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アンダーソンの『想像の共同体』(1)理論

社会/政治 芸術/メディア

<はじめに>

本書のもつ意味

メディアによる人間への影響というものを考え抜いた人にマクルーハンという思想家がいます。
メディアと言っても広義のもので、車や住居なども含め、人と人をつなぐもの(中間物、メディウム、メディア)全般についての考察です。

私たちは普段、個々の事象や中身ばかりに目を向け議論するのですが、マクルーハンはもっと大きな視点からものを見ます。
人は、愛や真理や国家や人間などについてやたら議論したがりますが、彼からすればそんなものはメディアやテクノロジーなどの形式が生み出す一種の幻想のようなものに過ぎないのです。

例えば、「真理」の起源であるプラトンの弁証法(後の近代科学の帰納法)は、パピルスや羊皮紙がなければ成立しません。
複数の意見や事例をテキストとして保存できるからこそ、比較検討が可能になり、複数のものに共通する普遍概念(真理)を導き出すことができるからです。
「真理」とは、自明にはじめから存在する絶対的なものではなく、紙(テキスト)というメディアの生み出す副産物にすぎないのです。

そういうメディア論的な観点から見れば、「国民」や「国家(国民国家)」などというものも、一般に考えられているように人種や領土や政治の問題ではなく、言語というメディアによって強く規定されているという事実が理解されます。
マクルーハンは、印刷術がナショナリズムに及ぼす強い影響についても語っていましたが、簡単なアイデアスケッチのようなもので終わっています。
それを突っ込んで考えたのが、本書『想像の共同体』です。
タイトルの通り、「国民」や「国家(国民国家)」は自明に存在するものではなく、人間がある特殊な道具を持った時に想像されるもの、メディアによって発明されたもの(言語共同体)にすぎないということが語られます。

本書の構成

前半(第二章、第三章)では主に一般的な理論的考察、後半(第四章~第七章)では具体的な歴史に即したナショナリズムの記述がなされます。
序章と最終章についての解説は割愛します。
序章では、本書における「国民(ネーション)」についての定義が語られているので、先ずは大まかなイメージをつかむために引用します。

~国民を次のように定義する ことにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。
国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同のコミユニオンのイメージが生きているからである。
[ベネディクト・アンダーソン著、白石隆/白石さや訳『想像の共同体』序より]

<第二章、文化的根源>

文化システムとしての宗教と国民国家の類似性

ナショナリズムの想像力と宗教的想像力は似た関係にあります。

人は、生における混沌や死を恐れ、吹けば飛ぶような根無し草のような自己というものに不安を感じています。
何も知らされることなく強制的に与えられたこの時代、この場所、この身体という、偶然に与えられた不条理の中で、答えのない問いに苦悶しています。
宗教的世界観は、それを想像力によって埋め合わせ、人間に必然と連続性(業や輪廻、再生や不死性)を与え、いわば自己や世界というものの有意味、根付くことの出来る安心の場所を用意してくれるのです。

十八世紀西欧ナショナリズムの幕開けは、宗教的世界観の終幕と上手く重なっています。
啓蒙および合理主義的思考は、宗教的想像力の楽園を崩壊させ、人々は宗教的想像に変わる別の連続性の物語を必要としたのです。
その宗教的観念を上手く世俗的に変換してくれるものが、「国民」の観念だったのです。
たとえ日本人である私が闘い死したとしても、「ニッポン(日本人、日本国)」は永遠に不滅なのです。
ナショナリズムは、寄る辺なき浮き草のような私に、生の意味と連続性と、宿命という名の安心を与えてくれるのです。

宗教共同体を可能にしたのは聖なる書というメディア

この宗教共同体というものを可能にしたのが、聖書、聖典(聖なる言語と書かれた文字)というメディア、媒体です。
それによって地域をまたいだ巨大な共同体が想像可能になるのです。
それは数学の記号(表意文字、翻訳不可能な記号)のような普遍的な共通語として、異なる言葉をもつ人々をつなぐのです。
教会のラテン語、コーランのアラビア語、科挙の中国語などは、特権的で代替不可能な真実の語としての地位(普遍)が与えられます。

ここにおいてはナショナリズムとは正反対の可能性、「改宗」というものが生じます。
例えば、日本人である私は、アラビア語という真実語を学び、コーランを読誦することによって、ムスリムの共同体へ参入することが可能になります。

真実語の崩壊による相対化と領土化

しかし、この真実語による特権的で強固な統一的システムは、やがて崩れていきます。

第一に、戦争を契機とした東西の交流や航海技術の発展による他文化との邂逅によって、真実語は「われわれにとってのもの」となり、私たちには私たちの真実語、彼らには彼らの真実語があるということが理解されはじめます。
これは、われわれの言語と彼らの言語の比較と優劣を生じさせ、どちらがより真実かというナショナリズム的対立の萌芽があらわれるのです。

第二に、活版印刷技術の発明による「出版資本主義(print capitalism)」によって、聖なる真実語は俗語にとって代わられ、聖なる語の共同体は分裂し、複数化、地方化していきます。
日本人には分かりにくいかもしれませんが、ラテン語が俗化し、方言化したものが、ヨーロッパ諸国の言語です。
これにより、語の結びつきによる共同体が地方単位で分けられることになります。

第一、第二に共通するのは、語の相対化と領土化です。

国民を生み出す近代的時間のフォーマット

ナショナリズムを成立させる「国民」および「国民国家」を想像可能にするために必要だったのは、近代的な時間、空間感覚です。
時間や空間の観念は、時代や場所によって異なるわけですが、私たち現代人が一般的に持つのは、中世的時間にとって代った近代科学的な時間、いわゆる「等質で空虚な時間」です。

その時間感覚を喩えるなら、ロールプレイングゲームように、コマをマス目状(等質)に配する空虚な箱としての時間と空間です。
縦軸に空間的要素となるそれぞれのキャラクターや場所を区切り、横軸に時間のタイムスケジュールを区切り、そのマスを事物やイベントで埋めていきます。
そういう「等質で空虚な時間」というマス目状の基盤を前提にするからこそ、「キャラAがいま中ボスと戦っている時、後で仲間になるキャラBは地下牢に閉じ込められている」とか、「むかし別れたキャラCがダークサイドに堕ちて、ラスボスになっていま登場している」とか、見えないはずの部分を想像することができるのです。

この等質で空虚な時間空間の形式は、「国民」「国家(国民国家)」という内容を表示、想像するために必須の技術的手段であり、出版資本主義は、小説や新聞などによって、人々に対し、この時間感覚を急速に広め学習させ、強化することになります。

活版印刷によって普及しはじめた小説の構造は、等質で空虚な時間空間をベースに作られたものです。
それは、きっちりとブロックのピースをはめ込み安定させる社会的実体の観念を、現実的に想像可能とするベースとなります。
小説の物語世界(時間空間)を想像可能にするものと、国民共同体を想像可能にするものは、同じ地盤の上にあるということです。

また、新聞の機能とは、このわれわれが共有する「等質で空虚な時間」の時間というものを、日々、儀礼的に私たちに植え付けます。
軍事作戦前の兵隊たちの時計合わせのように、毎朝、大きな日付の入った新聞を読むというセレモニーによって、われわれは共有の作戦、物語、ロールプレイ(社会役割)の時間(想像の共同体の歴史)に参入するのです。

私の人生のうちで出会う日本人は数えられる程度であり、残りのほとんどの同胞に関しては、まったく知ることはありません。
それにもかかわらず、私は日本人あるいは日本という社会的有機体がこの世界(等質で空虚な時間空間)に確実に存在し、歴史という時間の中を皆で航行していることを信じ切っています。
目に見える範囲の家族や村の仲間のためであれば戦い死ぬことができる未開人から、見たこともない数千万、数億人という抽象化された仲間(国民)という想像の産物のために死ぬことができるという飛躍のためには、ある特殊な時間空間のフォーマットを学習し、それを現実のものとして想像可能にする必要があるのです。
それを推し進めたものが、出版資本主義であるということです。

 

<第三章、国民意識の起源>

俗語化の波

垂直的で特権的であった手写本による本の制作は、複製技術による水平的で世俗的な出版業にとって代られます。
出版技術は台頭してきた資本主義と結びつき、資本主義的利益追求のための出版業として、本は商品と化します。
売るために本の内容は大衆好みの幅広いものへ変化し、使用される言語もインテリ層のラテン語の狭い市場ではなく、俗語の巨大な市場をターゲットにしたものとなり、俗語化は加速していきます。

この出版資本主義は宗教改革にも強い影響を及ぼし、プロテスタントの勝利は、出版物による宗教的プロパガンダの闘争による勝利の側面が強く、ルターは最初の大衆文学作家、最初のベストセラー作家とも言えます。
出版資本主義と俗語を武器としたプロテスタントの十字砲火に、聖なるラテン語の砦に籠もるカトリックは陥落し、事実上、真実語は俗語にその座を譲り渡します。

出版語による人々の統一

しかし、最も本質的なことは、「資本主義」「印刷、出版」「人間の言語的多様性」というの三つのものの結合によって生じた作用です。
「人間の言語的多様性」は、人間にとって宿命ともいえるもので、地球に散らばる全人類を言語的に統一することは、永久に不可能でしょう。
重要なことは、この三つの結合によって生じた「出版語」というものの存在です。

言語は、代数学のような普遍的なもの(表意文字的、非恣意的)から、俗語の俗語と言えるような末端の口語まで、一種のヒエラルキー構造をなしています。
出版語はこのピラミッド状のグラデーションの中間に、国民意識の基礎となる、あるまとまりを作り上げます。
西欧においてそれは、ラテン語と口語俗語の中間に位置し、コミュニケーションの統一的な場を創出したのです。
例えば、ラテン語→フランス語(出版語)→多様なフランス口語俗語、のように。
多様すぎてお互い理解することが困難であった末端の口語俗語を使う人たちは、印刷と紙による「出版語」によって、互いを理解するための媒体および場を得たということです。

例えば、日本でも、方言が強すぎて、お互いの言葉を理解することが困難な地域の人が、コミュニケーションを取れるのは、出版物によって普及された「正しい日本語」というものを、互いが持っているからです。
ここに出版語というこの特定の言語の場に、何千万もの人たちが所属していることの意識が生じます。
この出版によって結びついた人々が、想像された共同体である「国民」意識の基礎となるのです。
方言や個人言語を使う人々を政治的に統一するものは、地理的領土ではなく、出版物の画一性(正しい語の刷り込み)によってです。

出版物による語の結晶化と口語間の差別化

複製技術は空間面の広がりだけでなく、時間的にも無限に複製可能で、それは語を安定させることになります。
出版語の出現により、十六世紀以降、語の時間的な変化速度(語の通時的変化)は著しく鈍化し、固定化し、まるで結晶と化したその語は、ある種の普遍的な時間的イメージを与え、「国民」という観念の出自(歴史)のイメージに重ねられます。
21世紀フランス人に17世紀のフランス語は理解できても、12世紀のものは理解できません。
著しく変化交配することで生まれたに過ぎない雑種である私たちの母国語は、まるで昔からある血統書付きの純血種のようなイメージにすり代わるのです。

この出版語は一つの権力となり、この出版語に近い方言や同化可能な方言を使う者たちは優遇され、出版語から遠いものや出版語を持つことの出来なかった者たちは、社会的地位を失います。
このように、「資本主義」「印刷術」「人間の言語的多様性」の偶然ともいえる結合によって、「国民」の観念のベースとなる新しい想像の共同体が準備されたのです。

 

(2)へつづく