デカルトの『方法序説』『省察』(かんたん版)

哲学/思想

妥協なき探究者

非常に優秀な学徒であったデカルトは、真理の探究のために様々な書物を読みあさります。
しかし、当時の人文学(書物、文字による学問)の知識を極めつくした先にあったのは、学者によってただそれぞれ言うことが違うだけの、混沌とした知の迷宮でした。
そこでデカルトは書物による学び(=他人の学説を受け入れること)をすっぱりと捨て去り、自分の力で世界(世界という名の大きな書物)を解読しようとします。

まず、デカルトが目を付け考えたのは、先人たちの学説がそれぞれ異なるものとなったのは、方法や手続きの順序などの過程の問題であるということでした。
同じ研究対象や主題を扱っても、それぞれの人が何の吟味もせずに手にしたそれぞれ方法で、テキトーに推論するから生ずる相違であり、方法や手続きをきちんと確立すれば、数学の解答のように、みなが共通する結論を導出するはずだということです。
その方法の確立を描いたものが、『方法序説』という書物です。

 

解析幾何学の哲学への援用

そこで、数学史の偉人としても名を連ねる偉大な数学者でもあったデカルト(解析幾何学の創始者)は、解析学と代数学と論理学を融合した方法を構築します。
デカルトの四つの規則として有名ですが、要は与えられた対象を可能な限り分割し、単純化された確実な要素にまで解析(分析)し、今度はその確実で単純な要素を複合して複雑なものを作るという手続きです。
よく分からない(未知の)複雑な図形を与えられたとしても、それを最も単純な成立条件(定義や定理のような)にまで分割(分析)すれば、それは再構成可能な既知の図形になります。
また、その単純な要素の複合で、新たに様々な図形を、確実なものとして生み出すことができるようになります。

哲学的な問題も、この方法によって解決できるはずであり、この方法によって導き出されたもっとも単純で確実な命題こそが、「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」です。
そして、このコギトの問題を突っ込んで考察したものが、『省察』という書物です。

 

方法的懐疑からコギトへ

この最も単純で確実な要素を導出するために行われたのが、デカルトの方法的懐疑です。
それは、既存の懐疑論ではなく、あくまで確実な信念へ至るための過程(手段、方法)としての懐疑であるということです。
デカルトからすれば既存の懐疑論は学徒であった時に学んだ、満足のできない無数にある意見(学説)のひとつに過ぎません。
懐疑論にしろ虚無主義にしろ、それらは自分の足場(立場)だけはちゃっかり残しておいて、自分の都合の悪い意見をすべて葬り去るための、幼稚なレトリックでしかありません。

デカルトはさらに深いところから懐疑を発するために、夢という想定や、欺く神という概念を持ち出します。
私が絶対だと思っている意見も夢かもしれず、夢の中でも真である数学的真理(例えば、夢の中の三角形も内角の和は180度)ですら神による欺きかもしれない、という徹底的な懐疑です。
そうして疑い続けても、どうしても残るものがあります。
それは「私はある、私は存在する」ということです。
そして、この「私はある、私は存在する」が保証されるのは、それを「考えること」においてです。
こうして「我考える、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」にたどり着きます。

 

コギト(私)から外部世界へ

こうして、基礎となる絶対確実な一点を見つけ出したデカルトは、今度はそれを反転させて、私の外の存在の探求へとうつります。
体裁としては神の存在証明となっていますが、実質的には、有限な存在である私の外にある「無限で完全な存在」の探究であり、既存の神学の神とは全く違い、宇宙の存在証明に近いものです。
確実なものはコギトとしての私だけであり、そこから私の外部の実在の確実性を証明するために、デカルトは、ここではじめて近代的な認識論の図式を哲学の中に導入します。
これは、その後の哲学史の流れを大きく変えることになります。

デカルトは、私の頭の中にある事物の観念は「表現的実在性」を持ち、その表現の元(原因)となるものは「形相的実在性」を持つ、と言います。
例えば、書斎から窓の下を見下ろすと、紳士が歩いています。
私の頭の中の紳士の観念(表現的実在性)の原因(形相的実在性)は、「他人(他の人間)」であるように思われます。
もし、そうであれば、私の外の存在は証明されたのであり、何の問題もありません。

しかし、実際私が見ているものはシルクハットと燕尾服だけであり、服を脱がすと、その表現の原因が人間ではなく、自動機械である可能性もあります。
「他人(他の人間)」という原因は、私が勝手に判断したものであり、確実なものではありません。
厳密に言うと、「私は人間を見ている」ではなく、「帽子と服とその動きから推して、人間がそこにあると判断している」です。

いくらたくさんの表現的実在性を集めて、その原因である形相的実在性に近づいたとしても、その原因そのものにたどり着くことは、原理的に不可能です。
紳士に近づいて人間であることを確認しても精巧なアンドロイドかもしれませんし、ためしに解剖して確認してみても、もしかしてそれは夢の中の事物ように、私自身が勝手に作為した観念かもしれません。
結局、この方向では、外部の存在の確実性を確証することはできません。

 

神の存在証明

そこでデカルトは外の可能性を考察するのではなく、私の内にもつ観念のみから、外部世界を証明できないかを検討しはじめます。
当然、「現れ(表現的実在性)」は、「元のもの(形相的実在性)」が部分(特殊)的に表現されたものであり、「現れ」は「元のもの」より小さくなるはずです。

現れ<元になるもの

もし、私のもつ観念が私の内で構成可能なものでしかないなら、その現れの原因は私だけで済んでしまい、外部を確証することにはなりません。

現れ<元になるもの(私)

しかし、もし私のもつ観念が、私の内だけでは構成不可能な、私をはみ出してしまうほど過剰なものをもっていれば、それは私以外の外部の存在を原因として考えざるをえません。

現れ>元になるもの(私)

(現われが元になるものを上回ることは原理的に不可能なので修正)

現れ<元になるもの(私+外部のなにものか)

日常的に私を取り巻く他人や事物の観念は、私自身が持つ観念(人間、物体、神など)のみで構成可能であり、外部原因を必要としません。
しかし、神(無限、完全)の観念は、私の内にあるものだけでは構成不可能であり、はるかにはみ出してしまいます。
よって、私の外部に私以外の存在者が存在する、と結論付けます。

分かりやすく例えてみます。
「地球」という観念は、私の内にある身近な球と陸と海という観念で構成可能ですし、「宇宙」という観念は空間と星(一般化した地球)という観念で構成可能です。
未知の「宇宙人」の観念も所詮は変形された人間や動物の観念です。
しかし、無限や、永遠や、宇宙の外や、時間の始まり以前などの観念を思う時、それは私の構成可能性をはみ出し、眩暈を引き起こします。
その自己の限界の自覚が、逆照射的に自己の外部の存在を証明してしまうことになります。
なぜなら、私が外部を持たない自己完結した完全な存在であれば、自分の限界や欠如を考えることすらできなかったはずだからです。

 

デカルト哲学の何がすごいか

デカルトの言っていることが、あまりにも当たり前のことばかりなので、面白くないという意見をよく聞きます。
裏を返せば、それだけデカルトの生み出した概念が、今の私たちの「当たり前」になるくらいまで浸透してしまっているということです。
近代的自我や、解析的な思考法や、主観客観を分ける認識観や、現象学的な反省視点など、それらは私たちがもう意識しないほど自明なものとなった、思考の基本的枠組みです。

近代以後の思想家が、この枠組みを解体するために、とんでもない労力を払っていることからも分かるように(日本で言えば西田幾多郎、西洋ではフーコーなど)、デカルト以前の思想状況にとって、デカルトの出現はとんでもないことだったはずなのです。

また、哲学者と呼ばれる(または名乗る)人の九割は、ただ他人の考えを組み替えて自分の考えのように見せている人たちです。
それは、他人の古い考えを組み替えて、さも新しい考えのように見せることです。
そして、想定以上の問題に出会い、他人の意見をなぞるのではなく自分の頭で解かなければならなくなると、ニヒリズムや懐疑主義の心地よいベッドに寝転んで、考えることを止めてしまいます。
そういう面でもデカルトの自立し徹底した探究は、哲学者のひとつの理想型とも言えます。

 

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