キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』

人生/一般 心理/精神

概要

人間は死ぬ瞬間に意識を失うので「死」を経験することができず、他人の死を通しての想像や、睡眠とのアナロジーなどによって間接的にとらえるしかありません。
これは古代ギリシャの時代から言われていることです。
ですから、現実的な「死」というものは、何らかのアクシデント(死が始まる)から死ぬその瞬間までの過程や期間を指すものとなります。
本書は精神科医エリザベス・キューブラー=ロスが、死というものに直面した末期患者200名との対話を通してえた、その「死」という過程の心理学的記述です。

 

第一段階、否認

末期の病気であることを知らされた時に、先ず生じるのが「否認」です。
「そんなわけがない」「何かの間違いだと」その告知を否定するのです。
しかし、機器の故障や医師の診断ミスなど、自己の否認を支持するものを探し回りますが、遅かれ早かれ、結局、事実を前にして認めざるを得なくなります。

この否認というものは、一時的なものであれば悪いものではなく、むしろ健康な対処法(自己防衛)であり、それは急なショックによる精神的崩壊を避ける緩衝材の機能をはたしてくれます。
特にショックの大きい初期において必要な一種の精神的な麻酔であり、現実を認識し落ち着いてくるにつれ、麻酔(否認)は減少していきます。

死の瞬間まで否認を続ける患者もいましたが、200名中わずか3人だけでした。

 

第二段階、怒り

否認の段階が済み、現実を直視した時に生ずるのが、怒りや憤りや恨みや羨望などです。
この段階で生じる「なんで私なんだ、どうしてあいつじゃないんだ」という患者の言葉は、怒りや憤りが他人との比較(羨望、恨み)において発現したものです。

この怒りはあらゆるものに転移、投射され、家族やスタッフから世間のニュースにまでその矛先が向きます。
周囲の人たちは患者のもっていないもの(自由や健康など)を持っています。
慈善活動でやってきたお金持ちのお嬢さんを憎む飢えた貧民の様に、それはある程度必然的な人間の反応でもあります。

しかし、彼ら(家族やスタッフ)の活動が適切であれば、その怒りは徐々に小さくなり、無理な要求はしなくなります。
お金持ちのお嬢さんであろうがなかろうが、自分のために時間を割き親身になってくれる人に対し、いつまでも怒りを向けていられる者はごく僅かです。
問題は、患者の怒りの理由を考えず、その怒りを表面的に受け取り、個人的、感情的に反応することから生じる対立です。

家族やスタッフ自身も、死に直面し(他人の死であっても)、ある種の恐怖や自己防衛反応を伴っており、冷静に患者の怒りを受容し対処することが難しくなっています。
許容というものは、私たち自身が恐れを抱かず、自己を冷静に保つ時にのみ可能となります。

 

第三段階、取引き

この段階は期間が短く、あまり知られることがありませんが、患者にとっては死や苦痛(大きな手術など)を先延ばしするためのひとつの試みとして存在しています。
否定も怒りも通用しない時、何とかしようと別のアプローチを考え、押してもだめなら引いてみるように、気難しい態度は、とても善い態度に変わります。
死が避けられぬものであるのなら、延命のための手段を講じるまでです。

善い振る舞いをすれば、それにより、神の恩恵に与ったり、人々から特別な配慮を受けたりできるかもしれないということに、ささやかな可能性を見出すのです。
それは口外されない心の内の取引きであり、その事実は、告解室のような完全に私的な空間において述べられます。
この取引きは、二重の意味を持っています。
第一に、善良な態度をとることにより、神に気に入られ救われるのではないかという、不合理かつ情緒的な取引き。
第二に、善良な態度による、合理的な周囲の人々への働きかけによって、先延ばしする取引き。

例えば、ある女性が「結婚が近い長男の式に出席するまでは、何とか生き延びさせてください。そのためであれば私はすべてを捧げます」と、言います。
スタッフはそのために非常に努力して、彼女を結婚式に出席させることに成功します。
しかし、彼女は式から帰ってくると、「まだ私には次男がいる、その結婚式に出席させてください」と懇願します。
その善良な母の姿は、実のところ延命が目的であり、患者はその善良さによって約束のものを得たとしても、また新たな取り引きをなすことによって、再度の延命をはかろうとします。

 

第四段階、抑うつ

いかなる方法も通用せず、自身の末期状態を受け入れざるを得なくなった時、人は抑うつ状態に陥ります。
それは、万策尽き可能性を失ったということだけでなく、身体の衰弱や経済的な圧迫、失われていく容姿や友人たちや、ささやかな快楽(例えば食事)の喪失など、様々なものを失っていく中で生じるものです。

しかし、抑うつは、この喪失を原因とするものだけでなく、死への準備的な悲嘆、世界への決別の覚悟として機能する面もあります。
前者を「反応抑うつ」後者を「準備抑うつ」と名付けます。

前者の喪失体験からくる反応抑うつは、スタッフや周囲の人々の思いやりでいくらか解決することはできます。
例えば、乳がんによる乳房の切除によって、女性としての自信を失った抑うつ状態にある人に対し、女性の魅力は様々あり決して乳房だけでないことを教え、その他の魅力的な部分に気付かせることによって、自尊心を回復し沈んだ気分を軽くすることができます。

しかし、後者の心の準備(防衛機制)としての準備抑うつに対しては、その手の励ましや力づけは役に立ちません。
むしろ悲しみと向き合うことが主題であり、問題はそれを解消することにあるのではないからです。
患者が悲しみを表現することを許し、ただ黙ってそばに居ることが、彼らにとってありがたいことなのです。
反応抑うつは情動的に激しくスタッフの関りを必要としますが、準備抑うつは静かでスタッフには必要最低限の関りを求めます。
それはほとんどの場合、言葉はいらず、ただ手を握ることや、深い同意の眼差しを向けることや、隣で座っていることです。
過剰な干渉は、患者の準備を阻害することになってしまいます。

この区別の自覚がなく、患者の願望と周囲の努力が食い違う時、抑うつは悪化し、また同時に周囲の人々にも無用な懊悩が生じます。
患者も周囲の人々も、安らかな死を迎えるために、重要なことです。

 

第五段階、受容

ある程度死期が予期され患者に時間があり、周囲の若干の助けがあれば、上述の段階を経て、最後に運命を素直に受け入れる「受容」の段階に達します。
すべての闘いは終わり、怒りや羨望や悲しみは消え、自分の死を静かに見つめる休息の時を迎えます。
それは放棄や諦めという感情的なものでも、幸福感を伴う受容でもなく、ただ、ほとんどの感情を失った嬰児のような無欲求の休息状態(大人のように欲求の伴う休息ではなく)です。
ある患者はそれを「長い旅路の前の最後の休息」と表現します。

この段階において、患者の関心の狭まり、ただそっとしておいて欲しいと願います。
外部の問題で心を乱されることを厭い、訪問者の数や時間を制限し、テレビやラジオは消されます。
有意義なコミュニケーションは、ただ沈黙だけであり、限られた訪問者や介抱者とともに、木の葉擦れの音や鳥のさえずりに聴き入るだけです。
すべての始末はついているので、もう何もしゃべる必要はないのです。
そこでは沈黙こそが最も雄弁なものとなっているのです。

患者の中には、死の瞬間まで否認と回避の闘いを続け、この段階に到達しない人もいますし、あるいは、むしろ周囲のスタッフが受容を弱気とみなし、患者に対し延命の闘いを鼓舞するかもしれません。
早すぎる放棄(延命への諦め)と、適切な受容の段階をきちんと判断できる力を持たないなら、スタッフは患者に善いことをするよりも害を与えることになってしまいます。
そうなれば、周囲の人々の努力は挫折として経験され、患者本人は苦しみを最後の経験として死んでゆくことになります。

勿論、これら五段階の順序は、あくまでも基本的なものであり、それぞれの段階が重なって現れたり、若干の前後の移動が生ずることもあります。

 

おわり