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エピクテトスの『要録』(1)

人生/一般 哲学/思想

本書について

エピクテトスは、セネカ、マルクス・アウレリウスと並ぶ後期ストア派の哲人です。
高官であるセネカや皇帝であるマルクスとは真逆で、奴隷として哲学を学び、解放後に哲学の学校を開くことになります。
エピクテトス自身の著作は残っておらず、教え子(アリアノス)の正確な師の覚え書きを集めたものが『語録』として公刊されます。
その語録を教科書的に要約したものが『要録』です。
以下、この『要録』をさらに分かりやすくし、補足しながら解説していきます。

 

『要録』

一、

世界に存在する諸々の事物のうち、あるものは私たちの権内(権力、権利のおよぶコントロール内のこと)にあり、あるものは私たちの権内にありません。
具体的に権内にあるものとは、私を主体とする活動、「考え」や「意志」、「欲望」やその反対の「忌避」などの内的なものです。
権内にないものとは、他を原因として在るもの、「肉体」や「財産」や「評判」などの外的なものです。

権内にあるものは本質的に自由で、妨害されないものですが、権内にないものは本質的に隷属的で、他に妨害されるものです。
もし、この本質を見誤り、権外の隷属的なものを自由なものだと思い込めば、その予期せぬ妨害に私は悲しみ落ち込み、周囲を非難することにもなります。

しかし、きちんとこの区別をなせば、私は誰にも隷属せず、誰にも妨げられず、誰かを非難したり怒ったりすることもありません。
それは、誰も私に危害を加えることはできず、私は誰をも敵として見ることはないということです。

いま、私が何らかのものを目的とし努力をしているなら、先ずそれをこの区別のふるいにかけて吟味し取捨選択しなければ、確実な自由と幸福は得られません。
私たちの権内にないものに対しては、「私には何の関りもない」と、きれいに捨て去るのです。

【解説】
例えば、急に身体的な病気になることは私のコントロール外(権外)のことですが、生活習慣病になるかどうかは私の権内のことに思えます。
しかし、実際に病気になるかどうかは、やはり権外のことです。
いくら糖尿病に注意してもなる時はなりますし、妙な糖質制限をして逆に糖尿病のリスクが上がることもあれば、そのせいで骨粗鬆症などの別の病気に罹る可能性もあります。
財産にしろ評判にしろ、同様に私の力だけではどうにもならない要素が含まれ、完全にコントロールできるものではありません。
エピクテトスが求めるのは完全で確実な充足、心の平和(アタラクシア)であり、中途半端な幸福は新たな煩いの元にしかなりません。
これは既存の人生訓のように、自分に可能なことと不可能なことの線引きをきちんとし、可能範囲の実になる努力のみに集中して無駄なことには時間を使うな、ということではありません(スティーブン・コヴィーの項を参照)。
そうではなく、エピクテトスが言うのは、「権内にある理性的な精神(主体)のみが自由と幸福を約束するものであり、権外にある外(客体)的なものは全て捨て去れ!」という、非常にストイックな精神論です。
要は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」ということを、哲学的に論ずるわけです。

二、

欲望の本質は欲しいものを得ること、忌避の本質は欲しくない(嫌な)ものを得ないこと、です。
だから、欲しいものを得られない者、欲しくないものを得てしまう者は、不幸です。

もし、私が権内にないもの(健康や富や評判など)を欲っし得ようとするなら、私は不幸になります。
同様に、私が権内にないもの(病気や死や貧しさや悪評など)を忌避し避けようとするなら、私は不幸になります。
なぜなら、それらは私の意に反し、得られなかったり、得てしまったりするものだからです。

四、

何をするにせよ、私の意志を自然の本性にかなうよう保持しなければなりません。

【解説】
先に述べた、「私の権内に属するもの」は自然の本性に適ったものであり、「私の権内に属さないもの」は自然から外れた不自然なものと定義付けられます。
人間は理性的な判断によって、前者の自然の本性に従い生きる限り、確実に満足した人生を送ることができ、後者の不自然なものに従うと、必然的に不幸になる、というのがエピクテトスの哲学の要点です。

五、

人々を不安にするは、事柄そのものではなく、それに対する「考え」です。
例えば、人は死そのものではなく、「死は恐ろしい」という考え自体に対し恐れているのです。
ソクラテスは「死は何ら恐くない」と考え、飄々と自ら毒杯をあおって死にました。
だから、私たちが妨害や悲しみや不安を与えられた時、その対象や他人を非難し責めるのは、自ら無学な人間であると認めるようなものなのです。
そういう時に、自分自身の考えを非難することのできる者は学のある者であり、さらに進んで、対象(他人)も自分も責めない者は学を習熟した有能な者なのです。

七、

航海の途中に下船した島で、少し道草をして、貝殻や花などを拾い集めてもいいでしょう。
けれど、つねに船長の呼びかけには気を配って、出航を命じられた時は、いつでもそれらを放棄し、乗り込む心構えで居なければなりません。
人生においても、それと同様、可愛い妻や子供などと戯れ、ささやかな幸福を楽しむのもよいでしょう。
しかし、神に呼ばれ、死の航海へと旅立つ時、それらに心惹かれず、いつでも潔く船に乗る込めるよう、心の準備をしておかねばなりません。

八、

自分の欲するように出来事が生起するのを望むのではなく、出来事の必然に沿うように自分の望みを合わせれば、つねに心穏やかに過ごすことができます。

九、

肉体(物理)的な妨害は、何ものも意志の妨げにはなりません。
例えば、片足が動かなくなることは、歩くことの妨げであり、そこに意志や心を挫く(妨げる)必然性は何らありません(エピクテトスは虐待により片足を失った)。
どんな妨害も、それぞれ何か別の部分への妨害であり、君自身(精神、意志、主体)を妨げることは決してありません。

十、

何かと出会う時、その対象に見合う能力を自分がどれだけ持っているか、客観的に反省してみることです。
そうすれば、美しい異性に出会っても、難儀な仕事に出会っても、非難や悪評に出会っても、自制力と忍耐力とを持って、万事すすめることができます。
それが習慣付けられれば、想像に心が奪い取られ無益な悲しみや不幸が生じることはありません。

十一、

私たちは、何ものかを所有し喜び、失い悲しむと考えるのではなく、ただ何ものかを借り、ただ返すと考えるべきなのです。
例えば、私は子供を所有し、子供を死によって失うのではなく、私は神によって子供を与り、死によって神に返しただけなのです。
私は土地を所有するのでも失うのでもなく、一時的に人生という期間、管理しているだけに過ぎないのです。

十二、

貧しさを恐れ仕事に必死になり、一生苦しみながら生きるより、いっそ気兼ねなく、貧しく飢えた方がよいのではないでしょうか。
何かものを盗まれて怒るより、それをいい勉強代として不動心を買ったと考え、心平らかにいた方がよいのではないでしょうか。
よくよく考えてみれば、私たちの平静を左右しうるようなものは、世の中にそれほどないのです。

十四、

「自分の家族や友人がいつまでも生きて欲しい」など、無知な者の願いでしかありません。
なぜなら、彼は、自分の権内にないものを欲し、かつ他人のもの(命)を自分のもののように考えているからです。
欲するものを得、欲しないものを避ける者は主人であり、その反対は奴隷です。
無知な者は権内にないもの(不可能、不確定)を願うことで、必然的に奴隷になるよう、自らを縛りつけるのです。
私たちは、権内にある可能なものを願うことによって、つねに主人であることができます。

十五、

宴の料理のように、チャンス(富、異性、天職、名誉、子供、等)はぐるぐると回り運ばれてきます。
卑しい目で料理を待ちわびたり、過ぎ去った料理に心を引かれたりすることなく、ただ自分の目の前に来た料理を行儀よくスマートに取ることです。
そうすれば、神々(支配者、主人)に近付き主賓となり、さらに宴の主人のようにあえて料理を見過ごし手を付けないなら、神々の仲間として迎えられます。

十六、

子供や財産を失い泣いている者があったとしても、それに心を奪われ、彼の境遇を不幸だなどと思ってはいけません。
その人の不幸はその境遇ではなく、その人が持つ「境遇についての考え」が引き起こしているものだと肝に銘じておくべきです。
心を動かされ、共に悲しみ、可能な限り慰めることは必要です。
しかし、その心像(イメージ)に呑まれてはなりません。

十七、

私たち人間は、社会という大きな劇場の、人生という長いプログラムの内にいる、俳優です。
自分に与えられた役(社会役割)を立派にこなすことが、仕事です。
演ずる役が主役であろうが、脇役であろうが、王であろうが乞食であろうが、同じことです。
優れた俳優(人間)は、いかなる役であれ全力で、プライドを持って上手に演じるものです。

十九、

名誉を持つ人や権力者や金持ちや天才などのイメージに心を奪われ、これらを称賛してはいけません。
本当に善いものとは、私たちの内(権内)にあり、その可能性を十全に実現させることのみが重要だからです。
ここに羨望や嫉妬が生じる余地はありえません。
ただ自由(主人)であろうとし、権内にないものをどうでもいいものとして扱うだけだからです。

【解説】
例えば、人間は飛べないからといって鳥に嫉妬することはありません。
なぜなら、権内にあるものとないもの(自分の可能性/不可能性)を明確に区別できているからです。
羨望や嫉妬というものは、イメージに気を取られ、理性的にこの判断が出来ていない時に生ずるものです。
私と他人は別人であり、別の可能性の内にあり、それを横断することは不可能です。
私の権外の可能性を求めるということは、ただ夢想を追うことでしかありません。
心理学的に言って、自己と他者をしっかり分化できていない未成熟な人は、自己の可能性と他者の可能性を混在させ、羨望や嫉妬を生じさせやすくなります。

二十、

君を侮辱するものは、君を罵る者ではなく、それを罵りと思う君の考えそのものです。
君を怒らせたり悲しませたりするものも、君の考えそのものです。
だから、最初のイメージに囚われるのではなく、ひと呼吸おき、落ち着いてよく考えるなら、君の心を乱すあらゆるものに打ち勝つことができるでしょう。

二十一、

毎朝、最も恐ろしいと思われるもの(自分の死)を思い浮かべるといいでしょう。
そうすれば、下らない考えや非現実的な欲望を抱くことなく、質実剛健に生きることができます。

 

(2)へつづく