偽善とは何か(2)実践

人生/一般

(1)のつづき

 

善いことをする奴が善い奴です

前項では本人の意志や態度を中心として、いわば観念的な問題として偽善について考察しましたが、実際的な問題として考えれば、端的に「善いことをする奴は善い奴、悪いことをする奴は悪い奴」です。
実利的には心の内容は外的な結果によってはかられるものです(プラグマティズムの項を参照)。
[ここで言うのはその社会(場所、時代)における法や道徳の基準に則った実際的な善悪のことであり、前項のような普遍的で相対的なものを指しているのではありません。]

例えば、二人の男性が、仕事で失敗をして上司に怒られたとします。
部下Aさんは、上司が怒ることを躊躇するくらい自罰的に「反省」を口にし、謝罪します。しかし、彼は同じ失敗を何度も繰り返します。
部下Bさんは、「反省」を口にせず、むしろ不満げで生意気な態度です。しかし、彼は次の機会までに必ず修正をし、二度と同じ失敗はしません。
実利的に見れば、心に反省の観念を持っているのは、反省が結果として現れているBさんだけです。
Aさんはただその場をしのぐために「反省しています」という言葉を使用しているだけであり、心に持っているのは反省の観念ではなく、いかに相手の怒りをかわすかの逃避の観念です。

人間の心というものは実際の結果から類推されるものであり、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」「恐いから逃げるのではなく、逃げるから恐い」となります。
勝つ者が強い奴で、負ける者が弱い奴であり、現実の結果として現れない隠れた実力など、単なる想像の産物です。
要は、現実に善いことをする奴が善い奴であり、悪いことをする奴は悪い奴なのです。
善い思いを持つがそれを行動に現さない者は、ただ、想像の中で自分は善い奴だと思っているだけです。

「普段悪いことばかりしているが、本当は善い奴」みたいなキャラが漫画やドラマによくいますが、悪いことをする奴はあくまでも悪い奴です。
「9の善いことをして1の悪いことをする奴」より、「9の悪いことをして1の善いことをする奴」の方が善い奴に見えるという、悪漢小説の作劇術(例、北野武の演出)に、結構みんな簡単に騙されます。
普段悪さをしつつ校舎の裏で野良猫を可愛がる不良少年はとても善い奴に見えますが、普段から普通にしている奴の方が本当ははるかに善い奴です(DV男によく引っかかる女子は、この辺きちんと自覚しておいた方がよいです)。

人間の意図や心ほど曖昧なものはありません。
はっきりしているものは現実の結果のみです。
そういう意味で「やらぬ善よりやる偽善」という言葉は誤りです。
やらぬ善は善でもなんでもなく、ただの思考です。
善をやったなら偽善もクソもなく、ただの善です。
心に善の観念をたくさん持つが一銭も寄付をしない者より、心に悪の観念を持つが寄付する者の方が善人です。
見えない心の中身など何とでも言えるので、信頼できる情報は現実に現れた結果のみです。

最近は、善を行動に移すのは面倒くさいので、善の観念をたくさん持つことで、それを代償しようとする道徳屋で溢れかえっています。
そして現実では何もしない道徳屋(想像だけの善人)が、現実の善人の善行を、「偽善」と言って叩き、想像だけの優越感に浸ります。
彼らは、善の思考(アイデア)だけはいっぱい持ってるので、他人の現実的な善行に満足できません。
なぜなら、現実化する善行というものは、現実の制約によって、無数のアイデアの一部を実現しただけの不完全なものであり、それは想像によって無限に肥大化した道徳屋の善の理念(理想)を満足させることが絶対にできないからです。

美少女アニメのような理想の女性が現実に存在しないように、道徳屋の描く理想の善など現実にはなく、想像の中にしか存在しません。
非暴力運動の聖人であるマハトマ・ガンジーは、家に帰ったら嫁さんをボコボコにしていたわけですが、別に彼が偽善者であるわけではありません。
そういう現実の善にあるざらつきを許容できない者は、生涯、実物の善に出会うことはないでしょう。

誰かを聖人扱いすることは最大の差別だ、と心理学者のE・フロムは言います。
聖人扱いすることで、99の善行の努力は当たり前のものとみなされ、たった1つの悪行を為しただけで、嘘つきの悪人や偽善者と罵られ、99の功績や努力はすべて無いものとされます。
道徳屋はただありもしない純白を求め、意地の悪い姑のように、そこに一片の塵を必死で探し、批判する機会をひたすら探します。
理想を主張するだけで現実化せず、実になった部分(9の善いこと)を評価せずに、ただありえない完全に照らしてその不完全性(1の悪いこと)を批判するだけの、非生産的な世界です。

善人に成りたくないのであれば、無理になる必要はないでしょう。
善人は善人として、悪人は悪人として、その道を極めればよいだけです。
現実で善いこともせずに善人に見せようとしたり、現実で悪いこともせずに悪人に見せようとしたりすることは、非常にダサイことです。
自分の善行あるいは悪行の現実的な結果を引き受けられる根性がないのなら、無理に善人悪人ぶったりせずに、普通の人として普通に生きるのが、本人にとっても周りにとっても幸せなことでしょう。

もちろん、これらは実利的に見てそういう結論になるということです。
心や過程(プロセス)の問題を加味すると、どうしても問題が複雑になり、解決が難しくなってくるので、現代の社会は「結果がすべて」の実利一辺倒に絞って物事を判断する傾向にあります。
それに則して考えれば、必然的に「善いことをする奴は善い奴、悪いことをする奴は悪い奴」となります。
この視点は心の問題を扱わないので、偽善というものが介入する余地はありません。
利害の現実的な程度ではかられるので、相手を害する善行は「偽善」ではなく、ただの「悪」と判定されるだけです。

 

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