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アーロン・ベックの『認知療法』(1)理論

心理/精神

<第一章、常識とその彼岸>

患者のジレンマ

精神科の歴史においては、普遍的に共有されるひとつの学説はなく、様々な学派が相争う形になっています。
それは理論的妥当性による争いというより、創始者のカリスマ性やドクマティックな教説による、排他的な権力争いの様相を呈しています。
心の問題を解決しようとする患者は、その中で四方に引き裂かれ、常識という範疇から無理やり極端(特異)な純粋性(専門性)の領域へと連れ出されます。

「患者の意識は無意識の暗号表現でしかない(精神分析)」「患者の意識は無意味で行動の観察以外必要ない(行動療法)」「意識の問題はすべて身体の問題でしかない(神経精神医学)」などと言われ、患者自身の持つ常識に従った意識的な観念は、無視され、捨て去られます。

意識と常識

人間は日常生活において、不断に継起する環境変化に、驚くほど上手く適応しながら生きています。
怒涛の勢いで押し寄せる外的刺激を上手く分別し、関係付け、自己の世界を安定的に保っています。
人間は意識という名の心的装置によって、物事を判断し、解釈し、予測します。
観察、仮説、検証という実証科学的手続きを無意識的に用い、それをもとに問題の解決方法(演繹的推論)を考えています。

そのように、多くの一般概念(理論、法則)を抽出していくことによって、生活における問題や危険に対して対処できるようになっていきます。
認知療法は、患者がすでに持つこの意識の力を積極的に用いることによって、患者自身の心の問題を解決しようとするものです。

「常識」とは、この一般概念が社会的に共有されたものでもあり、伝統や教育などを通して、人はある程度それを他者から学びます。
それもまた、私の意識によって検証にかけられ、正しい概念と、誤った概念、神話や迷信などと識別され、取捨選択されます。

物理学者のオッペンハイマーは、言います。
「すべての科学は…常識に磨きをかけ、修正し、それを適用したものとして現れてくる」
物が下に落ちるという常識的な観察の上に、万有引力の法則が発見され、水を十分温めると沸騰するという日常の観察の上に、蒸気機関が発見されます。
これと同様、日常的な「意識」の働きや事象の観察が、人間行動を体系的に記述する心理学のための基礎となるのです。

日常的な分かりきった感情や行動であっても、実際その機能は驚くほど複雑なものです。
私たちはそれを定式化しないまま、漠然と使いこなし、上手く環境に適応しています。
さらに人間は内省によって、観念と感情と行動と環境の関係を、常識を基礎とした実証科学的手続きによって把握し、心を平静に保つ方法を自助(self-help)によって探り出します。
この常識的洞察、技法を洗練することによって、体系的な精神療法を生み出すことが可能なはずです。

常識が失敗に終わる時

しかし、人間の情緒障害や異常な行動を、以上のような常識の力だけで把握することは一見不可能に思えます。
この不可能性の原因は、他者の視点という、かけがえのない重要なデータをおざなりにすることにあります。

その患者の世界の中心(視点)から、常識という道具を用いれば、理解可能なあるパターンが浮かび上がってきます。
そして、同じ情緒障害を持つ人たちにも同じようなパターンが存在すれば、特定の障害の一般的理解が可能になります。
患者の視点とそれを取り巻く世界、その認知のあり方と世界の意味付けを知ろうとしない限り、理解できないものを無理に説明するために、難解で抽象的な理論を弄することになってしまいます。

常識を超えて~認知療法

人間の情緒的混乱や行動の非合理性は、人間が世界を把握する際の、常識的な合理化のプロセスの失敗(不適切な現実の体系化や解釈の誤り)として理解できます。
非合理性を説明するために、「無意識」を仮定する必要はないのです。
人間の奥にある得体のしれない不可思議な何かが人間の非合理な行動を生み出すのではなく、誤った学習、情報、推測、判断、前提などの集積によって、患者は非合理な世界を生じさせているのです。

認知療法は、この誤りを修正することによって、心的な問題を解決し、環境に適応できるように促します。
治療者は、患者の思考の内の誤りや歪曲を同定し、患者自身の体験を現実に適応した形で統合していくのを手助けするのです。
患者は日常的に用いている問題解決の方法の基礎的な部分は変える必要はありません(例えば、先に述べた日常における実証科学的手続き)。
神経症的障害は日常体験の延長にあり、使い慣れた問題解決技法で修正することが可能なのです。

<第二章、内的コミュニケーションを求めて>

隠れたメッセージ

人間は外部の刺激や信号を受け取り、直接反応(行動、感情)を起こすのではなく、その間に思考(認知)を介在させます。
外部刺激や信号は、解読、解釈を通してのみ内へはいります。
また、この内部の心理的システムによって、外部情報は事前に取捨選択されます(例えば、お腹が痛い時はトイレにリンクする情報以外は入ってこない)。
図式化すると、<外部情報→内部システムによる情報の選別と情報の解釈→行動反応や情緒反応>。

この内的システムへの偏重が生ずると、外部から遊離し極端に歪曲された特殊な世界観を、人は持つようになります。
外部と内部の齟齬が大きくなるに従い、心理的障害が生じてくる可能性も大きくなってきます。

情緒障害が不合理で理解不可能に見えるのは、患者のこの内部システムの情報が欠如していることから生じます。
既存の精神分析や行動療法は、この内部のシステムに関する情報を活用せず、外部刺激と反応の間の不合理性を、それぞれの学派の理論で強引に補完し、合理的につなぎ合わせようとしてしまいます。

反応に先行して認知的評価が介在しているのであり、同じ状況でも評価が異なれば、反応も変化します。
動物行動の単純な刺激反応実験と異なり、人間を取り巻く環境は非常に複雑であり、出来事の認知的評価以前に反応を起こすなど考え難いでしょう。

自動思考の発見

精神分析は、患者の報告の裏側(無意識)に、報告されない抑圧された考えが存在するとします。
しかし、その報告されないものは、患者に抑圧されているわけでも検閲されているわけでもなく、ただ、気付かれていないというだけです。
患者は近視眼的にある思考に焦点を当てて語っているだけで、内部システムの全体的な関係が見えていないのです。

患者のその報告の隙間に、報告されていない別の思考が垣間見えます。
それはまるで自動的かつ瞬間的に開示されるような思考であり、「自動思考(automatic thought)」と名付けます。
まるで考えそのものが、患者の意識的な思考とは別に、自律的に振舞っているかのように、“ただ起こる”のです。
この報告されていない自動思考の流れを把握すると、患者の言動の非合理性に合理的なつながりが生じてきます。

患者にこの自動思考の存在を気付かせると、情緒反応以前にその思考を同定し、反省的にネガティブな反応を変えることができるようになります。
患者の状態が改善すると自動思考は目立たなくなり、反対に悪化すると自動思考はまた顕在化してきます。

自己観察と自己指示

人間には自己反省の能力があり、自分で自分をモニターしたり、自分との内的対話を行なったりします。
反省的に自分の状況を見極め、心中で自分と議論し、物事を決定し、それに従い自分で自分に行動の指示を与えます。
この自己観察と自己指示は、人間が計画的に目的を達成していくための重要な機能ですが、適切な範囲を超え極端になると、様々な社会的不適応反応を引き起こすことになります。

例えば、過度な自己観察が自己表現を妨げ、過度な自己対話が行為を麻痺させ、過度な自己指示が自己を強迫的に駆り立て、自己を先制的に支配する自己は、自罰や自責、無能感や罪悪感を生じさせます。

規則および内的信号

同じ状況下においても、人はそれぞれ別様に世界を解釈し、異なった様々な行動をとります。
その個人それぞれに反応の傾向(パターン)が存在し、状況が異なっても決まった行動を起こす性格特性をもちます。
状況に対する反応を決定するその人特有の一般規則が存在し、それが認知の際の解釈や自己指示を基礎づけています。
その人の行為妥当性、自己評価、価値設定、目的設定などが、その自動思考(内部システム)の規則に則って決定づけら、行動、保身、対人関係の在り方が導出されます。

その内部の規則が、その人にとっての物事の判断基準や、善し悪しの評価基準となり、それに基づき自分自身や他人に対する行動の指示、行動の評価とその修正を行っていきます。
この規則が、世界という複雑な状況を理解可能なものとするための内なる法典として機能し、それが状況の解釈と行動の指標となり、経験の統合と秩序付け意味付けの枠組みを提供するのです。

この内的規則、状況、反応の三つのつながりは、三段論法の大前提、小前提、結論と類比的な関係にあります。
例えば、大前提「権威者からの忠告は全て非難だ(内的規則)」→小前提「先生が私に忠告した(状況)」→結論「私は憤慨して先生を攻撃した(反応)」。
一見、予測できない非論理的な行動や異常な情緒反応も、この大前提(内的規則)の情報を得ることが出来れば、説明可能なものとなるのです。