二十四、
自分が高い名誉や権力や財産を持たず、目立って社会や国家のために役立つ偉人ではない普通の人間であるということを嘆いてはなりません。
自分の権内において立派な者であることこそが、最も価値のあることだからです。
先ず、そういう自身の高潔さを育まなければ、何をしてもどんな地位についても上辺だけのものであり、不誠実で無考えで、そもそも誰かの役に立つことなど出来るはずもありません。
高潔さがあれば、君が社会でどんな場所を占めようが、立派に役に立つことができます。
二十五、
誰かがよい待遇を受け重んじられた時に、妬んだり怒ったりせず、喜ばなければなりません。
何かを受けるということは、その対価として何かを与えたわけです。
偉い人のご機嫌を取ったりマメに挨拶に伺ったりして、彼は愛顧を受けたのであり、不愛想で何もしない(何も与えない)私が愛顧を受けないのは当然です。
それを怒るというのは、何も対価を与えずに奪おうとする強盗のように、不正で卑しいことなのです。
レタスを買うために500円玉ひとつ失うように、彼は愛顧を得るために何かを失ったのであり、レタスを買わずに500円玉を支払わずに済むように、私はご機嫌を取る気苦労や足しげく通う労力を支払わずに済んだのです。
オリンピックの金メダルを受ける者をなぜ妬むのでしょうか。
私が彼と同じものを得るためには、彼と同じことをせねばなりません。
私は地獄のような練習で身体をいじめ抜く苦労を支払わずに済んだことに満足し、彼を素直に称えねばなりません。
二十六、
誰かの家の小僧が皿を割ると、私は「まあ、よくあることだ」と言います。
誰かが病気になり死んだりすると、「まあ、運命だ、仕方ない」と言ってやり過ごします。
もし、そうであるのなら、私の大切な皿を誰かが割ったとしても、あるいは私が病気で余命宣告を受けたとしても、不幸を大げさに嘆かず、「よくあることだ、仕方ない」と、自然に対処すべきでしょう。
誰しも自分のことになると、物事を客観的にとらえられず、主観的な感情で大げさに捻じ曲げてしまいます。
自然に従い対処するためには、他人の立場として見た時の冷静な意見を、思い起こせばよいだけです。
二十八、
君は自分の身体が他人に弄ばれる時、非常に怒ります。
なのに自分の心が他人に弄ばれる時、なぜ為されるがままにされ、それを恥じないのでしょうか。
他人に与えられた状況に心を動揺させたり悪口に悩まされたりすることなく、身体の自由を大切にするのと同じ様に心の自立を大切にしなければなりません。
二十九、
君が何かを志す時、その道のりをよく考察してから、はじめなければなりません。
もし、オリンピックの金メダリストを目指すなら、厳重に生活は管理され、美味しいお菓子や遊ぶ時間や酒は遠ざけられ、酷暑や極寒に堪え練習し、骨折したり大怪我したり監督にぶん殴られたり、理不尽な判定や罵倒に晒されたりし、やっとでそれを乗り越え頑張ったとしても、敗者になりもします。
この考察と覚悟がなければ、子供たちのゴッコ遊びと大差なく、いくら勇んでやったとしても、途中で泣きを入れ、惨めにその道を離れていくことになります。
三十一、
神に対して敬虔でありたければ、自己の権外にあるものを求めず、自己の権内にあるものを充足させることに集中していればよいのです。
それによって私は必然的に自然の理に適い、宇宙の調和を司る神に、隷属的にではなく主体的な関りによって従うことができるのです。
もし、権外にあるものを追求する不自然な生の中で生きれば、私は得たいものを得られず、得たくないものを得てしまい、その原因となる人々を憎み、非難することになります。
そして、その非難は究極的には神に向けられ、上手に乳を吸えない赤子が自分の無能に怒り母の乳房を叩くように、神を罵ることになるのです。
三十四、
何らかの快楽のイメージに心が囚われた時、ちょっと待ったをかけて、それを選択した時に生ずる後の後悔も併せて考えることで、それは正確な選択肢となります。
その上で、今度は、私がその快楽という選択肢を退けたなら、自分はいかなる利益を得、どれだけ好ましいものになるかを考え比較した上で、選択、決断すべきなのです。
三十五、
為さねばならぬと決断したなら、他人に何を言われようとも、人目を避けてその行為をコソコソ為してはいけません。
そんなに自分の意見に自信がなく、他人の意見が正しいと思うのなら、そもそもその行為を為すべきではないでしょう。
もし、正しいと思うなら、なぜ正しくないと非難する人たちを恐れる必要があるのでしょうか。
三十七、
もし、自分の力を越えた(権外の)役割を引き受ければ、私はそれについて十分に行えないどころが、自分の本来持っていた果たすべき可能性(権内のもの)すら失ってしまうことになります。
四十二、
誰かが君に悪いことをしたり言ったりする時、彼はそれを正しいことだと思ってやってしまっているのです。
実のところ、彼が傷付けているのは君ではなく彼自身でなのであり、むしろ君は彼に優しくしてあげるべきなのです。
彼自身が彼の権外のものを望み、自分で自分を欺き、自分で自分を苦しめているがゆえに、その欺かれ誤った考えと傷付けられた心が、君への攻撃を生み出してしまっているからです。
四十四、
「僕は君よりも裕福だ。だから僕は君より優れている」とか、「僕は君よりも雄弁だ。だから僕は君より優れている」とか、言う人がいます。
しかし、これは推論として誤っています。
正しくは、「僕は君よりも裕福だ。だから僕の財産は君より優っている」とか、「僕は君よりも雄弁だ。だから僕の演説は君より優れている」と言うべきです。
君という人間は、財産でも演説でもありません。
人間としての優劣をはかれるものは、人間性のみです。
四十六、
どんな時でも、君は知識をひけらかしてはいけません。
理論を語るのではなく、その理論から生ずる帰結を、行動によって示すことです。
おおかた沈黙し、理論を消化した上で、それに基づく行動を為すのです。
行動にならない口だけの理論は、栄養にならない食物のような無駄な虚飾でしかありません。
四十八、
進歩した人の特徴。
自分の期待を自分の力によってかなえる人。
誰をも咎めず、責めず、非難せず、褒めることもなければ、自慢することもない。
知者を気取らず、偉そうにもせず、誰かに妨害された時でも自分の責任として引き受ける。
誰かに褒められても笑い飛ばし、非難されても弁解しない。
知識を見せぬがゆえに馬鹿だ無学だと罵られても、まったく気にせず、むしろ敵対者ではなく自分自身の内の傲慢(おごり)に対し用心する。
四十九、
難しい哲学書を読解したり解説する者は、哲学者ではなく、ただの読み書きの先生です。
その言説を実行し、理論と行為を調和させる者のみが、哲学者です。
読み書きの先生が自慢できるものは、哲学書の難しさに依存する他力本願なものであり、真に自慢できるものとは、己自身で理論を実行することのみです。
聞き手も、理論の解説に感心することより、理論を生活において実行することに心を遣うべきなのです。
五十一、
君は実行すべき教説に賛成し受け入れました。
なのに、なぜ善いと思ったことや理性によって決断したことを、実行せずに先に延ばし続けるのでしょうか。
延期のたびに、君は知らず知らずのうちに退化し、何ものにも成れないまま終わります。
もう、オリンピックの競争は始まっているのです。
今こそ走り出す時です。
五十二、
哲学のうちで最も大切な第一の部分は、言説の実行に関することです。
例えば、嘘をついてはいけない、というような。
第二の部分は、その証明に関することです。
例えば、どうして嘘をつくべきではないか、というような。
第三の部分は、証明に関しての原理的なことです。
例えば、証明とは、推論とは、真偽とは、矛盾とは何か、というような。
当然、主従の関係としては、第三の部分は第二の部分のためのものであり、第二の部分は第一の部分のためのものであり、最重要の目的は第一の実行に関する部分のはずです。
しかし、実際、私たちはこの主-従(目的-手段)関係を転倒し、第三の部分に夢中で、かかりきりになり、第一の部分はまるでおろそかにしています。
ただ一生懸命に準備をするだけで、まったく実行しようとしない、走らぬ走者(ランナー)のように。
おわり
<読書案内>
現在、入手しやすいものは、岩波文庫のエピクテートス『人生談義』と、中公クラシックスのエピクテトス『語録 要録』の2タイトルです。
訳の内容はやや異なりますが、翻訳者は同じです。
岩波文庫の『人生談義』には語録と要録が完全な形で入っていますが、中公クラシックスの『語録 要録』は語録の部分が半分くらいカットされた抄訳版です。
翻訳に大差はないので、気軽に読みたい方は中公版を、しっかり読みたい方は岩波版を選択すればよいと思います。