という意味でのよい(優秀)から変化したものであるということです。
当然、それに並行し、「悪い」という概念も、「卑俗」「賤民」「低級」などという下層階級的な意味をもつことになります。
五、古代において「よい」とは正直で勇敢な戦士
「よい」という言葉の内には、現在でもいまだ貴族的な上位の者の優越的ニュアンスが残っています。
古代ギリシャ語における「よい」という言葉の根には、「誠実な者」「真実に存在する者」から「貴族的な」という意味の変遷があり、噓吐きで臆病な賤しい平民との区別がなされていました。
ラテン語における「よい」は戦士を意味し、古代ローマにおいて「よい」とは、勇敢さを指すものでした。
六、戦士から僧侶への転換
政治的に僧侶階級が高位に就く時代に変化すると、それに合わせて精神的優位さを示す概念も変化します。
正直さや勇敢さや積極的な行動力ではなく、暗く感情的で行動することを避け、瞑想的で涅槃を志向するような、何かしら不健全なものに価値をおくようになった、ということです。
元は単純であったはずの人間の高邁も復讐も愛欲も支配欲も徳も病も、僧侶的なものにかかると極めて不純で難儀で病的で危険な代物に変化するのです。
しかし、公平に言えば、この「僧侶」という人間の危険な存在形式によって、人間に「深み」が生じ、人間は「邪悪」なものとなり、純粋な動物とは異なる存在に成ったとも言えます。
七、戦士階級vs僧侶階級、そして僧侶民ユダヤの圧勝
戦士階級における評価基準は、力強い肉体、健康、自由で活き活きとした活力、そしてそれを保つための諸々の行動(冒険、闘い、踊り、狩猟など)です。
それに対し僧侶階級における価値評価は、戦士と正反対のものです。
一見、僧侶は闘いにおいて無力に見えますが、実のところ敵に回して最も恐ろしいのは僧侶の方です。
彼等は肉体的に無力であるがゆえに、心の中の憎悪は不気味なほどに増強され、狡猾な智略を武器にし、精神的に有毒なものをばらまき、相手をじわじわと追い詰め絞め殺します。
歴史上、最も恐ろしい攻撃を為した僧侶的民族はユダヤ人でした。
価値を徹底的に転倒するという、最も狡知に長けた復讐劇によって、戦士階級を没落させました。
巧みな詐術によって、戦士・貴族的価値「高貴な、力強い、美しい、幸福な、神に寵愛された」を転倒し、「惨めな者、貧しき者、無力な者、醜き者、低き者、病める者のみが善き者であり、高貴で力強く美しく健康で豊かな者たちは悪しき者、呪われし者、神なき者」とするのです。
ユダヤ民族によって起こされた、この道徳における奴隷の反乱が、現在の人に見えていないのは、それがもう二千年もの歴史を持ち(長いものは見えにくい)、もはや勝利を当然のものとしてしまっているからです。
八、キリスト教的愛は完成された憎しみ
ユダヤ人が植えたこの憎悪の原木は、やがて最も崇高で深淵で優れた「新しい愛」の花を咲かせます(イエス・キリストのこと)。
しかし、これは憎悪の反対物としての愛ではなく、憎悪の成長したものにすぎません。
「憎悪」の原木の根が、より貪欲で邪悪で根深く地獄にまで伸びると同時に、憎悪が目指す目標と獲物を獲得しようと地上の側でも枝を伸ばし、天に届くほどまで高く成長したものが「愛」なのです。
愛の福音の体現としてのイエス、貧しき奴隷たちの至福と勝利を約束する救済者の登場です。
この最も不気味な誘惑者イエスは、イスラエル(ユダヤ的価値)を解体すると見せかけながら、実際はそれを革新的に完成させる機能を果たしていました。
十字架上のイエスという犠牲は、復讐の究極目標を実現するための政策の魔術として、道具(餌)として、利用されたということです。
この抗いがたく人々を誘惑、陶酔、麻痺、堕落させ、転倒された価値へと転向させる強力なシンボルの力によって、他のすべての高貴な理想を打ち倒し続けていくのです。
十、奴隷道徳の本質、ルサンチマン
奴隷たちの反乱は、「怨恨の念(ルサンチマン)」が創造的に機能し価値を生み出すことから始まります。
弱者は強者(高貴な者)に対し本当の反発(行動による反抗)が起こせないため、想像上の復讐である「怨恨」によって反発するのです。
高貴な道徳は、自己を肯定する「ヤー“Ja”(ドイツ語のYES)」を基礎にするのに対し、奴隷の道徳は、自己の外にあるものを否定する「ナイン“Nein”(ドイツ語のNO) 」を基礎とします。
価値設定のまなざしを、自己肯定から、他者否定に向け変えるというこの転換が「怨恨」の本質です。
高貴な道徳が自発的な行動と生長を目指すのに対し、奴隷道徳は常に外部世界に依存し、その行動は受動的反応です。
高貴な者は能動的な者であるため、幸福と行動が常に一体となっており、自分の幸福を自分の内に感じていました。
それに対し、行動できない奴隷は、敵を眺めることによって人為的かつ自己欺瞞的に幸福を生み出そうとするのです。
高貴な者は自己への信頼をもち、明朗闊達で正直で純粋に生きます。
それに対しルサンチマンの人種は、暗く狭量で、常に横目をつかい、自分に嘘をつき、その精神は安心と慰めの場所として秘密の隠れ家や裏道を好みます。
ルサンチマンの種族は高貴な種族より、常に悧巧です。
なぜなら、悧巧さは弱者にとって貴重な生存条件であるのに対し、強く高貴な人間にとって怜悧さはそれほど需要ではなく、本能の機能を十全に発揮することを大切にするからです。
高貴な人は、悧巧さに従い逃げるよりも、勇敢に闘うことを重んじ、悧巧さに従い怒りを抑えたり愛欲を回避するよりも、怒り、愛することを選びます。
高貴な人間は、自分に植え付けられた毒(ルサンチマンなど)を行動によって排出し、忘却の力によって解消し、自然治癒的に健全さを保ちます。
高貴な人間は敵に畏敬の念を持ちます。
なぜなら、闘う自分をより高めてくれるのは好敵手である敵だからです。
それに対し、ルサンチマンの人間は、自分を高めるために「悪しき人間」としての敵を構想し眺め、「悪人」の対照像としての「善人」である私を創出するのです。
十一、ルサンチマンという文化の道具とウジ虫化する人間
高貴な人間は、先ず「よい」という概念を、自分を基準として自発的に生み出した上で、その欠如態として「悪い(劣悪-独語のschlecht-)」という概念を二次的、補足的にイメージします。
しかし、ルサンチマンの人間は、先ず「悪い(邪悪-独語のböse-)」他人を目ざとく見つけ出し、それを起源として、その反対概念としての「よい」を生じさせます。
一見、同じ「よい」でも、その内実は真逆のものになっています。
高貴な道徳では「よい」とされたいた、強く自由闊達で躍動的生命力を持った人まさにその人が、奴隷道徳では「悪い(邪悪)」ものとされてしまうのです。
奴隷の毒々しい「怨恨」のひねくれ返った眼差しによって、すべては転倒されて見られ、真逆に解釈され直されるのです。
本来持っていた人間の荒々しい本能の躍動を押さえつけ、従順に飼いならされた家畜にすることが文化の意義であり、実は「怨恨」という反動的本能は文化のための真の道具として機能しているのです。
ルサンチマンの人々は「文化の道具」であり、彼らが世に溢れることによって、荒々しい本能の野獣の危険は駆逐されます。
しかし、その後に残ったものは、もっと悲惨な世界です。
萎縮し、憔悴し、毒々しく、腐臭を放ち、病的で、瀕死の生物のように這いずり回る、ウジ虫の群れの世界です。
本能の野獣を恐れ驚嘆し畏怖する方が、嘔吐を催すウジ虫化した人間の群れを見るより、何百倍もマシではないでしょうか。
今日の人間は人間に毒され人間を嫌悪し人間に悩まされているのです。
[ルサンチマンが文化の道具として機能していることに関しては、カリクレスの項およびフロイトの項を参照してください。]
十二、真の人間性を失った虚無的人間
今日のニヒリズムとは、この矮小化し均一化した人間への倦怠です。
この腐乱した世界が放つ悪い空気、いくら始末してもさらにまとわりつき窒息させようとするウジ虫の群れ。
高貴な人はどんな困難をも恐れず耐え抜きますが、この毒に関してだけは耐性をもっていません。
人間はますます「善い(奴隷道徳としての)」ものになっていきます。
薄っぺらで大人しく小悧巧で凡庸で無責任で、無為と涅槃を志向するような人間に。
私たちは人間の内の力強いものへの恐怖を押さえつけた代償として、人間に対する真の愛、人間に対する畏敬、人間への期待、人間たることの意志をも、同時に失ってしまったのです。
十三、もう一つの発明品「主体」の概念
現実的な現れとして、強いものが強いのであり、弱いものが弱いのであり、強いものに弱くあることを求めたり、弱いものに強くあることを求めるのは矛盾しています。
この都合の悪い現実を覆い隠すため、ルサンチマンの人々が編み出した詐術的概念が「主体」というものです。
人間には、一種の中立的な基体が行為に先立って存在しており、それ(主体)によって強くあったり弱くあったりすることが選択によって可能である。
で、あるがゆえに、荒ぶる獅子(強い者)は強くなったことに対して責任があると同時に、子羊のように謙虚で弱き者になることもできるはずだ、と。
そして、私たち弱き者も、善のために自ら選んで弱き者となったのだ、と。
弱者は、この「主体」への信仰によって、強い者に対し責任を負わせ非難を正当化し、自らの弱さを自由と解釈し、どうにもならない惨めな自己のあり方を功績と解釈し、自己欺瞞的に自己を肯定するのです。
本来、行為や作用や生成や現象の背後には何も存在しません。
行為に先行する行為者というものは事後的に想像で付け足されたものにすぎません。
情念を排すと述べる現代の自然科学者も、この信仰者たちと同じ主体の幻を信じ込んでいます。
[例えば、引力というものは、物体のある特定の運動、作用の観察の後に想像的に生み出された仮設的概念ですが、人々はいつの間にかその背後に想像された引力を実体と見なしはじめます。これは後期フッサールの主題のひとつです。]
十四、理想という名の魔術
理想という名の魔術が、あらゆる黒きものを白きものに変えます。
報復できない無力さを「善意」。
不安に怯えた下劣さを「謙遜」。
憎む相手に屈服することを「従順」。
立ちすくむ臆病さを「忍耐」。
ただ復讐できないだけなのに、復讐することを望まないと言い替える「赦し」。
惨めさを「神からの試練」。
被差別性を「選民性(神に選ばれし民)」。
現在の不幸は「未来の浄福(約束手形)」。
復讐と憎悪に満ちたルサンチマンの人間たちは、地下室の秘密の集会において、勝ち誇って叫びます。
「真に幸福なのは私たちだ」「真の強者は私たちだ」「私たちは善人であり、正しき者だ」と。
現実の人生の惨めさと不幸の一切を、未来の浄福の幻影(最後の審判、神の国の到来)へと投げ返すことによって、彼らは慰めをえます。
彼らは未来の約束のために、便宜的に愛や希望や信仰を持つのです。
十五、憎悪に生き続ける弱者たちの一生
弱者たちは、神の国が到来するその時まで、「永遠の愛」によって生きると言います。
しかし、はばかりなく真実を述べれば、それは「永遠の憎悪」の間違いでしょう。
最後の審判の時が来て憎んでいた者たちが惨めに滅びる姿を先取りし、弱者たちは何度も心に想い描きます。
この想像の中の喜悦のショーは、「信仰」という名のチケットによってのみ、観ることができるのです。
十六、終わりなき闘い
高貴の道徳である「よい-悪い(劣悪)」と、奴隷の道徳である「よい-悪い(邪悪)」の二つの価値は、数千年にわたり闘い続けています。
この闘いの象徴的なものが「ローマ」対「ユダヤ」です。
歴史上最も強く高貴であったローマ人も、傑出したルサンチマン民族、僧侶的民族、天才的俗物であるユダヤ人に、今のところ屈服しています。
しかし、まだ勝負はついていません。
ユダヤ的俗物性が大勝利を収めたフランス革命の中で、突如出現したナポレオンの中に、ローマ的高貴の理想そのものの問題がよくあらわれています。
この道しるべが、一体何を指そうとしてたのかを私たちはよく考えねばなりません。
おわり