<第十一巻、時間>
第十四章、時間の本質
「過去」とはもはや存在しないもの、「未来」とは未だ存在しないものです。
しかし、だからといって「現在」が存在するという訳ではありません。
もし現在が常に存在し、過去へと移りゆかないなら、それは「永遠」であり、時間ではありません。
現在は過去へ移りゆくことそのものにおいて現在なのであり、いわば現在の存在理由(本質)とは、“存在しなくなること”なのです。
「存在しない(であろう)」という形で「存在する」という不思議なものが「現在」という時間であり、すなわち時間という存在は、存在しなくなることにおいて、その存在を保証されているということです。
第十五章、時間の長短
私たちは未来や過去を思う時、「長い時間」や「短い時間」などと、時間を幅の尺度によって述べます。
しかし、過去はもはや存在せず(在らず)、未来はいまだ存在しない(在らぬ)ものなので、時間として「長く在る」ことも「短く在る」こともできません。
時間の長さは現在に接続する幅(“間”のようなもの)としてのみ考えることが可能なものであり、強いて言うなら、過去の時間の長さとは「あの現在の時間は長く在った」、未来の時間の長さとは「その現在の時間は長く在るであろう」となります。
例えば、大学受験の日にそれまでの浪人生活を思う「長い一年」の場合、飛行機雲のように長い尾を引き現在に直結する、生きた時間の長さの尺度として存在しています。
しかし、定年退職した日にアルバムをめくりつつ思う浪人時代の「長い一年は」、ただ、当時の状況(昔の現在)へ戻ってそれを思考によって思い返すことによって成立する間接的、抽象的なものです。
時間の長さは現在においてのみ成り立つものであり、過去や未来の時間の長さは、間接的に現在の時間を指し示している記号や概念のようなものでしかありません。
しかし、本当にその進行する「現在」において、時間の幅の尺度は成立するものなのでしょうか。
現在はその存在理由(本質)として、そもそも幅(間)を持つことができません。
未来から過去へ瞬時に移り変転する点が現在なのであり、そこにほんの少しの間隙も許されません。
もしそこに間があれば、それは未来と過去に分かつことが可能であり、無限に分割可能になってしまいます。
もうこれ以上分割できない限界点にあるものが「現在」であり、ここにおいてはいかなる長さ(幅)もその存在を許されません。
と、いうことは、未来にも過去にも現在にも、時間の長さなど存在しないことになります。
第十六章~第十七章、矛盾
しかし、未来も過去も存在しないと言っても、私たちはやはり未来や過去を認識し、未来と過去を物語ります。
また、時間に長さが無いと言っても、私たちは、やはり時間の間隔を知覚し、時間の長短を比較し、「あれはこれの二倍長い」などと述べます。
一体、これはどういうことなのでしょうか。
これらの問題を考察してみます(前者は18~20章、後者は21章~29章に解答)。
第十八章、過去とは記憶、未来とは期待(予測)
過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しないものです。
あらゆる存在は、ただ、現在としてのみ存在する事が可能です。
ということは、過去も未来も、ただ現在において、現在との関わりにおいてのみ、成り立つるものだということになります。
つまり、現在と関わる過去とは記憶、現在と関わる未来とは期待(予測)です。
いま現在の過ぎ去る途中の感覚は心象として、記憶の中に蓄えられ、その記憶の足跡を現在において想起し眺める時、「過去」というものが成立するのです。
存在しないはずの過去が存在するという矛盾は、現在における想起の作用ということで解決します。
未来においても同様です。
いま現在在る現象や心象の中から、次に生ずることを予測すること、兆候や因果律に従い、すでに在るものからいまだ在らぬものを導き出すこと、それによって「未来」は成立するのです。
存在しないはずの未来が存在するという矛盾は、現在における予測の作用ということで解決します。
第二十章、時間の区分
私たちが一般的に考えるように、世界(外部)に未来現在過去という三つの時間が存在しているわけではありません。
存在するのは現在のみであり、厳密に言うと三つの時間とは、「未来についての現在」「現在についての現在」「過去についての現在」です。
そしてこの三つの時間は、人間の心の作用によって生ずるもの、内部に存在するものであり、人間の心以外の場所に成立することはないものです。
すなわち、未来とは予測(期待)、現在とは直視、過去とは記憶です。
第二十三章~二十四章、時間は物体の運動ではない
学者は時間を物体の運動としてとらえます。
太陽が一回転するのが一日、それを24分割したものが一時間、それを60分割したものが一分、というように。
それが水滴の運動(水時計)でも水晶振動子の運動(クォーツ時計)でも同様です。
運動そのものが時間であるということ、いわば時間とは空間の代替表現にすぎない、ということです。
目に見えない時間というものを、物理的な運動に還元し、とらえられるようにするわけです。
しかし、私はこの運動の数ともいえる時計的な時間に頼らずに、時間の幅というものを知覚しています。
時計に頼らず、ある音の発声をある音の半分として発声することも出来れば、ある音を発声した次にその二倍分沈黙することもできます。
ここで問われる時間の幅とは、学者(自然科学)の言う時間(時間を空間化することによって計られる幅)ではなく、私が生でとらえている、時間そのものにおける幅のことです。
第二十七章、時間幅の正体
未来はいまだ無いもの、過去はもはや無いものであり、現在は幅の無いものです。
その捉えられないはずの時間の幅を、時間を空間によって代理的に表現する(時計の時間)ことなく、いかにして私たちはとらえているのでしょうか。
音の時間幅によって考えてみます。
「ツー、ツーー、ツー」という音のつながりがあったとします。
二音目の「ツーー」が鳴り終わった瞬間、一音目の「ツー」の二倍の時間であるというその時間幅を知覚するためには、直近の二音目の記憶と、直近の直近の一音目の記憶との比較に拠る必要があります。
これは時間の幅というものは、現在の瞬間にあるのではなく、記憶の中にあるということです。
時間幅の無いはずの現在において、時間の幅をとらえるという矛盾は、それが直近の印象(心象)の想起であるからです。
過去になったばかりの過去を現在において想起しているので、まるでその時間幅を現在のように感じてしまっているのです。
私たちは時間を測っているのではなく、印象(心象)を測っているにすぎません。
第二十八章、時間の根源的構造
しかし、ここで精神が向かうのは過去(記憶、心象)だけではありません。
現在の音の幅を知覚するには、未来を期待しつつ、現在あるものを直視(志向、注意)しつつ、過去を記憶しつつ、ある必要があります。
精神の構造は、未来(期待)と現在(直視)と過去(記憶)に対し同時かつ分散的に向かう(広がる)とともに、それらが三位一体的に統合されています。
例えば、私が何らかのメロディーを聴く今この瞬間、その音は必ず前後の音と関連することによってしか存在しえません。
そうでないと、ただバラバラの単独音が感覚されるだけで、そこにメロディーが生じえません(厳密に言うと単独音すら知覚できない)。
かえるの歌の「ドレミファミレド」のメロディーの「ファ」を聴いている今この瞬間に、その前のミの音は物理的には消えていますが、私の中に彗星の尾のように直近の記憶心象として保持されているからこそ、「ファ」はメロディーとして現出できます。
それと同時に「ファ」の後にくるはずの未だない音も、ある程度の枠内(全体的な意味付け、プロジェクト、コンテクスト)で予測され期待されています。
まさか「ファ」の後に2オクターブ高い「レ」がきて「ドレミファ15ma_レ…」になるなど誰も予期していません。
かえるの歌のメロディー「ファ」を聴くいまこの瞬間(直視)は、その前後(期待、記憶)が一体となってはじめて成立するものなのです。
この現在における精神の三位一体構造の働きにおいて、未来は過去へと変転することができ、未来は減じ、過去は増え、やがて未来は尽き全て過去になるという「時間」が成立します。
この精神の働きは、時間の存在を保証するだけでなく、経験や諸存在や自分というものの同一性をも保証するものです。
経験および時間の成立に関してはフッサールの現象学に、諸存在および自分(現存在)の成立はハイデガーの存在論に引き継がれ、より深い考察がなされます。
アウグスティヌスの「直視」は、フッサールの「志向性」、ハイデガーの「関心(気遣い)」として姿を変えるのです。
この精神の構造を、アウグスティヌスはとても分かりやすく説明しています。
長い引用ですが、これで最後です。
私は自分の知っている歌をうたおうとしています。
うたいはじめる前には、私の期待はその歌の全体にむかっています。
ところがうたいはじめると、期待からもぎとって過去にひきわたした部分には、記憶がむかいます。
そこで私の精神活動の生きた力は、二つの方向に分散します。
一つは記憶の方向であり、それはすでにうたい終えた部分のためです。
一つは期待の方向であり、それはこれからうたおうとする部分のためです。
しかも私の直視はいまここに現在あり、それをとおって、未来であったものは移されて過去となってゆくのです。
このようなはたらきが実現されてゆくにつれて、期待はますます短縮され、記憶が長くなってゆき、ついに期待の全部が尽きはてますが、そのときその作用は完全に終わって記憶へと移るのです。
そして歌全体において行なわれるのと同じことが、歌の個々の部分においても行なわれ、その個々の音節においても行なわれます。
同じことが、その歌をおそらくその小部分としてふくむもっと長いはたらきにおいても行なわれ、また同じことが、人間のすべてのはたらきをその部分としてふくむ人間の全生涯においても行なわれ、またその同じことが、人々のすべての生涯をそのうちにふくむ人の子らの全世紀においても行なわれるのです。(山田晶訳『告白』中央公論新社)耳によって知覚された音の模像[心象]が直ちに自分のうちに形成され、記憶にとどめられるのでなければ、二番目の音節は二番目のものであるかどうか分からないことになろう。
第一の音節は耳を打って過ぎ去っており、すでにどこにもないのであるから。
いかなる話しぶりも、歌唱のいかなる甘美さも、はたまたわれわれの行動におけるいかなる体の動きも、過ぎ去り、消滅する。
また過ぎ去った身体の動きを霊[精神]が記憶にとどめ、次の動きを前の動きに行為において連続させるのでなければ、一歩も前には進まない。
ところでこの動きの記憶が保たれるには、模像[心象]としてその動きが自らの内に自らによって造り出されたのでなければならない。
また未来の動きそのものの模像[心象]がわれわれの行為の行く手に先行しているのである。
霊[精神]が思考において前もって没頭し、すべての可視的な仕事の類似物を自らのうちに先ず見て、何らかの仕方で手はずを整えてからでなければ、われわれは身体を介して何を行うであろうか。(片柳栄一訳『アウグスティヌス著作集17』教文館、[]内は当サイト管理人による補足)
おわり