はじめに
本書前半部(一巻から九巻)では、アウグスティヌスの自伝が語られ、後半(十巻から十三巻)では、哲学(神学)的な論述に入ります。
特に第十巻での心(記憶)の構造、第十一巻での時間論は後世の思想家達に強い影響を与えた重要な考察です。
本頁で扱うのはその部分のみです。
<第十巻>記憶
第八章、記憶
記憶には、感覚によって私の内に取り込まれた、事物についての無数の心象(imago-イメージの語源です-)が収められています。
感覚によってとらえられたものを、増減したり変形したりして、上手く収められています。
私はこの記憶の倉庫から、欲するものを取り出そうとします。
あるものはすぐに見付かり、あるものは奥の方に隠れ見つけ難く、あるものは列をなす芋づるのように連れ立って出てきます。
感覚という個別の通路(感覚器官)から運び込まれた心象は、それぞれの種類に従い分類され保管されています。
納められた心象には、いつ、どこで、何を為し、どんな気分であったかなど、自分自身の収蔵印も刻み込まれています。
心象とは、外部のものの似姿です。
視覚のみならず、すべて感覚から入ってくるものは姿、形(弁別特性)を持っています。
ミの音も、砂糖の甘さも、花の香りも、肌のぬくもりも、それとは違うものから自らを区別し独自性を保つため、特有の差異の特徴「かたち」をもっています。
例えば、「ミ」の音は、「2つの音の周波数が2:1の関係になる七分割された音(全音間隔5、半音間隔2)の三番目」という特徴(音の形)を有するものです。
この形を聴覚においてとらえたものが音(音の心象)です。
いま現在において取り出された心象は、ただ過去のものに結び付けられるだけでなく、未来にも結び付けられます。
心象の倉庫の中で、「次はこれをしよう、次はこれが起こる、次はこうなったらいいのに、次はこうならないでほしい」などと言います。
もし、記憶の倉庫に収められた心象が存在しなかったとすれば、人間は未来を語ることができなかったでしょう。
人間は外部にある、高い山、広い海、天体の運行などには驚愕しますが、自分の内部に関しては無関心です。
しかし、私がその海について語ることは、かつて見た海の心象、人づてに聞いた未だ見ぬ海の心象など、人間の内部に外部と同等の広がりを持っているからこそ成り立つことです。
驚くべきは、人間の内にある奥深い広大さです。
第九章~第十二章、知性
記憶の倉庫には、感覚を通ってきた心象(外部のものの似姿)では説明しきれないものがたくさん収められています。
概念(イデア)、意味、論理法則、数学的規則などの知性的なものです。
それを説明するには、人間には先天的に与えられたものが存在し、記憶の底の奥の院(持って生まれた無意識の記憶、先天的概念の野)のようなものに収蔵されており、それが外部の刺激によって呼び起こされる、と仮定するしかありません。
例えば、現実に幅や厚みのない線など存在しません。
しかし、人間の心の内には、幅のある面でもなく、さらに厚みのある立体でもなく、幅も厚みもない幾何学の線が存在します。
人間の心の内の幾何学空間や、数や量や比例などの数学的概念は、外部からの感覚を通してだけでは決して得られるものではありません。
論理学の方面でこれを考察したのが前期ウィトゲンシュタインであり、彼の言う「語りえないもの」のひとつが、この奥の院に眠る先天的な論理の規則です。
単に感覚を通ってきた心象を集めるだけの学び(物知り、歩く百科事典)ではなく、「考えること」を通した学びとは、思惟によって、この心の奥底に眠る無秩序で曖昧であったもの(知性的概念)に注意を向け、寄せ集め、整理し、いつでもすぐに取り出せるようにすることです。
この心の奥底からの想起を怠っていると、それらは再び無秩序と深い忘却の淵に沈み込んでいくため、あらためて思惟によって集め直さねばなりません。
真の教師とは、外部から生徒に知識を注入する人のことではなく(そんなことは幼児でも自分で出来ます-ポケモン全部言える子とか-)、生徒の内奥に眠るこの先天的なものを自覚させ、自身で発揮できるような状態へ導くことです。
アウグスティヌスにとって、自然科学による宇宙や自然の法則の解明は、決して外部のものの解明ではなく、人間の心の内(精神)の構造の解明でしかないのです。
例えば、光も色も外部世界に存在するものではなく、人間の感覚器官より内にあるものであり、光も色も視覚器官と精神が生み出すものです。
物理(外部)的な光や色の法則の解明は、人間の精神(内部)の法則の解明の一部(特殊)にすぎないということです。
これは生理学的な意味で言っているのではなく(生理学は自然科学の一領域にすぎません)、自然科学を成立させているものそのものの解明、存在論的なレベルの話です。
外部の広がりは内部の深さに比例しており、多くの人々はこの事実が見えていないということです。
第十三章~第十四章、私
人間は記憶する内容だけでなく、それをいつどこでどのように為しどのような感情で記憶したかということも記憶しています(記憶の記憶)。
もし、私が記憶の記憶という軸(連続性、時間性)を持っていなかったなら、私という自己同一性が成立せず、私とはただ印象と知識が無秩序に詰めこまれたガラクタ置き場のようなものとなります(詳細は第十一巻の時間論で述べます)。
記憶の内にある「私」と、記憶を記憶している「私」の区別は、意識主体、デカルト的な自己覚知(われ思うゆえに我あり)の問題に連なります。
第十八章~第十九章、忘却
私が目の前の知人の名前を忘れ、名簿を指でなぞる時、その名を忘却しながらも憶えているからこそ、該当の名に当たった時、指が止まります。
もし完全に忘れていたとしたなら、知人の名を思い出そうとも、探し求めようともしないはずですし、仮に探したとしても、答えに当たった時にそれが答えだと認識できません。
かつてそれを記憶したという記憶、そしてそれを忘却してしまったという記憶、いわば記憶の記憶がぼんやりとしてでもある限り、記憶したものは完全には失われず想起される機会があります。
第二十章~二十二章、幸福
すべての人間は幸福を探し求めています。
生まれて死ぬまでの人生とは、幸福の生を求め続ける行為の連続です(アリストテレスの項を参照)。
しかし、元々知らないものを求めることは不可能であり、人間には先天的に幸福の生の記憶が具わっていることになります。
失われたその幸福の生の記憶を探し求め、人は生きているのです。
幸福の楽園から追放された最初の人間(アダムとエヴァ)のように、楽園を求め続け、生きているのです。
その幸福の生を約束するものこそが、神のもとにある生であり、そこにおいて人間は「そうだ、これが幸福だったのだ」と、忘却していた幸福を想起するのです。
神は自己の外部にあるものでも彼方に発見するものでもなく、自己の魂の奥深くにずっと在ったのです。
私は自己の内部に沈潜し、記憶の底を貫いて、それと出会うのです。
第二十七章、詩
わたしがあなた[神]を愛したのはあまりにおそかった。
あなたはわたしのうちにおられたのに、わたしは外にあってむなしくあなたを外に求めた。
そしてわたしは醜い姿をして、あなたの創造された美しいもの[外部世界]の中に突進した。
あなたはわたしとともにおられたのに、わたしはあなたとともにはいなかった。
あなたのうちに存在しなければ、まったく存在しないもの[内部-神-を前提としてはじめて存在可能な外部世界]が、わたしをあなたから遠ざけていたのである。
(服部瑛次郎訳『告白』岩波書店、[]内は当サイト管理人による補足)