アンダーソンの『想像の共同体』(2)歴史

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(1)のつづき

<第四章、クレオールの先駆者たち>

アメリカ大陸という特殊な場所

本章では、言語を要因としないナショナリズムとして、アメリカ諸国家について語られます。
言語においては結びついているはずの人々が、何を因子としてその国の差異と同一性を形成していったのかという考察です。

アメリカ大陸というのは移住者の世界です。
ヨーロッパ本国から移ってきた人たちが、原住民を押しのけ、管理、統治した、新しい世界です。
いわば歴史のない(事実上のリセット)場所であり、国はなく、はじめは移住者たちの行政組織があるのみでした。
この行政単位が、やがて国として独立するわけですが、この国を分割するものは、当然、ヨーロッパのような言語の分化、変遷(歴史)によるものではありません(彼らは同じ言葉を話す)。

言語ではなく、聖地巡礼としての共同体

ここで共同体を組織するために重要な役割を果たしたのが、「移動」です。
先に、宗教共同体が、彼らの想像の共同体を組織したのは「真実語」によってであると述べましたが、もうひとつ、重要な側面があります。
それが聖地巡礼です。
聖地を巡る旅において、彼らは共同体意識(旅の仲間)を持ちます。
メッカのカーバ神殿の前に集まる異邦人たちが、同じ場所を目的とし旅してきたのは何ゆえか、と問うた時に出る答えは「私たちは同じムスリム共同体だから」です。
真実語による想像の共同体に次いで、聖地を帰趨中心とした巡礼の旅が想像の共同体形成のための機能を果たしていたということです。
当然、言語に差異がない者の集まりの中で共同体の分化が生じる場合、この二次的な要因がせり出してくることになります。

人生の旅の仲間

例えば、サラリーマンドラマの対立構造として、親会社社員、子会社社員、出向組(親から子会社へ)、逆出向組(子から親会社へ)の各グループによる争いや差別などが描かれます。
これと同じような分化対立とグループ(共同体)構造が、親会社であるヨーロッパ本国と子会社であるアメリカ行政組織において生じたということです。

人間は、それぞれに与えられた社会役割によって、そのライフコース(人生の旅)も最終目的地(聖地)も異なります。
例えば、宮大工の家を継ぐために上京し修業の旅を経た後に帰郷を最終目的にする人と、首都という頂上を最終目的として螺旋状に上昇するために地方への赴任の旅を為す役人とでは、旅程も目的地も全く違います。

スペイン領アメリカで生まれたスペイン人であるクレオールは、どこにおいても差別に会い、彼等は非常に狭いライフコースの旅程を強いられ、最終目的地は自らの居る一行政単位の首都に限られたのです。
やがてクレオール同志は、同じライフコース(巡礼)の旅人として結束していくことになります。
「ただ偶然アメリカで生まれたというそのことだけで真のスペイン人として扱われない」のであれば、「スペインで生まれた者は真のアメリカ人にはなれない」という己が共同体の自負と結束が、クレオールに生ずることになります。

このクレオールナショナリズムは、スペインだけでなく、他のヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地においても同様の結果を見ます。
勿論、ここでも出版技術の流入によるナショナリズムの結晶化作用(行政区単位の地方紙の流行による)が機能しています。

 

<第五章、古い言語新しいモデル>

言語の相対化と結晶化

クレオールナショナリズムに次いで、ヨーロッパにおいても本格的なナショナリズムの形成が始まります。
この主要因となるものが、第一章、第二章で述べた言語「国民的出版語」です。
俗語言語の共同体が「国民」意識のベースになるといった話です。

16世紀、先にも述べたように、航海技術の発展による世界の諸文明との邂逅は、人間の多様性、歴史の多元性、言語の相対性というものの発見と自覚をもたらします。
エデン追放に始まるわれらが人間の歴史の外側に、まったく別の歴史が存在し、ヨーロッパは多くの文明の内のひとつに過ぎないという衝撃です。

この相対化における比較研究によって、「言語学」というものが生じてくることになります。
それは、等質で空虚な時間空間というマップに描かれる、言語の系統樹です。
これにより古い聖なる語は、雑種の卑しい俗語と、存在論的に同次元のものとして扱われることになります。
ここにおいて、聖なる語の地上への降格が完遂されたのです。

十九世紀には、言語学や辞書編纂や文学の黄金時代が訪れ、各俗語国民言語の結晶化作用が急速に進んでいきます。
図書館や学校は、俗語教育機関として、ほとんどナショナリズム養成所のようなものとして機能することになります。

 

<第六章、公定ナショナリズムと帝国主義>

二つのナショナリズム

ナショナリズムのベースとなるものには二種のものがあります。
ひとつは、文化を共有する者たちの範囲でまとまるものであり、先の俗語言語を共有する者たちの集まりとしての、下からのナショナリズムです。
もうひとつは、政体が地理的領域内にある複数の文化を強制的に同化し支配しようとする上からのナショナリズムです。

この俗語言語をベースとした下からのナショナリズム(国民主義)運動の突き上げは、正当性のベースが国民ではない王朝国家の君主に対し、圧力をかけます。
それに対し王朝は帝国の統一(上からのナショナリズム)のために、普遍的統一言語としての俗語言語を利用します。

キマイラとしての公定ナショナリズム

この動機も目的も全く違うナショナリズムの中で、上と下が俗語言語によって結びつくという、矛盾をかかえた奇妙なナショナリズムが成立することになります。
この矛盾をはらんだ国民と王朝の合一が「公定ナショナリズム」の実体です。
ちなみに公定ナショナリズムとは、国家主導で理念的に「国民」を掲げるナショナリズムです。
いわば君主と国民という相反するものが、その矛盾を隠蔽しながら合一したキマイラのようなものです。

共同体が、俗語でつながる「国民」として想像されはじめ、民主的国民運動の波によって押し流されようとしていたヨーロッパ諸君主の応戦が「公定ナショナリズム」なのです。
予防接種の理屈のように、相手の武器を逆手にとって、君主が国民へと帰化することにより生き残ろうという、先手をうった戦略です。
いわば国民という貸衣装を着た君主の手品によって魅せられる、イリュージョンとしてのナショナリズムです(典型はロシア帝国、その模倣としての大日本帝国など)。
当然、この矛盾を抱えた合一は、世界規模で問題を引き起こします(マジャール化したスロヴァキア人、イギリス化したインド人、日本化した朝鮮人)。

 

<第七章、最後の波>

地球を覆い尽くすナショナリズム

第一次世界大戦は王朝主義に引導を渡し、国民国家(ネーションステート)が国際規範となり、それは第二次世界大戦を経て最高潮に達します。
その最後の波はアジアやアフリカなどにも押し寄せ、植民地ナショナリズムとして結実します。

これら地域においても、アメリカ大陸植民地のクレオールナショナリズムと同様に、「巡礼の旅」が現地の人々の共同体意識を育むことになります。
各植民地の主都を聖地とし、非常に限定された地域を旅程をする、教育的巡礼(中央集権化された学校制度)と行政的巡礼の組み合わせが、植民地ナショナリズムの共同体を想像するための基礎を与えます。
「土人(ネイティヴズ)」は、この想像の共同体によって自らを「同国人(ナショナルズ)」と規定し直すのです。
植民地における二重言語のインテリゲンチャは、ヨーロッパの言語を通して、近代的な西欧文明、国民、国民国家のモデルを体現する宣教師のようなものとして機能します。

クレオールナショナリズム(第三章)、俗語ナショナリズム(第四章)、公定ナショナリズム(第五章)は、様々な形で複製、統合、編集、改良され、植民地ナショナリズムのモデルを形作ることになります。

 

<第八章、愛国心と人種主義>

ナショナリズムの基礎は憎しみではない

ナショナリズムは一般的に、他者に対する恐怖や憎悪を主因とする病的な反動形成であると考えられています。
しかし、ナショナリズムの文化的産物(文学や芸術など)を検討すると、他者への憎しみを基礎としたネガティブなものはほとんどなく、自国民(ネーション)への愛を基礎としたポジティブなものしかありません。
憎しみの要素は、国民感情の表現において重要性を持たないということです。

ナショナリズムの基礎は愛である

ナショナリズムにおいて重視されるのは、先天性、自然性を帯びたある種のゲマインシャフト的な結びつきです。
国民(ネーション)性は、選択を許されない先天的な自然の絆(肌の色、性、生れ落ちた場所、時代など)と親和性があります。
選択されたものではないという、その事実そのものが、利害を超越した無私の愛と強い連帯感を呼び起こすのです。
利益から離れたもののために生きるれば生きるほど、愛は崇高さを帯びるのです。
選択的に出入りの容易い利益共同体、いわばゲゼルシャフト的結びつきのために死ぬ人はいません。

言語というなかば先天的なもの

言語というものも、それは文化的で後天的なものというより、人間にとってなかば先天的で自然的なものとして存在しています。
人間の定義の一つとして「言語を持った動物」としばしば言われるように、言語は人間の本質として欠かせないものです。

また、人と人を同時存在的に共存させうるものは、言語だけです。
農作業における村人たちのコーラスから、現代の国歌斉唱まで、それは物理的な共振によって人々を空間的に結びつけ、共同体を体現します。

不変の国民性を体現する言語

さらに、言語による結びつきは、空間だけでなく、時間を超越した結びつきをも実現します。
言語は私と先祖、私と子孫を、結びつけます。
数百年経って、人も街並みも全く異なったものになったとしても、街を飛び交う言葉だけはあまり変わりません。
出版語によって、通時的変化を抑えられた口語俗語は、最も「変わらないもの」として、国民の間を流れていくのです。
のれんをくぐれば聞こえてくる「いらっしゃい」というかけ声を、200年前の江戸時代の人も私も同じ様に聞いており、「earth to earth,ashes to ashes,dust to dust.」という葬礼の言葉を、400年前の英国人も現代英国人も同じように呟いており、言語は最も「国民的(ナショナル)なるもの」として、変わることなく時代を超え、同国民の心をつなぐのです。

国民主義と人種主義

現代の多くの国では「帰化」によって、血や生まれの違う者が別の国民に成ることができます(高い言語能力は必須要件)。
それは「国民」というものが、言語共同体として生じたことの帰結でもあります。
勿論、正確な言語の習得のためには相当の年数を要するため、実質的には人生の短さがそれを制限します。
これにより、各国言語はある程度安定した自己同一性とプライバシーを持つことが約束されます。

この言語共同体においては、同じ言語で生活を共にし、(比喩的な意味で)一緒に国歌をコーラスできれば、人種は関係なく同じ自国民です。
この「国民主義」に対立するのが「人種主義」です。
肌の色や眼の色が違えば、いかに我が国の文化に同化しようが異邦人です。
国籍証明も流暢な言語能力も何の役にも立たず、ユダヤは永久にユダヤ、ニガーは永久にニガーなのです。

人種主義を国民主義(ナショナリズム)の一種と見るのは、本質的に誤っています。
ナショナリズムは言語の歴史の内にあり、人種主義はその歴史の外部にあります。
人種主義は、すべてを生物学的特徴に還元し、言語を無効化し、国民性を消去するのです。
“slanted eyes(つり目)”の一言で、日本人も中国人も朝鮮人も国民性を剥奪され、固有名なき同じ物体に変えられてしまうのです。

 

おわり