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ソクラテスの無知の知と産婆術

哲学/思想

無知の知の基本理念

自分が無知であると知る者こそが、真の知者である。

 

知とは単なる知っているつもり

例えば、私たちは「月が地球の周りを回っていることを知っている」と思っています。
しかし、本当にそうかと自分の知識を疑ってみて調べてみると、月は地球の周りを回っているのではなく、あくまでも地球と月の間にある共通重心の周りを回っていることが分かります。
重心とは、引力とは、公転とは本当はどういうことなのか・・・、同じように自分の知識を疑い調べなおすと、自分は、何も知らないはずのことを知っていると思い込んでいただけだということがよく分かります。

幼児には「どうして?」という質問を母親に問い続ける質問期という発達段階があります。
母親もはじめはきちんと答えられますが、質問が深くなってくると答えられなくなり、途中で答えるのを止めるかはぐらかします。
なぜなら、母親は本当は答えを知らないからです。

例えば、親が子供に「円の面積はどうして求めるの?」と質問されれば、「3.14×半径の二乗だよ」と答えます。
次いで子供が質問し、「どうして3.14×半径の二乗で面積が分かるの?」と訊かれれば、答えられなくなります。
それに答えるには、円を無限角の多角形として置き換える微積分の知識が必要になってくるからです。
その親は円の面積の求め方を知っていたのではなく、ただ、教科書の数式を真似ることを知っていただけなのです。

現実的には問いは延々と続き、とどまることはありません。
本来、問いに答えはなく、「答えが出る」とは、ただ問うことをそこで止めた時に生ずる出来事なのです。
私たちは、質問期の子を持つ母親のように、問いから逃げるために、知っていると思い込むのです。
真理の前提とは、「もうこの辺でいいや」という問いへの妥協と、「本当は分かっていないけど、分かったことにしておこう」という自己欺瞞から成ります。

日本最強の知恵者である一休さんを負かした人間が一人だけいます。
“どちて坊や”という質問期の子供です。
どちて坊やに「どうして?」問い詰められて、一休さんは答えられなくなり、へたりこみます。

(C)TOEI ANIMATION CO., LTD.

 

知らないことを自覚させるソクラテスの方法

しかし、質問期の子供のように親(知者)の煙に巻かれないソクラテスは、特異な問答法によって知者を名乗る者(自称知者)の無知を徹底的に暴き出します。
問いに問いを重ね、否定の限りを尽くしてたどり着く場所には、アポリア(行き詰まり)が待っています。
プラトンが弁証法の限りを尽くしてたどりつく場所に、「真理(イデア)」を見出したのとは正反対に、ソクラテスは「無知」を見出します。

けれど、そこにある無知は、決してただの無知ではありません。
アポリアの無知の中にいる者は、自分が無知であるということを知っているからです。
それが「無知の知」です。
問答法を経る前の自称知者は、自分が無知であることをすら知ら無い、二重の無知に覆われているのです。

自称知者の知識は、本当は知らないことを知っていると思い込んでいるだけの、土台の無い空中楼閣の様なものなので、その知識なり理屈を徹底的に突き詰めて考えていけば、おのずと自壊します。
自称知者が問いを諦めて、自己欺瞞的にその知識を真理とした地点より、もっと深いところから問いを発せば、必ずその真理は崩壊します。
ソクラテスは自分自身では答えずに常に質問者の立場に身を置き、相手に問いを連発することによって、この自壊を相手の中で引き起こします。
現代思想における「脱構築」の理論の雛形にもなるこの特異なレトリックが、ソクラテスの「問答法」と「イロニー(皮肉)」です。

 

無知の自覚が学びへの扉となる

では、無知の知とはニヒリズムと同じものなのではないかと思われてしまいます。
しかし当時ソクラテスの論敵であったソフィスト達は、知を利己利益のために一般人を騙す手段(レトリック)として使用していたため、それを破壊する必要がありました。
老朽化した危険な建物を新しい建物に立て替えるためには、まずそれを解体せねばなりません。
それはより良い知(愛知-フロソフィー)を構築するために必要な無知の自覚であり、常にベクトルは未来へ向いているのです。

自分は無知だと自覚することが学びへの第一歩であって、自分は知っていると勘違いしている者には学びの可能性は閉ざされています。
実のところ、私たちに身近な、いわゆる「テスト(試験)」の本質も無知の自覚です。
知識が単なる出世(社会的地位向上)の道具に成り下がった現代の社会では、テストで良い点を取ることが目的となってしまっていますが、本当のテストの目的とは悪い点を取ることです。
テスト(試験)によって自分が所有している知識の誤りを自覚すること(無知を知ること)が目的です。
いかに無知であるかを知ることによって、修正点が明確になり、そこからさらなる勉強(真理)への可能性が開かれるのです。
科学の実験(試験)も原理的にはその目的は反証(説の誤りを自覚すること)であり、実証は結果的なものです(要は正しいかどうかではなく誤りがないかどうかの手続き)。

偉大な人たちは常に自分の無知を自覚しようとし、現状の自分に満足する人などいません(もし、いたとしたら、ハッタリで成り上がったペテン師か、昔がんばったけど今は終わっている人です)。
ある偉大な画家は、晩年になっても、「自分は鳥の一羽もまともに描けない」と、自分の無能を自覚するのです。

この無知の知、アポリア(行き詰まり)の苦しみを、ソクラテスは陣痛に喩えます。
その陣痛が語られる産婆術の有名な場面を、対話風にまとめます。

 

産婆術

[ソクラテスと青年テアイテトス(古代ギリシャの数学者、ユークリッドに先行する幾何学の英才)が、「知識とは何か」について問答している場面です。答えに窮し苦悶しているテアイテトスに対し、ソクラテスは語りかけます。]

ソクラテス
愛しきテアイテトス、これは君の精神の陣痛なのだ。
それは君が空っぽではなく、内に何か産むものをもっている証拠だ。
私の母が名のある産婆であったことは君も知っているだろうが、ここだけの話、実は私にも産婆術の心得があるのだ。
私が問答によって対話者を苦しめ、行き詰まり(アポリア)に陥れると、皆が悪い噂を流しているのを聞いたことがあるだろう。
それには理由があるのだ。

テアイテトス
一体、どのようなことでしょうか?

ソクラテス
産婆というものは、もう自身では子供を産むことのないお婆さんのつとめだね。
産婆たちは妊娠の状態を識別し、お産を助け、流産の判断もする。

テアイテトス
その通りです。

ソクラテス
私の産婆術が彼女たちと違う所は、肉体ではなく精神のお産を助けるということなのだ。
特に重要なのが、生まれてくるもの(知識)が本物か偽物かを吟味し判別する作業だ。
私は自分の言論を述べず、他人に問うてばかりだと非難されるが、それは老婆の身体と同様、私の精神にはそもそも知識を産む機能がないからなのだ。
実際、私の中から出生した知識などろくに持たないし、自分は無知な人間でしかない。
しかし、私の対話者は、私との問答が進むにつれ進歩し、その人自身の内から見事な知識を産み出すのだ。
私はただ、その手助けをしている産婆にすぎないのだ。

テアイテトス
そういうことですか。

ソクラテス
しかし、多くの者がこの事実に気付かず、自力で本物の知識を産み出したと勘違いし、未熟なまま私の元を離れ、折角生まれた子を駄目にし、お胎の中に宿っていた胎児までも流産してしまう。
そして、後になって懇願しながら戻ってくるのだ。
当然、私と共にあり対話する者は、知識という胎児のための産みの苦しみ、精神の陣痛を味わう。
健康に子を取り上げるために、陣痛を促進したり鎮めたりする力が、私の産婆術のうちにあるのだ。

テアイテトス
それが僕のいまの苦悶だという訳ですね。

ソクラテス
そう。
君の内に産むべき立派な子(知識)があり、分娩が近いと判断したからこそ、こうして問答をしているのだ。
産むものをまだ持っておらず、私を必要としていない者であると考えた場合は、優れた産婆が縁結びも上手くなすように、別の知者を紹介してやるのだ。
だから、私が君を行き詰らせ精神の陣痛(アポリア)の苦悶を与えたり、君がせっかく産み出した子を偽物だとして私が投げ捨てたとしても、けっして憤慨しないで欲しいのだ。
この精神の産婆のつとめを、多くの者が好意ではなく悪意であると誤解し、私に激しい敵意を持つことにもなった。
しかし、大切な子(知識)が産まれるかどうかの可能性や、物事の真偽を扱うような重要な場面においては、嘘や遠慮などあってはならないはずだ。
そういう訳だから、君も立派な子を産み出せるよう、懸命に取り組んで欲しいのだ。

テアイテトス
はい。
それを心して対話をつづけます。

 

おわり

 

ソクラテスの問答法へつづく