エリスの論理療法(論理情動行動療法)

ABC理論

アルバート・エリスの生み出した心理療法である「論理療法(あるいは論理情動行動療法)」の基礎となるのが、「ABC理論」です。

「A」は「出来事(Activating event)」、実際に起こった出来事、ですが、広義には他者の意見のような抽象的なものも指します。
「B」は「信念(Belief)」、その人の世界観を作り上げる信念、その人の持つ認知の枠組みなどを指します。
「C」は「結果(Consequence)」、出来事の認知によって、結果として生じる感情や思考、生理的な反応、それに伴う行動です。

世界の成り立ち

一般的に私たちは世界というものが一つであり、それを私はきちんと認識していると思っています。
しかし、実際はそうではなく、ある一つの出来事「A」を、自分の信念「B」を通して変形した上で物事を認知し、その変形された世界の形に従って、結果「C」としての感情や思考や生理的反応や行動を生じさせています。

「物事そのもの(物事自体)」と、「私の見ている世界」は別の次元にあり、仮に物事そのものが一つであったとしても、そこから認知される世界は、人間の数だけ存在することになります。

一般に私たちは出来事(A)が、直接、結果「C」としての感情や行動に結びついていると素朴に思っており、信念(B)を自覚していません。

論理療法は、不適切な感情や思考を持ち、不適切な行動を引き起こす人に対し、この隠れた信念(B)を自覚させることによって、それを適切なものへと向け変えさせることが目的です。

ふたつの「B」

信念(belief)には、合理的なラショナルビリーフ (rational belief)と、不合理なイラショナルビリーフ (irrational belief)があります。

多くの場合、不適切な情動や行動(不適切な結果C)は、不合理な信念「イラショナルビリーフ」によって生じているため、これを反省させ、合理的な信念を伴う適切な情動や行動へ切り替えさせます(これを「認知的再体制化」といいます)。

「D、論駁」と「E、効果」

不合理な信念は、療法家(あるいは自分自身)によって、徹底的にその合理性を論駁、論争(Dispute)的に追及されることで瓦解し、合理的なものへと脱皮します。

この方法の過程を「論駁(Dispute)」として「D」、それによって生じるもの「効果(Effect)、あるいは効果的な新しい信念(Effective New Belief)、効果的な新しい人生哲学(Effective New Philosoph)」として「E」と呼び、「ABC理論」はこのA-B-C-D-Eによって完結します。

論駁、論争(Dispute)と言っても、対等な論争ではなく、療法家がクライアントに対し問い詰めていくソクラテス的な問答法(Dialectic)です。
問いを発し続けることによって、相手の論理的矛盾や不合理性を露呈させ、無知の自覚へと至らせる方法論です(ソクラテスの項を参照)。

本質は合理性ではなく社会適応

ただ、心理療法が基本的な前提とするものは社会適応です。
その社会の中で上手く生きられずに苦しんでいる人を、健やかに生きていけるよう変えていくことが目的です。
いわば、社会的に不適切なものを適切なものに変えることです。
だから、ここで言われる合理性とは、純粋に論理的なものを指しているのではなく、有益性や適切性に支えられた合理性のみを指します。

例えば、社会のためにとても有益に働き、本人自身も社会の中で適応し健やかに生きている人が、とんでもなく不合理な信念に支えられながら生きていることがよくあります。
逆に、あまりにも合理的過ぎて、社会的に不適切であると診断され、排除される人達もいます。
例えば、先に挙げたソクラテスやニーチェなどであり、これを主題とした物語がアルベール・カミュの『異邦人』です。
合理性を徹底的に追求したデカルトは、途中でその追求の手を止めます。
なぜなら、これ以上合理的であると、逆に社会や学会に自分が狂人として扱われて、自分の理論を抹殺されることを恐れたからです。

なぜかと言うと、人間の認知の構造と同様に、社会通念や法や倫理などというものが、そもそもある特定の信念(B)に支えられた特定の世界観によって作られているからです。
あまりに合理的過ぎる人間は、社会の価値の不合理性(イラショナルビリーフ)の部分を暴き出してしまうため、抹殺されざるを得ないわけです。

これに警鐘を鳴らしたのがエーリッヒ・フロムやヴィクトール・フランクルです。
不合理な社会において適切であることは、即ち不合理な人間になることだからです。
狂った社会において、精神科医や心理療法家は、無自覚のうちに狂った人間を生み出すことに加担してしまいます。

具体例

ここで、役所のお姉さんに冷たくされたことを理由に、自殺をはかった男性-太郎さん-を例に考えてみます(カミュが自殺論において挙げた例です)。
「役所の女性が冷淡な態度をとる」という出来事(A)に対し、その結果(C)がどういうものになるかは人それぞれです。

「なんやあの女、粗大ゴミでも見るような目つきで俺を見とったな。やっぱ公務員も競争に晒されんとあかんな。サービスもロボットみたいに冷たいわ!」と、飲み屋のおじさんみたいに愚痴って、すぐ忘れてしまう人。

「お仕事大変なのかな。それとも、どこか身体が悪いのか、何か嫌なことでもあったのかな。私もよくこういう気分で、人に冷たく当たることがあるわ。ちょっと反省しよ」と、冷静に考える人。

彼らがどんな信念(B)を持っているかは分かりませんが、問題なく社会生活を営んでいるので、論駁(D)の対象にはなりません。
しかし、役所の女性の態度(A)から、自殺未遂(C)という問題(社会的不適切)行動に結びつける太郎さんは、自分のもつ信念(B)に対し、論駁(D)を試み、反省しなければなりません。

論駁はつねに、太郎さんの不合理な(理が合わ不-ない-)信念に対し、理由を問い続け、その信念に根拠(理由)がないこと、あるいは理の矛盾があることを自覚させ、そこから脱するように促します。

例えば、「どうして役所の女性は、あなたを優しく迎えなければならないのでしょうか」と、いうように。
役所は市民と国を結ぶ事務的な手続きをなす場であり、心地よい接客を得る場所ではありません。
市場の接客サービスでも、太郎さんがお金を払っているからこそ、その対価として心地よさを提供してくれているだけで、お金がないと分かれば役所の女性より冷たい態度であしらわれます(大抵、口コミを恐れてそうはしませんが)。
太郎さんは役所に対し、不合理な信念による勝手な希望を持って、現実の役所にその希望を打ち砕かれて、勝手に傷付いているだけです。

また、「どうしてあなたは女性に冷たくされて、傷付く必要があるのでしょうか」という問いでもよいでしょう。
好きな女性に冷たくされて傷付くならまだしも、何の縁もないどうでもいいはずの役所の女性の態度など、本来、どうでもいいことのはずです。
その問いに対し、太郎さんが、自分は皆に愛されたいこと、自分は承認欲求が強いことなどを述べたとします。
そうしたら、「なぜあなたは皆に愛される必要があるのでしょうか」と問います。
現実的に全ての人間に愛されることは不可能であり、可能なことは特定の誰かに愛されることのみです。
評価の物差しは皆違っており、もし全ての人間に評価されたければ、人格を変幻自在に変身できるヒミツのアッコちゃんのような魔法の鏡が必要になります。

こうして、論駁(D)によって、不適応を生む不合理な信念の破棄、および現実の認識を得れば、次はそれを適応的で合理的なものへと変容する「認知的再体制化」が必要になります。
これにより「効果、あるいは効果的な人生哲学(E)」を得ることができます。

例えば、太郎さんであれば、スヌーピーの名言のように、「僕のことを好きじゃない人のことで悩んでいる暇なんて、僕にはないんだ。だって、僕のことを愛してくれる人たちのことを愛することで、忙しすぎるからね」という風になるかもしれません。


©Peanuts Worldwide LLC

勿論、このスヌーピーの名言が完全に合理的なわけでも、理の矛盾がないわけでもありません。
重要なのは、その人の状況において、最も合理的に事象の関係性をとらえ、かつ最も有益な結果をもたらすことのできる信念や観念であり、心理学者としても高名なウイリアム・ジェームズのいう意味での「真理」に近い、プラグマティックなものです。