バラージュの『映画の理論』

芸術/メディア

第一章、理論のススメ

映画は他の芸術よりも大衆の心を動かす強い力を持ちます。
抗することのできない自然力に対するために自然科学が生じたように、映画のその強い力に対するためにそれを理論的に研究せねばなりません。
大学教育において文学や絵画などの芸術については盛んに教えられているのに、映画は“ついで”程度にしか語られません。

しかし、芸術と教育(さらに言えば芸術家と鑑賞者)は、つねに相関関係にあり、鑑賞者の教養のレベル(審美眼)は作り手の作品の質を要求し、それに応じる作り手(芸術家)はより高いレベルの作品を提供し、鑑賞者のレベルをさらに上げます。
芸術の前進とはこの呼応関係であり、そのために芸術に対する教養が必要になります。

映画は絵画のように、後世の人間の教養(理解)が追いつき、死後に認められることを待っている余裕はありません。
その場で受容されなければ、多額の費用を必要とする映画は作ることができません。
映画の場合は、質の高い作品を作る前に、質の高い鑑賞者を必要とするのです。

裏を返せば、製作者はある程度の成功を見積もれる程度に、鑑賞者の教養のレベルに合わせた作品しか作れません。
だからこそ、種をまく前に、それをよく耕しておく必要があります。
たんなる受身の鑑賞ではなく、鑑賞者自身が教養を持ち要求をつきつける創造的な鑑賞が必要なのです。
それはすでに出来上がった作品から学ぶ理論ではなく、批評し、期待し、企画(予見)し、促進する、美学の仕事です。

鑑賞者は作品に対し、そして芸術の発展に対しての責任の一端を担っているということを自覚せねばなりません。
[例えば、TV番組が下らない(低俗な)と一部視聴者に批判されますが、それは制作者が下らないという反面、視聴者が下らないから下らないものを求め、視聴率のために制作者も下らない番組しか作れないという面があります。]

優れた芸術作品は、ぼーっと待っていても生まれはしません。
作り手も批評家も鑑賞者も、優れた作品が生まれてくるための精神的な風土を耕し、条件を整えることによって、美の創造に参画しなければならないのです。
天才というものは周囲の支えなしには決して生まれません。

第二章、前史

舞台演劇からサイレント(無声)映画に移行すると、映画芸術の原形式ともいえる独自の様式が生じます。
セリフというものが、クローズアップによる表情や、精細な演技の動作によって置き換えられ、そこでは身振りが言葉となります。
[例えば、主人公がピアノの演奏に感動する場面。舞台であれば、普通に美しいメロディーを流して、「美しい…」と役者に呟かせればよいのですが、サイレントの場合、全景ではなく、ピアノを弾く人のショットと、役者がやや上を仰ぎ目を閉じて悦に入って軽く頭を振るような誇張的な感動の表情を、クローズアップで映す必要があります。]

初期の活動写真はサイレントでありながら、文字通り無言でした。
なぜなら、大写しの全景で汽車から降りている人を映しているだけのような映像では、セリフに変わるべき身振りが存在せず、耳栓をして舞台(大写し)を観ているようなものだからです。

身振りが言葉となるべく、それは誇張されたジェスチュアとなり、その極点として初期のチャップリンに見られるパントマイムの作劇法が生まれます。
サイレントの短所であると思われた無声を、新たな表現のスタイルの創造へと転換したわけです。
[無声を短所ととらえるのは、私たちがトーキー(有声)に親しんだ現代的な目でサイレントを見るからです。むしろバラージュはトーキーを映画独自の言語を失った退化とみます(後述)。]

第三章、新しい形式言語

では、映画芸術がたんなる撮影された演劇とは違う独自の芸術として確立されることとなった、その本質的な違いはどこにあるのでしょうか。

まず、演劇の本質的な形式を三つ挙げます。
1.鑑賞者に劇空間が分割されずに全体として与えられ、一つの巨大な額縁を眺めるような形となります。
2.観客は常に一定した不変の距離から鑑賞することを義務付けられています。
3.それは当然、「視点」が固定されてしまうことも意味します。
[当時と違い、現代の演劇では、観客が自由に動いたり劇空間内に出入りし演技に加わることの出来るものもありますが、ここでバラージュが考察の対象としているのは「撮影された演劇」です。]

映画はこれらの形式を破壊し、新たな表現形式を獲得します。
1.同一場面(シーン)でも、観客との距離が変化し、画面枠内に現れる対象の大きさが変化します。
2.場面全体が分割され、細部の画面(ショット)が生じます。
3.ショット(画面)の視点が、シーン(場面)内で変化します。
4.必然的にこれらの分割された細部をつなぎ合わせる「編集」が生じます。全景が延々と続く演劇と違い、細部の小片を組み合わせて作るモザイク装飾のように、ショット(細部)は場面(全体)へと組み上げられ、ここに編集、いわゆるモンタージュの技法が生まれます。

この革命を引き起こしたのがハリウッドの映画監督グリフィスです。
[純粋なモンタージュの創始者はグリフィスであり、エイゼンシュテインのモンタージュは別種のものです。]

この映画の新しい表現形式は、観客個人の気分や興味や偶然によって場面を眺めることを許さず、監督によって定められたモンタージュの線に従い、部分から部分へと強制的に導かれます。
監督自身の視点(世界観、解釈)と同化するように、鑑賞者の視点が合一することによって、その作り手の世界観を理解し享受します。
観客は映画に描かれた事物世界を観るのではなく、監督によって解釈された世界を観るのであって、ここに映画における作家の作家たる所以が見出されます。

同一の場面であっても、それをどう分割しどう組み立て、どういう視点と距離と間隔によって編集(モンタージュ)するかによって、監督の世界の解釈(世界観)の特性が顕れるのであり、それ以外の作家性というものは、映画独自のものではありません。
[例えば、画面が美しい映画なら絵画でもよく、哲学的な映画なら哲学でもよく、ギミックの楽しい映画なら見世物小屋でよいわけであり、そういうものはあくまで二次的なものであり、映画独自の本質的な力ではありません。]

第四章、視覚的文化

マルクスはこう述べます。
[言い回しが面倒なので、読み飛ばしても構いません。]

「人間の音楽的感覚は音楽があってはじめてよびさまされるとともに、非音楽的な耳にはもっとも美しい音楽も何らの意味をもつことなく、(何らの対象でもない。)というのは、私の対象はただ私の本質的諸力の一つを確認しうるものにすぎず、そのようなものとしてのみ私の対象は私にとって存在しうるにすぎないからである。~そういうわけであるから、社会的な人間は非社会的な人間のそれとは別の諸感覚をもつのである。人間的本質が対象的に展開されてできあがった富というものをとおして、はじめて、主観的な人間的感覚世界の富というものが生まれ出るのであり、音楽的な耳が生まれ出るのであり、形態の美に対する目が生まれ出るのであり、要するに人間的な諸々の愉楽を味わう能力をそなえた諸感覚が生まれ出るのである。~人間的本質諸力として自分自身を確認するのである。」(バラージュ著、佐々木基一訳『映画の理論』学芸書林37項より)
「対象としての芸術は、~芸術的感覚をもち美を享受する能力をもった大衆を創り出す。生産は、それゆえ、主体のための対象を生産するのみでなく、対象のための主体をも生産する。」(同上、38項)

既存の芸術学は芸術作品のみを考察の対象としますが、同等以上に重要なのは、それを観る鑑賞者の主観的な能力です。
美は客観的現実でも、独立した対象の属性でもありません。
美は社会的な人間における文化現象として存在し、芸術的文化の担い手である主観「人間」を考察せねばなりません。
「芸術の歴史」とともに「人間の歴史」が問題となるのです。

芸術作品によって人間の新たな能力が開発され、その新しい感覚能力と資質を備えた人間が、新たな芸術文化を生じさせるという、弁証法的な発展です。
映画は次々に新しい表現手法を生み、同時に鑑賞者の感覚を異様な速度で開発していきました。

例えば、田舎から出てきた女性が、はじめて都会で映画を観た時、恐怖に震え蒼ざめました。
彼女は人間の身体がバラバラにされるその映像に恐怖したのです。
映画によって開発された文化の中にいる者であれば、幼児でも自然に理解するグリフィス的なモンタージュ、顔のアップや手のアップが、芸術的感覚の未開発な彼女にはまったく理解不能だったわけです。

芸術は歴史を持ちますが、それは成長や発展ではありません。
近代絵画が中世美術より、より完全であるわけではありません。
発展するのは人間の主観的な感受性や感覚の能力です。
例えば、遠近法の有無が芸術作品の優劣を決定することはありません。
重要なことは、遠近法は芸術ではなく、人間の文化を発展させ、あらたな感受性を付加し、高い文化水準の社会に欠くことのできない要素になったということです。

第五章、視覚的人間

印刷術の発明によって、人間の表情や身振りなどの視覚情報によるメッセージの伝達方法は廃れていきます。
見る精神は読む精神となり、視覚の文化は概念の文化へと変容します。
それによって、普段の人々の顔つきや動作、姿勢までもが変化します。

この失われた視覚的人間の能力を回復させる可能性を、映画(特にサイレント)はもちます。
話さないということはメッセージがないということではなく、形態や映像、姿勢や動作を通してのみ表現できる意味や情緒で溢れているという事でもあります。
概念的人間は、身体言語(手話など)を、あくまで言語の代用品、劣った表現法として使用します。
しかし、視覚的人間は、言語では伝えられないひとつの精神的な体験や、抽象化による言語分節を許さない重層的な深層にある意味を、表情や動作のような直接的な形象化(抽象を媒介としない)によって伝えるのです。

概念的人間は、抽象化によって、合理性の網目からこぼれ落ちる様々な可能性を捨象します。
世界を文学化することによって、言語ではとらえがたい人間精神の重層性や心の全体性を失い、そして「世の中そんな単純ではない」はずの世界の本来の姿を隠蔽します。
身体は魂(精神)を失った木偶になり、まるで信号機のように、突き出た顔面から伝達される信号(記号)においてのみコミュニケーションを取るようになります。
身振りや手振りは幼稚で劣った原始人や子供のものと見なされ、大学教授のように落ち着いた動作で巧みに言語を駆使することが、人間(成人-人と成る-)の理想とされます。

私たちは、映画の出現によって、失われた視覚的人間の能力を取り戻そうとしています。
高度に洗練された言語芸術には、まだまだ及ばないにしても、可能性において勝ります。
勿論、それは概念の文化を捨て、視覚の文化に取り換えることではありません。
別にひとつの富を得るために、もうひとつの富を捨てる必要は全くありません。
合理的な概念文化によって発展した科学がなければ、いまや社会の成立も人間の進歩もありえません(むしろ科学は映画の存在条件です)。
合理的な概念を捨てて、無意識の情動によって作られた社会の先に待っていたのは、ファシズムです。

普通、人間の内に感情や思考というものがあって、それが何らかの表現手段によって表されると思いがちです。
しかし、実際は表現手段や表現する能力が、感情を目覚めさせたり、新たな概念の可能性を生み出したります。
表現能力や表現手段が増していくほど、精神の成長が促進され、表現可能な精神の幅も広がっていきます。
表情や身振りなどの視覚情報による映画言語というあらたな表現手段の獲得によって、それは一体どういう形で人間の精神を発展させるのでしょうか。

それはひとつの普遍的な意識や相互理解の精神となるでしょう。
サイレント映画は言語を使用しないため、国境を越えた普遍性を持つと一般的に考えられていますが、それだけの問題ではありません(表情や身振りに含まれる意味は、文化によって相当違います)。
そうではなく、ここで言う普遍意識や相互理解とは、映画の国際的な普及によって、世界中の人々共通に感情を呼び覚まし、共通に身振りを習得させ、また興業的にも国際的に解読可能な表現とせざるを得ないために生ずる普遍性です。

映画(サイレント)は、言語ではなく、人間を身体的な側面から、互いにつながることを助け、人間の普遍的な類型を作り出していきます。
民族や人種を内部で結合させ、親密なものとし、世界的なヒューマニズムに寄与することになります。

第六章、創造的カメラ

映画が単なる現実の複写ではなく、ひとつの創造であるための本質は、カメラによる世界の切り取り(細部)とその統合(編集)にあるということを述べました。
それが映画における作品の創造であり、作家の個性の表現です。
それは映像を素材とする建築物であり、素材(モデル)の模写ではありません。
こうして映画は、私たちが普段見ている世界に対し、もっと別の見方がありうることを提示し、それが事物(世界)の新しい可能性を開きます。

しかし、映画の新しさは、これまでとは違ったものを見せた、というだけでなく、それをこれまでとは違った仕方で見せたことです。
それは既存の美術作品において本質的な特性であった、作品と鑑賞者との距離を無くした(内的距離の止揚)ことです。
旧来の美術作品は、独自の法則に従い、自己完結した小宇宙であり、現実をモチーフにはしても、それとは完全に断絶した存在物です。
鑑賞者は絵の中に入っていくことも、彫像になることも、演劇舞台に上ることもできません。

それに対し、映画においては、観客はカメラの視点に同化し、映画世界の内部から眺め、感じ、作品を享受します。
観覧席からロミオとジュリエットを眺めるのではなく、ロミオとしてジュリエットを見上げ、ジュリエットとして地上のロミオを見下ろします。

第七章、クローズアップ

新しい形式言語の基礎は、カメラによる対象の分解である「ショット」と、それを集め配置し統合する「モンタージュ(編集)」によって、「シーン(場面)」が生み出されることにあります。

しかし、この統一性のイリュージョン(錯覚、幻想)を生み出す能力は、はじめから人間に与えられているものではなく、観客が観念を連合させる方法を、事前に学び身につけていなければなりません(そうでないと前項の田舎娘の例のように、映画を観る事ができません)。
これが視覚的文化の有無です。

勿論、その前提として、不自然ではなく統一された構成物として作品を提示できる監督のモンタージュの技量は必要です。
美しく自然に部分をつなぐ、技術です(いわゆるコンティニュイティ)。

サイレントと違い、音を使用できる映画は、この面で非常に有利になります。
モンタージュが雑であっても、背景音の連続性がそれを助け、音の変化やニュアンスによって時間や空間の連続性が表現できるからです。
例えば、ダンスホールから個室に入るシーンでは、音は徐々に小さくなり、部屋に入ると音の質が変わります(カラオケボックスの廊下に出た時のように)。
また、私たちは無意識のうちに音の質によって場所を感覚しており、音を吸収する雪国や、独特の響きを持つ森の中や、音の広がるホールや籠もる地下室など、かなりの精度で聞き分けられます。

しかし、残念ながら、トーキー(有声、有音映画)は、この表現の可能性を追求せず、音声をただの付帯的な飾りとして使用し、ある面で撮影された演劇へと退行してしまいました。
音による空間表現と映像による空間表現は、さらに高次の対位法的な表現可能性をもちながら、その能力はほとんど使われずに打ち捨てられています。
例えば、窓の外の海をぼーっと眺める横顔のショットと、遠い波音の静かな連続のみで、無限に広がる空間と無限に広がる放心する心を、非常に効果的に表現できます。

また、カメラによる対象の分解の極点である「クローズアップ」において、私たちは物の表情を発見します。
花のエロティシズムや朝日に光る蜘蛛の糸の美、笑顔の瞳の端で光る小さな涙や落ち着き払った王の震える指先、不吉を告げるテーブルの上の果物ナイフに、半開きのドアの先にある暗闇。
日常における無神経に概括化された全体世界の中で、見失われていた事物の魂は、クローズアップにおいて生き返り、私たちに新たな世界の意味可能性を開いてくれます。
それは単なる正確な細部の再現ではなく、新たな表現であり、小さきものたちへの愛(関心)によって生ずる叙情性の発露です。

第八章、人間の顔

顔のクローズアップは、怒りに震える手のアップのような身体表現の一部としてではなく、周囲に依存しない一個の自立した新しい次元の表現世界を作り出します。
観客は孤立した顔と向き合う時、周囲の空間との関係性の失った相貌という旋律(メロディー)のみを聴き取ります。

微妙な表情のニュアンスによって、様々な無言のメッセージが語られ、表情によるポリフィニー(多声音楽)は、愛しながら憎み、拒みながら肯き、偽りながら本心を語り、悲しみながら喜ぶような、人間が本来的に持つ心の重層性を見事に表現します。

音声に拘束されない(例、Oのとき唇を丸くする必要はない)サイレントにおける唇の動きは、それ自体が表現であり、クローズアップによる口の動きは無数のバリエーションと表現可能性を持ちます。
酔っ払いの千鳥足のようなしまりのない唇の動きや、怒りの蒸気機関が爆発した列車の車軸のようにまくし立てる唇の激しい回転など。
サイレントにおける語りは、聴くものではなく、見るもの(見せるもの)なのです。

表情の変化のリズムやテンポは、ためらいや焦りや期待など、様々な心の動きを表現します。
ぱっと頬を赤らめる少女の心の機微や、疑いの眼差しから信頼の目へと変わる改心せる心の動きという最高の瞬間を、他の芸術形式によって表現することは不可能です。

演劇のように大写しで観られた人間の演技は、大げさなものである必要がありますが(そうでないと見えない)、クローズアップになると反対に演技の動きが小さく抑えられることになります。
些細な演技が表現となってしまう分、俳優の演技は自然と落ち着いたものになっていきます(舞台俳優がテレビドラマで演技をすると大げさに見えるのはそのせいです)。

前項で作品と観客の相関関係を述べましたが、クローズアップの出現による演技の質の変化は、その文化の芸術趣味やムードそのものを変化させることになります。
ロマンティシズムに代わるナチュラリズムの台頭、表現主義的な激情とファンタジーから、シンプルでドライな即物的様式への変化。

それは演技だけでなく、俳優の趣味をも変化させ、ロマンチックで感情的な顔の俳優は時代遅れとなり、シンプルで抑えられた特徴の顔が人気となっていきます。
美しすぎる声や訓練されすぎた声は嫌われ、人間味のある自然な声が人の心に届くようになります。

細部の相貌が多くの場所を占めるに従い、ストーリーの居場所が減少していきます。
映画のスタイルの外向性は、内向性(内面)へと向かい、クローズアップは筋やシナリオなどの作劇を変化させます。
ストーリー展開が内面ドラマに従属し、入り組んだ筋の起伏の激しい長編物語は必要でなくなります。
大きな物語における事件の嵐(劇的状況)は、外的事件のほとんど起こらない内面や深層における嵐へと場所を変えます。

また、それはモンタージュというカメラワークの嵐によっても劇化されます。
俳優は石像のように全く動かない場面であっても、旋回し飛び回るカメラによって切り取られた細部の、激しいリズムの交替(モンタージュ)によって、劇的な場面を作ることも可能です。

単調な日常生活や、今まで気付かれもしなかった些細なものたちが劇化され、小さい事件の中にも大きな感動と刺激的な出来事があることが示されます。
しかし、筋の面白さや複雑なプロットに頼らない映画は、文学との差異を際立たせ、より映画としての個性を確立できた反面、細部だけにこだわった非常にくだらない映画が一般化していくこととなります。
クローズアップによる微視的ドラマツルギーは、他の芸術上の流行と同様に、ひとつの傾向に過ぎないということを忘れてはなりません。

第九章、変化する視点

映画における世界観

演劇や絵画の場合は視点は固定され、ひつとの遠近法において眺められるだけです。
それに対し、映画は視点を自由に変化させることができ、映画作家はそれによって客観的な現実を描きながら、同時に主観的な個性を表現することが出来ます。
目の視点とは、即ち心の観点であり、その人が何に関心を持ち、世界をどういう関係付けによって捉えているか(世界観)が分かります。
[私が『美女と野獣』の舞台作品を観劇する時、鑑賞者としてのその視点(フレーム)が、主にどこを切り取っているかによって、私のもつ価値観や世界観が開示されます。奇怪な野獣への好奇心か、美しい美女への美的関心あるいは性的関心か、ファンタジックな舞台美術への見世物小屋的な遊興心か。]

絶えず変化する視点の可動性は、観客と作品を同一化させます。
それは、車掌の視点から見る列車がカーブを曲がる際の、ヌッとしたパースの変化における運動感のような、物理的同一化だけでなく、見上げるような視点で強い人物を撮ることによって、立場の弱い者の気分へと、精神的に同一化させることができます。

ゲーテは述べます。
「環境が人間に働きかけるばかりではない。人間は逆に環境にも働きかける。自然が人間を作り、人間が自然を作る。無限の世界の中におかれた人間は、いわばこの世界を切り取って、自ら小宇宙を作り、それからその小宇宙を彼の自我イメージで満たす。(同上、125項)」
この理念を最もよく実現しうるのは、映画においてです。

風景の発見

映画において背景は人間の顔に劣らない強い観相を持ち、それはただの書き割りではなく、ひとつの表現です。
勿論、それは人物と背景の独立した表現ではなく、各々が反響的につながる表現であり、人間行動のイメージは家具や雲や樹木に織り込まれ、背景の雰囲気は人間行動を準備します(例えば、人間の悲しむシーンでは雨が降る)。

ただの客観的な「地形」は、主観的な情緒を与えられ「風景」となります。
「風景」は人間の情緒によって出現するものです。
宅配便で忙しいお兄さんに道端に咲くコスモスの花などただの「地形」であり、画家やカメラマンによって相貌として見られた時、はじめてそれは「風景」となります。
絵画や写真における静止した風景と違い、映画における風景は動作の表情を持ち、例えば刻々と表情を変え沈んでいく夕日の本当の美しさや儚さの情緒を表現することは、映画以外では不可能です。

自然はいつの時代においても芸術的主題であったわけではなく、人間の精神をそこに吹き込み、自然を人間化することによって、はじめて「風景」は成立しえたのです。
ヨーロッパではじめて、たんなる「地形」を「風景」へと転換させたのはルネサンスの芸術家であり、田園の美を鑑賞するためだけに山登りをした最初の人間はペトラルカ(詩人、文学者)です。
ヨーロッパにおける旅行がための旅行(いわゆる観光-光を観る-、他地域の風光や景色を見物する)は、近代的な発明品、文化現象です。
[柄谷行人の『風景の発見』の項を併せて読むと、より理解が深まります。]

風景による観相ひとつひとつが象徴的な意味を持ち、言語を介さぬその表現は、誰にでも開かれた表現となります。
例えば、更衣室の吊鍵にかけられ並ぶ炭坑夫の普段着のクローズアップは、こう語りかけます。
「御覧なさい。ここに人間がぶら下がっています。これは労働者が脱ぎすてて行った人間です。人間は上に止まらなければなりません。地下の坑道へ降りていくのは、機械にすぎません。機械以外の何ものでもありません。」(同上、135項)

映画の時間

モンタージュにはモンタージュ独自の時間(リズム、テンポ)というものが存在しています。
先ほど述べたように、何でもないシーンでも激しいカメラワークによって激しい場面に出来るように、草原の風景の単調な雰囲気を、動きのない長写しのカメラワークによって、より深めることが出来ます。
逆に嵐のシーンで単調なモンタージュにすると、間延びして、対象(嵐)の本質を殺してしまいます。
ショットに激しい変化や音楽的リズムとテンポを加えることによって(例えば、画面がひっくり返ったり、旋回したり、明滅したり)、嵐の荒れ狂う激しさをを表現できます(例、エイゼンシュタイン『戦艦ポチョムキン』における暴動のシーン)。

リアリズム

芸術家は対象の中の本質的な特徴(相貌)を引き出すことによって、リアルを生み出します。
この相貌を見つけることの難しい対象に対しては、芸術家自らがその対象物に相貌を投射(変形)したうえで、眺めます。
いわゆるディフォルメです。
重要なことは、その変形によって、その対象の本質が失われず、むしろ強化されることが、リアルにおけるディフォルメの条件です。
対象をそのまま引き写すことによって対象の本質を殺す者ではなく、変形によって生かす者こそ、リアリストです。
[ディフォルメとは何か、を参照]

リアリズムの本質とは、私たちの体験可能性です。
恐ろしく精緻に対象を描くハイパーレアリズム(10K画像のような絵画)が、むしろ非現実的で、シュールレアリズムのような感覚を呼び起こしたり、NHKの科学番組などで見る人体の拡大された表面や内視鏡の科学的にリアルな画像が、非常に幻想的に見えたりします。
なぜかと言うと、人間には、それほど極端に物の細部を見たり、人体内部に入り込む視点など、体験不可能だからです。
そこを見誤ると、自分はリアルな映像を作っていると思いながら、ファンタジーを作ってしまったり、ファンタジーを作っていると思いながら、全然幻想的でないことになってしまいます。

表現主義

物理的視点(=精神的観点)の創造性が映画における芸術的表現であるなら、それは必然的に何かを表していなければなりません。
何も考えない奇を衒った視点は、表現をもたない、空虚な形式の遊戯に終わるだけです。
[ただ、「なんか面白いから魚眼レンズを使おう」ということではなく、例えば「主人公の自閉的な孤独の心的表現として、魚眼レンズを使おう」などという風に、物理的視点というその表現の動機づけが、精神的観点(意味)につながっていなければならないわけです。]

「表現主義」というものは、物理的に表れるこの精神性を、物理的限界を越えてさらに表現しようというものです。
にっこり笑った笑顔の口角が物理的限界を越えてさらに上がった時(例えばニコちゃんマークみたいな)、変形は対象物の本質をより効果的に引き出します。
ヨーロッパにおけるコルセットとパニエによる身体の変形(くびれの過度の強調)は、まさに女性の身体の本質の表現主義的な誇張(理念化)です。

当然これには段階があり、例えば、繊細な少年を表現するのに、小枝のようにか細い少年を俳優として起用することもできれば、その少年自体をワイングラスのようなガラス人間として表現することも出来ます。
死や悲しみの表現として、背景で雨をふらしたり、夕日の沈む様を映したりすることもあれば、その雨を真っ赤にして血の雨として極端な表現にすることも出来ます。
画面に映るもの全てがこういう過度の表現になった純粋な表現主義の典型が、映画『カリガリ博士』です。

しかし、ここにおいては、前項で述べた映画独自の表現(ショットとモンタージュ)は、絵画的な創作性に呑み込まれ、脇に退けられています。
『カリガリ博士』は映画絵画であり、ただ、事前に作り上げられた表現(表現主義的絵画)をカメラで写しただけに過ぎません。
映画芸術がそのオリジナルにこだわるなら、創造性は、撮影や編集などの映画自体の本質規定に従って作られなければなりません。

印象主義

現実で私たちの観ているものは、正確な現実ではなく、「印象(感じ)」です。
だから、いくら慎重に細かく再現されていても、対象が少しも表現されていない映画もあれば、限られた部分のさっとした印象で、対象の本質を見事に伝えているものもあります。
例えば、大群衆の蜂起シーンで、一万人のエキストラの行進全体を細かく撮るよりも、高く突き上げられた百人の拳の方が、群集の力をより本質的に表現します。
汚い街の全体を撮るより、掃き溜めに転がるつぶれた空き缶をワンショット撮る方が、効果的にその街の印象(感じ)を伝えます。
[人間にとって、現実の出来事(リアル)というものは、印象の連合によって作られているため、情報の網羅的な集積より、むしろモンタージュの方が、リアルとして合っているわけです。]

しかし、この印象が、リアルとの臍帯を失い、対象の観相や本質の表現ではなく、印象がための印象、リアルを放棄した刹那的な情緒のみを表す時、もはや何ものをも表わさない浮動した表現の空虚な形式的遊戯となります。
何の意味もない情緒的な光景(スナップショット)が、漂う波のように流れていく、ただの雰囲気「感じ(印象)」だけの映像です。
これが印象主義です。
表現主義映画も印象主義映画も、教条的なドイツ人の手によって生み出されたのは、偶然ではありません(彼等は何でも徹底的にやりすぎ、瑞々しさを失わせる)。

間接表現

優れた作家は直接表現だけでなく、間接表現を効果的に使います。
間接表現によって想像力を喚起し、詩的効果を与え、現実の陳腐な直接性から引き剥がします。
殺人の場面を直接描くよりも、忍び寄る影によって恐怖を増幅させ、地面に落ちるバラバラになるネックレスの真珠が、砕けた魂(死)をより効果的に表現します。
[現実というものは想像以上にあっけないものです。それはいかに“想像というものが想像している現実”が構成的なものであるかを、証示しています。]

私たちの経験の大半は、間接的反響の表現に拠るのであり、例えば、雨粒よりも、水面の波紋が雨をより認識させ、美しい絵画そのものよりも、それに感動する友人の顔によって、その絵画の美しさを認識しています。
事物の表現は、事物同士が鏡のように反響的に映し合い成立しているのものであり、直接的な単体での表現においてではありません。

隠喩

また、これとは次元の異なる間接表現として、「隠喩(暗喩)」というものがあります。
読んで字のごとく「隠して喩える」表現であり、「喩え」とは代理表現のことです。

例えば、キリストの代わりに十字架を見立てて、それでキリストを表現しても、その喩え(代理表現)は全く隠れておらず、隠喩ではありません。
しかし、ラストシーンで主人公が撃たれ、手を広げ十の字になって死ぬ時、それを映す真上からのショットは、隠喩的にキリストの磔刑と死を表現します。
隠れた表現なので、それを読み取るかどうかは鑑賞者に委ねられています。

要は物語の表立った進行に並走する、隠れた表現の進行が存在し、それらが対位法的なメロディー(意味)を織りなす時、その作品に深みが生じると同時に、鑑賞者の連想作用が活性化されます。
たとえその隠喩を鑑賞者が明確に読み取らずとも、無意識的にある程度は理解しており、それなりの効果を持ちます。
例えば、民衆の蜂起によって王侯貴族が倒されるシーンで、シャンデリアが落ち砕ける時、それが物語の物理的な必然性の中で壊れるのを観ながら、同時に、豪華で煌びやかな王侯貴族の代理であることを直感的に(感じとして)把握しています。

様式

作品内部の様式と画面そのものの様式は別次元にありますが、基本的に優先されるのは画面そのものの様式です。
例えば、マイセン(ヨーロッパ最高の名窯)の陶器の中に描かれた古い中国の絵は、どう見てもヨーロッパ風の絵に見えてしまい、重々しいゴシック様式のノートルダム寺院は、モネによって描かれると印象主義的なふわりとした様式に変わってしまいます。

同様に、カメラのスタイルが内容のスタイルと合っていなければ、当然その内容の本質は失われ、別のものになってしまいます。
例えば、ゴシック風の内容を描く場合は、カメラの動きも重々しく、堂々としたショット(構図)で、格式張った厳格なモンタージュが必要になります。
印象主義風の内容を描く際は、カメラの動きも軽く、ゆらめくような、遊び心のある画面の様式が必要になります。

第十章、編集

モンタージュ

勿論、前章で述べた視点(ショット、部分)の力は、それを取り巻くコンテクスト(全体)に拠ってのみ、意味を持ちます。
絵の中の一筆の色面、音楽の一つの旋律、文章の中の一つの単語、それら部分は全体との連関によってのみ存在する関係概念です。
この全体を作り出す作業が、編集(モンタージュ)です。

人間の意識は、個々の観念をつなげて(連合)、物事に意味を付与するという、本質的な作用(観念連合)を持っています。
偶然描かれたバットの絵の横の円の図形に対し、人間は避けがたくボール(凸)としての意味を付与し、偶然描かれたシャベルの横の円の図形に対し、人間は避けがたく穴(凹)としての意味を付与してしまいます。

映画の編集とは、この意識の観念連合と想像(連想)の作用を、意図的かつ外的かつ視覚的にやろうとすることです。
要は制作者の意図した方向(表現)に、鑑賞者の観念連合を操作的に導こうとするものです。
映画とは、スクリーンに投影された、人間の意識の内的観念連合です。

例えば、映画でよくある場面、「急ぎ足で部屋を出る男」「割れて散らばった部屋の花瓶」「椅子の脚元に落ちる赤い液滴」の三つのショットによって、私たちはどうしても「争いと殺人」という全体の意味の中で観念を連合してしまいます。
事実はただ、男が机の上のトマトジュースをこぼして、慌てて花瓶を落としてしまって、洗面所にタオルを取りに走っただけだったとしても。

このようにして、編集によって個々の物事の意味は、容易に反転することが可能です(メディアリテラシーで最も注意される問題です)。
「怒りのAの顔のショット→包丁で刺す手のアップ→苦痛に顔をしかめるBの顔」を編集によって、「人を刺す恐怖に顔をしかめるBの顔→包丁で刺す手のアップ→刺された恨みの怒りに震えるAの顔」と、いう風に。

時間経過

編集による時間の流れ(テンポ)の操作は、それだけでひとつの表現的意味を持ちます。
爆発と燃焼の違いが、その燃える速度にあるように、ひとつの出来事も速度の違いによって、じれったく燃えあがる恋愛映画のようにもなれば、激しく爆発する活劇映画のようにもなり、その意味合いは大きく変わります。

時間経過というものは、人間が物事を経験として内面化するために非常に重要な心理的要素であり、無視することはできません。
例えば、印象的な夕日の美しさは、そのゆっくり落ちる速度にあり、早送りで見る夕日は、全然美しくもなく、印象にも残りません(時間の静止した写真の方がまだマシです)。

ショットの連続性

ショットをつながりとして見せたい時、ショット間に形態や雰囲気の連続性を与えなければなりません(いわゆるコンティニュイティ)。
部分と部分を連続的な観念連合としてつなぐか(同アクション内の出来事)、部分と部分を観念連合として断絶するか(別アクション内の出来事)は、事実よりも、この編集の技術に拠るところが大きいのです。

例えば、「画面右に向かって走る人間」のショットに続き、反対側のカメラから撮った同じ人のショット「画面左に向かって走る人間」をつなげれば、同じ人間が走っているのではなく、二人の人間が対決するように向かい合って走っているように(観念を連合し)見えてしまいます。
形態の連続性が考慮されていない編集で、よく起こる失敗です。

詩的(隠喩の)モンタージュ

プドフキンの映画『母』において、労働者の革命デモのシーンに並行し、その背景のショットが挿入されます。
溶けはじめた雪の滴は小川になり、それらは合流し、やがて大河となるショットです。
雪溶け水のしぶきが、春の明るい光に輝き、労働者の明るい笑顔が水溜りに映っています。

この詩的編集の効果が表現として力をもつのは、物語に密接に関連し溶け込んだ隠喩においてです。
もし、人が怒るシーンで急に地球の裏側で噴火する火山のショットを貼り付けたり、王制が倒されるシーンで王様の彫像が台座から落ち砕けるショットを挿入したり、いかにも知的で人為的な操作としての比喩であれば、映画言語は力を発揮しません。

事前に存在する思想の暗示(代替表現)としての映画言語ではなく、映画言語自体において思想の表現であらねばならないのです。
要は、映像を通して、鑑賞者の心の中に直接思想を呼び起こすべきであり、頭で見られた映像(映像から読まれた思想)を外から内に受容させるのでは駄目なのです(それは映像に映った象形文字を読ませるようなものです)。

映画の時間

モンタージュ(編集)のリズム(速度)は、その物語の持つ内的リズムの外化であり、このつながりを欠いたリズム表現は、空虚で陳腐な技巧に堕ちます。

レース場面中盤、画面は静止し車はビュンビュン通り過ぎる時、編集の速度は最小で場面の速度は最大です。
ゴール前の競り合いの場面、ショットはめまぐるしく変化しながら、ゴール最後の5秒を顕微鏡で拡大したかのように数十秒に引き伸ばし、先ほどとは反対に、編集の速度は大で場面の速度は小です。
内的な必要性と外的なリズムが合致しているため、心理的には引き伸ばされた(場面内時間が遅くなった)とは感じません。

以上のように、映画は、場面の時間とモンタージュの時間の組み合わせによって、豊かな表現可能性を持ちます。
これに実際にかかる映写時間を含め、映画は三つの時間によって構成されていることが分かります。
1-物語内(場面の現実)の時間、2-画面内(編集表現、想作内)の時間、3-映写(現実の現実)の時間。

また、編集のリズムは音楽的な要素を持ち、映像の伴奏として優れた効果を持ちますが、これを主題として、映像の内容をたんなるリズムのための素材としてしまえば、映画の本質表現ではなく音楽の代替表現(視覚的音楽)となってしまいます。
[ミュージックビデオなどでは非常に効果的ですが。]

第十一章、パノラマ

ここで言われる「パノラマ」は、概ね、ショットを切ることなく、カメラの移動によって連続的に撮影することを、バラージュは指しています。
パノラマを語源として持つ現在の映画撮影で言う「パン(カメラを軸回転させ、フレームを動かす)」のことではありません。

個々の分断されたショットの観念連合によって、表現された空間のイメージを鑑賞者に与えるモンタージュ空間とは対照的に、なめらかに移動する視点によってリアルな空間そのものの体験をさせるのがパノラマです。

パノラマは、空間のリアリティ、運動感覚に伴う強い主観性(3Dゲームのような)、カメラの運動の緩急(テンポ)による抒情性、劇性など、様々な利点を持ちます。
しかし、その反面、これはモンタージュ特有の創造的な空間、鑑賞者の頭の中で想像(観念連合)されるイメージとしての空間を殺してしまいます。
必然性のないパノラマに頼る多くの作品は、撮影された演劇へと逆戻りしてしまっています。

第十二章、カメラの表現技巧

現在で言う「トランジション」、映像編集での場面切替技法の効果についての解説です。
主に、フェードイン(徐々に映像が見えてくる)、フェードアウト(徐々に映像が見えなくなる)、クロスフェード(徐々に映像が別の映像に切り替わるオーバーラップ)についてです。

第十三章、映画形式の問題/第十四章、アバンギャルドの形式主義

映画の本質的表現

前項まで明らかにしたのは、映画芸術が独自に獲得した表現方法についてです。
特に無声映画においてそれは強く輝き、技術の進歩によって映画に色彩やサウンドなどが付け加わると、その映画の本質的な表現は、他の芸術の表現形式によって希釈され(忘却され)ることになります。
他の芸術でも代替可能な表現ではなく、映画にしかできない、映画であるがゆえに蒙る表現の限界(個性、独自性)が、無声映画の中に顕著に現れていたということです。

純粋映画

映画独自の表現形式、創造性を獲得した無声映画は、それを究極まで推し進め、ストーリーやプロットという文学の代替表現を排除しようとします。
抽象絵画を生んだ絵画史におけるアバンギャルドの動きと同じことが、映画においても起こります(グリーンバーグの項を参考)。
主題や物語性を排除した単なる現実という素材を、直接、映像の形式のみによって、芸術的な表現とする試みです。

ここにおいては、手段の可能性が目的と一致し、形式が内容を決定することになります。
形式そのものが内容となり、形式はトートロジー(同語反復)的に形式を指示するだけであり、言葉(意味するもの)は事物(意味されるもの)ではなく言葉(意味するもの)を指す言葉になり、結局、何か語っているようで何も語っていない「無」に到達するのです。
それは創造性の枯渇した形式的遊戯であり、専門家や進歩的知識人を喜ばせる自己満足的な珍品、あるいはブルジョワの現実逃避の産物です。

しかし、この動きは新たな芸術形式を探究する実験の段階として、非常に生産的な意味を持ちました。
サイレント映画の巨匠達は、少なからずアバンギャルド派の影響を受け、それを商業ベースの一般受けする映画の中に継承したのです。

純粋なドキュメンタリー(生の現実)

この純粋映画への志向は、主人公も筋もない、演劇性や物語性を徹底的に排除し無垢な現実の素材を観せようとする純粋なドキュメンタリーに向かう流れと、純粋な視覚性の形式主義的構成、いわば視覚的映像の万華鏡による形式遊戯の、ふたつの流れに分かれます。
前者は無形式の対象を見せること、後者は無対象の形式を見せることを、目的とします。

先ずは前者(無形式の対象)から考察します。
これは結局のところ、排除しようとするものを、排除することができません。
主人公のない映画の主人公は、ただ、カメラの後ろに隠れただけであり、カメラという眼を通して、世界を見、解釈し、意味付ける姿を見せない主人となります。
また、何を映像の対象とし、どう並べるか(構成)の内に、すでに作家の世界観が開示されており、意図や脈絡のない単に時間継起する映像の中にも、観念連合による意味付け関係付け(物語化)を行わざるを得ないのが人間です。

生の素材を観せようとする芸術家は、一体何を目指しているのしょうか。
彫刻(という形式)を分解し石を見せ、家屋(という形式)を分解し木を見せ、映画(という形式)を分解し生の素材を見せようとする時、それは何でもない無を志向しているだけでしかありません。
そもそも、生の経験など存在しません。
ある体験は、周囲や前後の事物との関係性の中で、ある構成する主観によって、全体の中に統合されるがゆえに、経験として成立するのであり、主観(観点)もつながり(物語)も排除した生の純粋経験など、単なる抽象物にすぎません。

映画と現実のオーバーラップ

主人公や筋や演劇性や物語性を、いくら排除しようとしてもあいも変わらず居座りつづけ、最終的に開示されてくるのは、客観的な現実、ありのままの事実と思われているもの(私の観ている世界や、ニュース映像や新聞記事や歴史記述)すら、創作物である映画と同次元にあるという事実です。
真実とは、真実を語る者が真実だと考えるところのもの(意味と価値観)です。
リアリズム(客観)は、結局、隠蔽されたロマン主義(主観)のことなのです。

むしろ私たちは、人為的な介入可能性(演出、作為性)のない映像(例えば自然科学のデータとしての物理的映像や医学的な診断のための身体映像など)に対し、現実とは隔絶した、超現実的な不思議な感覚を憶えます。

映画と現実の弁証法

映画と現実という、この似たもの同士は、互いに影響を与え合い、左右の足を交互に出すような前進をもたらします。

例えば、自分たちの鉄道建設の記録映画を観た作業員は、強い感銘を受けます。
その映画によって、自分たちの鉄道建設の現実が芸術となったからです。
そして、それによって高揚され促進された建設工事によって、芸術は再度、新しく現実へと生まれ変わります。
そして再度、その現実は映画となり…、そのサイクルによって弁証法的な前進を実現します。
結局、この工事は、予定より半年も早く完成することになります。
[ドキュメンタリー映像による現実の芸術化は、プロパガンダ映画から、NHKの人気番組「プロジェクトX」まで、幅広く利用されています。]

映画というものは、拡大された現実、新たな経験可能性です。
私たちは映画を通して、新たな人間の類型(モデル)や新たな感情を経験し、今度はそれを現実の中で実現していくのです。

形式主義

文学的構成(物語性-時間的コンテクスト、主人公の観点-空間的コンテクスト)を排除した現実の表現は、最初に目指したリアリズムとは正反対の表現(抽象、非現実)にたどり着きます。

Hans Richter-Rhythmus 23 (1923)
Joris Ivens – Regen (1929)
[YouTubeに飛びます。]

空間的、時間的に隣接物との意味連関をもつことなしに、リアリティは存在しえないのです。
むきだしの事実を表現しようとする映画は、抽象的な絶対映画になるしかありません。
むしだしの事物(物自体)というものが、現実からの抽象によってしか把握されないのと同様に。

何も指示せず何も意味せず何も描写しない映像は、映像の万華鏡の模様や幻影の走馬灯のような、図像の戯れとなります。
現実を現実たらしめる因果律のつながりから切り離され浮遊するそれらの事物(映像)は、何の原因でも結果でもないただの模様や幻影とならざるをえません。

第十五章、視覚的トリック

カメラの技巧によって、作り手の世界観や気分を、被写体となる事物に反映させることができます。
フェードアウトやオーバーラップ、高速度または低速度撮影、ソフトフォーカスやフィルター、ディフォルメ、二重露光、逆回しや合成など、無数に数えることができます。

しかし、何度も言うように、部分(ショット)に意味を与えるのは全体であり、それと同様、カメラの効果も、それをとりまく文脈によって、潜在的な可能性の中から一定の意味付けの選択がなされることになります。

例えば、人間と樹木がオーバーラップによって示される時、ファンタジー映画の文脈では魔法的変身、一般的な文脈なら場面の変化、夢や心象のイメージの場面では連想の継起、他、詩的比喩や喜劇的ナンセンスなど、様々な意味を持ちます。
物理的変形、空間的移動、心的過程、詩的比喩、超現実、不条理…、ある技巧がどういう機能を持つかは、編集(全体)によって決定されます。

第十六章、サウンド映画

サウンド映画が、サイレント映画に、ただ音を付け加えるだけであれば、芸術表現として何の意味もありません。
音というものが、新しい表現の可能性を開き、人間に新たな現実、新たな経験をもたらす時、サウンド映画は芸術となります。
サウンド映画が、いかに音を再現するかではなく、音によって何を表現するかが問題なのです。
サイレント映画が、自然の再現ではなく、クローズアップやショット、モンタージュや観念連合によって、未知の視覚的世界を開示しえたように。

映画(絵画)的な「視点」によって、人間は自然から「風景の発見」をなしたように(第九章参照)、サウンド映画は音によって「音の風景」を発見しなければならないのです。
詩人たちが敏感な心と耳によって、世界の騒音の中から事物の声を聞き分け言葉に写したように、世界を取り巻く騒音の中から、個々の事物の表現が顕れ出た音を聞き分け、その混沌の中から個性として救い出すことです。

それはサイレント映画がクローズアップのショットによって、事物の観相を拾い上げたように、聴覚的なクローズアップによって拾い上げた音の個性(部分)を、音のモンタージュによって再構成する時、音は新たな芸術表現として生まれ変わります。
世界の雑音(混沌)に介入し、それに形式を与え、音の個性と調和を実現したサウンドの小宇宙を構築することによって、サウンド映画は新しい表現世界を創出します。

映像のクローズアップと同様、音のクローズアップも演劇には不可能であり、それはサウンド映画特有の可能性となります。
恋人(ヒロイン)の健やかな寝息を聞かせるために、演劇ホールの観客全員の息を止めさせるわけにはいきません。

これは、ラジオのような音声だけの世界でも困難であり、一部特権的な場面でしか使えません。
なぜなら、音の意味を決定するものは、視覚像だからです。
例えば、ラジオドラマは言葉による状況説明や場面描写なしには音やセリフの正しい意味を伝達できません。
サウンド映画のような音のクローズアップのモンタージュをなそうとすれば、ラジオドラマは恐ろしく多弁な状況の朗読に終始することになってしまいます。
ラジオにおける音のイメージは、語られる場面や状況の補足(音の挿絵)でしかありません。

ひとつの発話や音の意味は、どういう状況とどういう表情や動作でなされるかを見ることによって限定されるのであり、森の木の葉擦れの音と海の波音を、視覚情報なしに聞き分けることは思うほど簡単ではありません。
勿論、訓練すればある程度可能です。
猟師は森のさまざまな雑音の違いを聞き分け、盲目の人は音声情報によってかなり正確な空間把握と物の質の違いを限定できます。
一般的には人間の獲得する情報の大半が視覚情報であり、二次的に音声を利用しているため、実のところ、私たちは普段大雑把にしか音を聞いていないのです。

サウンド映画では、音を音によって説明する必要がないため、音は自由に映像と戯れ、視覚描写と聴覚描写が自前の本質表現を保ったまま統合されることになります。
音は音として、映像を規定し、映像は映像として、音を規定します。
ラジオドラマのように音によって映像を説明する代替表現でも、サイレント映画のように映像によって音を説明する代替表現でもない、各々の本質的な表現として対等に関係付けあいます。

すすり泣きの声が聴こえる。
それを聞いている人物の表情がどうであるかによって(同情、恐怖、怒り)、はじめてその音は意味を持ち、その視覚情報(表情)と同時に、耳に聞こえた音の音響的な印象も変わるのです。
同じ音でも、サイレンの音が終業のベルであれば軽やかに、空襲警報であれば、重々しい響きとして感じられます。
同じサイレンの音でも、それを聞く人物の表情の変化によって、危険の警告音か、蜂起の呼びかけか、終業のベルかが意味付けられます。
音声と映像は、互いを規定しあい、決して切り離すことのできない関係付けとなった時、サウンド映画は、ただサイレントに音を取って付けただけのものではなく、音を表現として映像に止揚(統合)することになります。

また、音はクローズアップやモンタージュだけでなく、視覚映像の時と同様に、様々な技巧を効果的に使うことができます。
音のフェードアウトや音のオーバーラップ、音の高速度または低速度撮影、音のソフトフォーカスやフィルター、音のディフォルメ、音の二重露光、音の合成など、映像の時と同様、無数に数えることができます。
[音楽の技法と映画の技法は、かなり類比的な関係にあります。]
例えば、音のオーバーラップとして、無線電信のキーを叩く音と銃撃の射撃音を重ねることによって、命令と実行の因果関係を音声の比喩として効果的に表現することができます。

 

おわり

※第十七章から第二十四章は副次的な考察であるため、割愛します。

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