アーロン・ベックの『認知療法』

心理/精神

<第三章、意味と情緒>

意味の意味

精神分析は意識レベルの意味を離れ、その深部にある象徴的意味を重視し、行動主義は意識や意味を完全に無視し、両学派共に行動に対する常識的な説明を斥けます。
それに対し、認知療法は意識的な意味を大切にし、常識的な現実理解を試みます。

物事の意味には、公衆的で客観的意味と、個人的で主観的な意味があります。
例えば人間は、客観的には相手の「好き」の表現を、主観的に「嫌い」の意味に取り違えて、大切な人を失ったりします。
個人的意味はプライベートの枠内にあるため、その内実をチェックする機会が少なく、非現実的なものになりがちです。
誰かがある出来事に対し、的外れな反応や異常な反応をする時、その人は個人的な意味によって状況を誤って解釈し、現実的でない反応をなしているのです。
情緒障害の核心は、この認知の歪み、誤った意味付けにあります。

情緒への道

現象の常識的観察と一般化によって因果関係を説明することが自然科学の基礎ですが、それは心理現象においても有効です。
内省的観察の報告、外的出来事、情緒反応などの現象の個人間の比較により、その一般化をはかることが可能です。

ある出来事の特定の解釈から特定の情緒反応が生じるという類似の事例を検証することにより、解釈と情緒反応の一般的因果関係を明らかにすることができます。
どのような種類の思考(意味付け)が、どのような情緒を生み出すかという一般則を導出し、それによって情緒障害を理解することです。

「出来事に対する意味付けが情緒反応を決定する」というのが、認知モデルの基本命題です。
行動主義は「刺激→情緒」、精神分析は「刺激→無意識的衝動→情緒」、認知療法は「刺激→意識的意味→情緒」というモデルによって情緒を理解します。

個人領域

個人は自己の関心に従い、広大な世界(全領域)の対象から認知の対象を選別し、意味付け、自分の「個人領域(personal domain)」いわば自己の世界観を作り上げます。
それは、その人の関心とエネルギーを注ぐ事物が、自己を中心に集合した領域であり、友人や所有物のような有形のものから、国家や道徳のような無形の概念まで含まれます。

情緒反応の質は、ある出来事が自己の個人領域に与える影響によって変化します。
情緒はある物事が知覚され評価され、はじめて生ずるものです。
その刺激が自分(個人領域)にとって善いものであると判断(評価)されれば、喜びや安心のような情緒反応が生じ、その刺激が自分にとって悪いものであると判断(評価)されれば、悲しみや不安のような情緒反応が生じます。
以下にネガティブな情緒反応を詳述します。

悲しみ

「悲しみ」は、何かを失ったと主観的に感じる喪失体験によって生じます。
それは客観的な喪失状況ではなく、個人領域に関わる喪失体験です。
例えば、人に賞賛されて喜ぶ状況でも、嫉妬によって敵が増えると主観的に考え、悲しむ人がいます。
大金持ちの社長が千円失っても客観的にはどうでもよいことのように思えますが、お金を落とすというヘマを為す自分に自己価値の低下を感じ、悲しむ人もいます。

喪失体験は、以下のように七つに分類できます。
その人が価値をおいている有形の対象の喪失(例-高級車)、その人が価値をおいている無形の対象の喪失(例-愛情)、個人領域における価値が反転した場合、期待したものと現実の乖離、未来の喪失体験の空想、喪失可能性の想定、知覚の誤りによる擬性喪失(例、収支計算のミス)。

悲しみの反対に、喪失ではなく獲得に対する知覚や予期は、喜びや幸福感を生じさせます。

不安

自己領域を脅かす危険に対する予期が恐怖であり、その際の不快な感情が「不安」です。
危険の大きさと自身の対処能力の相関によって、不安の大きさが決定します。
いかに危険と判断されても、対処能力があると認識されていれば、不安は小さくなります。

その状況が脅威であるという判断、及びその危険の可能性、切迫性、程度などの一次評価の後、その危険に対抗、対処する能力に関しての二次評価が行われ、総合的な危険度が評定されます。
これにより、不安の強さも決定します。
勿論、この評定は主観によって行われるのであり、何をどの程度脅威であると考え、その対抗力の可能性を判断するのは、あくまでも私の個人領域(世界観)に拠ります。

怒り

「怒り」は、生物が有害なものを排除しようとする生物の反応であり、人間においては自己が攻撃、侵害されたと認知された時に生じます。

その一、直接的な侵害
他者からの物理的攻撃、精神的攻撃、強制、剥奪等、自己の安全、価値、自律、欲求、願望などが意図的に侵害されたと主観に感じられた時に、生じます。

その二、間接的な侵害
いわゆる嫉妬や羨望のように、間接的に自己が侵害される時にも、怒りは生じます。
例えば、隣人が大成功すると、相対的、間接的に自己の価値が下がるため、その隣人の存在が攻撃的であると認知されます。

その三、仮定上の侵害
状況を普遍的な仮定で見る時、自分に関係のない第三者であっても、攻撃的であると認知されます。
例えば、TVのニュースで報じられる法律違反者への怒りは、個人領域を普遍的、仮定的に伸長した時に生じます。
「もし、私があの場所にいたら大怪我をしていた」というように。
特にその人個人が考える正当性の規則や道徳律は、個人領域を守るための防壁であるため、第三者がその規則を侵害しているのを見る時、それは自己への攻撃と認知されます。
例えば、だらしない格好のヒッピーを見て怒りを覚えるビジネスマンは、彼の個人領域を守る規則の防壁をヒッピーが破ることを、自己への攻撃と認知しています。

怒りの程度
怒りの強さを決定する主な要因が二つあります。
一、その状況が意図的なものか偶発的なものか。
相手の攻撃が意図的であればあるほど怒りは増し、反対に意図のない偶発的なものであれば弱くなります。
二、その状況に正当性があるかどうか。
その攻撃に正当性や妥当性があれば怒りは弱くなり、妥当でないものや不正なものであれば怒りは強くなります。
例えば、相手が待ち合わせに遅刻してきても、電車の遅延だと分かれば怒りは弱くなります。

これらを区別する

状況に対する意味付けが分かれば、いかなる情緒が喚起されるかが予測できますが、この意味付けにおいて基軸となるものは、人生状況を解釈するその人固有の習慣的パターンです(規則および内的信号を参照)。
危険を注視しやすい人は不安になりやすく、喪失を注視しやすい人は悲しくなりやすく、相手からの侵害を注視しやすい人は怒りやすくなります。

類似の状況で異なった情緒がどのようにして起こるかを比較すれば、各々の情緒に対する意味付けの条件が明確になります。
侮辱された場合に、妥当性があると本人が考えれば自己領域の喪失体験によって「悲しみ」が生じ、妥当性がないと本人が考えれば自己領域への攻撃により「怒り」が生じます。
何かを失う場合、予期によって先取り的に喪失経験されている時には「悲しみ」が生じ、可能性として目前にあると考えられている時には危機により「不安」が生じます。
危険がある場合、自分が傷付けられることに考えが向けば「不安」が生じ、自分の危険よりも攻撃者に対して考えが向いていれば「怒り」が生じます。

「不安」「悲しみ(喜び)」「怒り」の観念作用が、「不安反応」「うつ(躁)」「妄想状態」に対応して認められます。
正常な情動と心理的障害の基本的な違いは、現実状況の歪曲の程度です。
現実状況の妥当な評価によるものか、内的要因によって心理的に歪んだものかの違いです。

<第四章、情緒障害の認知内容>

情緒障害の発症

人間は類まれな心的能力によって、世界の混沌とした無数の出来事を上手く統合し、適応的に反応、行動することができます。
しかし、その心的システムにも、個々人特有の脆弱性が存在し、その防壁の形は人それぞれです。
ある部分においては、すぐに内的な非合理的評価が現実的合理性を上回ることになり、過剰反応や不適切反応が生じ、心的障害や苦悩を伴うことになります。
論理的で落ち着いた紳士が、些細な忠告に激昂したり、普段は冷静な人が、何でもないことで取り乱したりします。
この内的不合理性の思考がある限度を超え、正常な行動や情緒がそれに呑まれると、神経症、情緒障害、心理的障害、精神科的疾患と呼ばれるものに変化します。

神経症的障害

注意の束縛、現実の歪曲、固定した思考など、神経症間には共通するものが多く、その差異は形態よりもむしろその“思考内容”にあります。
以下のように、定式化できます。

「神経症障害」-特有の観念内容
「抑うつ」-固有領域(自己領域)の価値の引き下げ
「軽躁」-固有領域の評価の膨張
「不安神経症」-固有領域に対する危険
「恐怖症」-回避可能な特有の状況に関連した危険
「パラノイド状態」-固有領域に対する不当な侵入
「ヒステリー」-運動または知覚の異常に関する概念
「強迫観念」-警戒すること、または疑うこと
「強迫行為」-危険を防ぐために特定の行為を行うようにという自己指令
(ベック著、大野裕訳『認知療法』岩崎学術出版社、67項、表1)

・抑うつ患者は、喪失と否定に関する思考に閉じ込められ、自己、人生、将来に対して失望を体験します。
解決不能な問題の中で、自発性と建設的な努力を消失し、自殺への逃避を考えるようになります。

・軽躁患者はその逆に、すべてに肯定的な意味を与え、誇大化した自己概念と非現実的な期待をもち、空回りするような非生産的行動へ駆り立てられることになります。

・不安患者は、回避不可能な危険を主題とした思考に支配され、すべてを惨事の兆候であると解釈します。
運動時の息切れは心臓発作、物音は暴漢の侵入、笑い声は自己への嘲笑、などというように、常に身体的心理的傷付きへの不安を感じ生きています。
なおかつ、自分はその危険への対処能力を持っていないと考えているため、非常に不安定な状態に置かれつづけます。

・恐怖症患者は、限定的な状況での危険にのみ脅威を感じ、不安患者のような症状を体験します。
患者の誇張され歪んだ思考により、ある特定の状況が危険だと考えられており、その状況を避けることが出来れば、恐怖を感じません。

・パラノイド患者は、常に他人が自分を害を与えようとしている、という考えに囚われています。
批判や攻撃を正当なものだと考える自己価値の低い抑うつ患者とは反対に、それを不正な者による不正な攻撃だと考え、自己価値の低下は全く体験しません。
他者からの攻撃による喪失に目を向ける抑うつ患者と違い、その攻撃の向こう側の不当性や悪意に対して目が向いています。

・強迫観念の思考内容は、一般に遠い危険に対する疑惑や警戒であり、それが不安や恐怖と異なるのは、自己の行為責任に関心が目が向いているということです。
その過剰な疑惑(強迫観念)を払拭できるのは過剰な行為(強迫行為)のみであり、戸締りに関する過剰な疑惑のために何十回も家へ引き返すことになったりします。

・ヒステリー患者がもつのは身体疾患の観念であり、その器質異常のイメージに従った身体感覚を引き起こし、感覚異常や運動機能障害を訴えます。

そして、これら神経症それぞれに、第二章で述べた内部システムの規則(反応を導く大前提となるもの)のパターンが存在しています。
例えば、うつは無条件的、断定的、否定的な規則(大前提命題)であり、恐怖症は条件的、推量的な規則です。

精神病

精神病性のものは本書の範疇を越える問題ですが、その思考内容は神経症性のものと似た内容を持っています。
精神病は神経症よりも激しい認知の障害があらわれ、より極端で奇怪であり、その非論理性と非現実性は強く、修正は困難を極めます。

 

おわり

 

※本書後半で療法について語られます。時間ができたらまた書きます。