ラッペの『小さな惑星の緑の食卓』

人生/一般 社会/政治

はじめに

ヴィーガニズムやベジタリアニズムの主な動機となるものは、1.健康・栄養面、2.倫理・宗教面、3.政治・経済面の三つです。
特に日本は神道および仏教の国なので、自然の命を重んずるという倫理的な側面が強く押し出される傾向にあります。
「大豆タンパクで十分健康でいられるのに、無益な殺生をしてまで肉を食べる必要はない」などとよく言われます。
それに対し、お肉大好きな人は「大豆作るのに農薬で虫や小動物いっぱい殺すじゃん、やってること一緒」みたいな反論をよくしています。

倫理は論理の外を探究するもの(論理で解決できない難題を扱うのもの)なので、それによって論理的に説得するのは難しいでしょう。
健康・栄養面の問題で医者に説得されて肉食を止める人はいても、動物の命を大事にするために止めろと言って止める人は稀です。
止めないどころか、凡庸な人間は倫理を説かれるとむしろ反発します。

欧米では、政治経済的文脈でこの問題が扱われることが多いのですが、日本では倫理の陰に入って隠れがちなので、今回はそれに関する名著を扱うことにしました。
フランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓』です。
これは1970年代のアメリカのお話ですので、それを現代に直接当てはめることはできませんが、本質的な問題は変わっていません。

本書の目的

先ずは本書の理解のために、翻訳者による解説をお読みください。

一九六〇年代の末以来、ラッペ女史は一つの課題について共同研究をしてきました――人類は限りある地球の食糧供給能力の、その限界にどれくらい近づいているのか、というのがそのテーマです。調査と研究がすすむにつれて彼女は、自らがその能力をどんどん減殺していくシステムの一部をなしていることに気づいて愕然とし、厳しい反省を迫られました。そして最終的につき当たったのがアメリカ人による動物性タンパク質―とりわけタンパク源としていちばん生産効率の悪い牛肉―の過食飽食問題でした。 こうして本書が執筆されることになったのです。(フランシス・ムア・ラッペ著、奥沢喜久栄訳『小さな惑星の緑の食卓』講談社、あとがきより)

お金の原理によって作られる食文化

アメリカ人はステーキが大好きです。
肉食獣さながら、それが主食であるかのように食べます。
肉食獣が肉を食べるのは先天的な自然の摂理ですが、雑食性の人間が肉を食べるのは自然本性的な必然ではなく、社会、文化的なものです。
そしてそれを決定している主な要因は、食文化というより経済的な問題だということです。

緑の革命(品種開発、化学肥料、機械化などによる農産物の生産性の爆発的増大)に見合うだけの経済的環境が整っていなかったので(要は儲けの出る値で売れない)、むしろ増えすぎた作物の処分の問題が出てきます。
様々な方法が模索される中で、最も経済的に効率のよい方法が、牛の飼料にすることだったのです。

変換装置としての食肉

牛肉100gを食卓に乗せるために必要な牛の飼料(穀物)が1600gです。
例えば、大豆100g(調理前重量)の料理を牛肉100gの料理に変えれば、実質1500gの穀物を処分することができ、かつ需要の高い牛肉に換えることができます。
牛肉でなければなりません。
なぜなら、牛は16:1ですが、豚は6:1、鶏は3:1なので、最も効率よく穀物を処分できるものが牛だからです。

食肉は植物性タンパクを動物性タンパクにする変換装置の機能を果たしているということです。
勿論、そのために牛は草ではなく、穀物で作られた飼料を食べるような環境を強制的に作られます。
脂肪の多い肥育牛は、さらに穀物の消費量が多くかつ高価な肉として売れるため、市場を賑わせるようになります。

それにより穀物の全耕地面積の五割の収穫物を家畜の餌として処分することに成功します。
アメリカ国内で消費されるトウモロコシ、大豆、オオムギなどは、その九割以上が人間ではなく家畜に与えられます。
1971年アメリカでは、人間が食べられるはずの穀物一億四千万トンが、二千万トンの肉に変換され、事実上、一億二千万トンの食物が消されたのです。
この数字は、世界中の人間(当時39億人)に毎日1カップ以上の調理された穀物を供することのできる量です。
220グラムの牛ステーキ1食で、45人分の穀物による食事を消費することになります。

飢餓を生むのは食糧不足ではなく経済のシステム

マルサスは『人口論』において、人口の増加に対し、食料を生産する土地(地球)の能力が追い付かず、人類が危機的な飢餓状態に陥ると予見しました。
人類はいかに優れた知恵によって(例、緑の革命)その問題を解決できたとしても、結局、経済的な不均衡がある限り、世界から飢餓は決してなくならないということです。
いかに多く生産したとしても、富める国、富める少数者の利益のために、それは浪費されるからです。
まさか大切な食料を処分した方が利益になるなど、当時のマルサスが予見することは不可能です。

世界でも稀なアメリカの豊かな土地の資源は、経済的利益のために、資源の効率としては最も悪い、肉の過剰消費というシステムを作り上げました。
この20年の間にアメリカ人の牛肉消費量は二倍に膨れ上がりました。
富める者は自らの健康を害してまで牛肉を過食し、その一方で貧しい人たちは国内においてさえ栄養失調状態にあります。
これがアメリカ人のステーキ好きの実態であるということです。

無駄にされる自然の力

世界中でタンパク源が貴重なものとされる中、アメリカにおいては脂肪に価値が置かれます。
タンパク含有率の低い牛、脂の多い肥育牛であるほど等級として上とされ、高く売れるのです。
勿論、これは日本の霜降り肉のような異様な脂の多さを指すのではなく、草のみで育った自然な赤身の牛肉と比較して、穀物で育てられた場合の脂肪のことです。
「アメリカ人は赤身を好む」という俗説は、過剰すぎる霜降りの和牛と比較しての話であり、彼らも適度に脂ののった柔らかい肉を好みます。

牛(反芻動物)は、草を肉に変え、タンパク質をいちから作り出す「タンパク生産工場」としての機能をもっています。
牧草を育てることくらいしかできない耕作に適さない痩せた土地からタンパク質を生み出すという、類まれな機能を果たしているのです。
しかし、アメリカでは、その牛の能力は、逆に膨大なタンパク質(穀物)を僅かなタンパク質(肉)に変換する「タンパク廃棄工場」として使われるのです。

おわりに

食事を変えたくらいでいっさいが解決されるわけではありません。
しかしそれは、現在の経済制度がでっちあげている幻想の世界で夢をみて生きながらえることを止めて、現実のほんとうの世界をより多く味わって生きるうえでの、ひとつの方法ではあります。
食事を変えることによって、世界はその真の姿を現わしてくれるでしょう。
つまり、食資源がどんどん減少しているなかで、食べものがほかの商品とちょうど同じように利潤の出所として扱われている、いやむしろ生命そのものが利潤の源に貶められている現実世界が見えてくるはずです。
ですから食事を変えることは、直截簡明に「私は選ばされない。選ぶのは私だ」と宣言するための一方法になります。
最後に繰り返し強調しておきたいのですが、それはたしかに第一歩にすぎません。
すぎませんが、なんとしても踏み出さなければならない一歩なのです。
だって考えてもみてください。私たちの先祖が敷設してきた破滅への道を、私たちの一人ひとりが拒否して、それに代わるもうひとつの道をいま選ぶことができないで、どのようにして未来にたいする責任がとれるでしょうか。
(フランシス・ムア・ラッペ著、奥沢喜久栄訳『小さな惑星の緑の食卓』講談社)

 

おわり