バラージュの『映画の理論』(1)

第一章、理論のススメ

映画は他の芸術よりも大衆の心を動かす強い力を持ちます。
抗することのできない自然力に対するために自然科学が生じたように、映画のその強い力に対するためにそれを理論的に研究せねばなりません。
大学教育において文学や絵画などの芸術については盛んに教えられているのに、映画は“ついで”程度にしか語られません。

しかし、芸術と教育(さらに言えば芸術家と鑑賞者)は、つねに相関関係にあり、鑑賞者の教養のレベル(審美眼)は作り手の作品の質を要求し、それに応じる作り手(芸術家)はより高いレベルの作品を提供し、鑑賞者のレベルをさらに上げます。
芸術の前進とはこの呼応関係であり、そのために芸術に対する教養が必要になります。

映画は絵画のように、後世の人間の教養(理解)が追いつき、死後に認められることを待っている余裕はありません。
その場で受容されなければ、多額の費用を必要とする映画は作ることができません。
映画の場合は、質の高い作品を作る前に、質の高い鑑賞者を必要とするのです。

裏を返せば、製作者はある程度の成功を見積もれる程度に、鑑賞者の教養のレベルに合わせた作品しか作れません。
だからこそ、種をまく前に、それをよく耕しておく必要があります。
たんなる受身の鑑賞ではなく、鑑賞者自身が教養を持ち要求をつきつける創造的な鑑賞が必要なのです。
それはすでに出来上がった作品から学ぶ理論ではなく、批評し、期待し、企画(予見)し、促進する、美学の仕事です。

鑑賞者は作品に対し、そして芸術の発展に対しての責任の一端を担っているということを自覚せねばなりません。
[例えば、TV番組が下らない(低俗な)と一部視聴者に批判されますが、それは制作者が下らないという反面、視聴者が下らないから下らないものを求め、視聴率のために制作者も下らない番組しか作れないという面があります。]

優れた芸術作品は、ぼーっと待っていても生まれはしません。
作り手も批評家も鑑賞者も、優れた作品が生まれてくるための精神的な風土を耕し、条件を整えることによって、美の創造に参画しなければならないのです。
天才というものは周囲の支えなしには決して生まれません。

第二章、前史

舞台演劇からサイレント(無声)映画に移行すると、映画芸術の原形式ともいえる独自の様式が生じます。
セリフというものが、クローズアップによる表情や、精細な演技の動作によって置き換えられ、そこでは身振りが言葉となります。
[例えば、主人公がピアノの演奏に感動する場面。舞台であれば、普通に美しいメロディーを流して、「美しい…」と役者に呟かせればよいのですが、サイレントの場合、全景ではなく、ピアノを弾く人のショットと、役者がやや上を仰ぎ目を閉じて悦に入って軽く頭を振るような誇張的な感動の表情を、クローズアップで映す必要があります。]

初期の活動写真はサイレントでありながら、文字通り無言でした。
なぜなら、大写しの全景で汽車から降りている人を映しているだけのような映像では、セリフに変わるべき身振りが存在せず、耳栓をして舞台(大写し)を観ているようなものだからです。

身振りが言葉となるべく、それは誇張されたジェスチュアとなり、その極点として初期のチャップリンに見られるパントマイムの作劇法が生まれます。
サイレントの短所であると思われた無声を、新たな表現のスタイルの創造へと転換したわけです。
[無声を短所ととらえるのは、私たちがトーキー(有声)に親しんだ現代的な目でサイレントを見るからです。むしろバラージュはトーキーを映画独自の言語を失った退化とみます(後述)。]

第三章、新しい形式言語

では、映画芸術がたんなる撮影された演劇とは違う独自の芸術として確立されることとなった、その本質的な違いはどこにあるのでしょうか。

まず、演劇の本質的な形式を三つ挙げます。
1.鑑賞者に劇空間が分割されずに全体として与えられ、一つの巨大な額縁を眺めるような形となります。
2.観客は常に一定した不変の距離から鑑賞することを義務付けられています。
3.それは当然、「視点」が固定されてしまうことも意味します。
[当時と違い、現代の演劇では、観客が自由に動いたり劇空間内に出入りし演技に加わることの出来るものもありますが、ここでバラージュが考察の対象としているのは「撮影された演劇」です。]

映画はこれらの形式を破壊し、新たな表現形式を獲得します。
1.同一場面(シーン)でも、観客との距離が変化し、画面枠内に現れる対象の大きさが変化します。
2.場面全体が分割され、細部の画面(ショット)が生じます。
3.ショット(画面)の視点が、シーン(場面)内で変化します。
4.必然的にこれらの分割された細部をつなぎ合わせる「編集」が生じます。全景が延々と続く演劇と違い、細部の小片を組み合わせて作るモザイク装飾のように、ショット(細部)は場面(全体)へと組み上げられ、ここに編集、いわゆるモンタージュの技法が生まれます。

この革命を引き起こしたのがハリウッドの映画監督グリフィスです。
[純粋なモンタージュの創始者はグリフィスであり、エイゼンシュテインのモンタージュは別種のものです。]

この映画の新しい表現形式は、観客個人の気分や興味や偶然によって場面を眺めることを許さず、監督によって定められたモンタージュの線に従い、部分から部分へと強制的に導かれます。
監督自身の視点(世界観、解釈)と同化するように、鑑賞者の視点が合一することによって、その作り手の世界観を理解し享受します。
観客は映画に描かれた事物世界を観るのではなく、監督によって解釈された世界を観るのであって、ここに映画における作家の作家たる所以が見出されます。

同一の場面であっても、それをどう分割しどう組み立て、どういう視点と距離と間隔によって編集(モンタージュ)するかによって、監督の世界の解釈(世界観)の特性が顕れるのであり、それ以外の作家性というものは、映画独自のものではありません。
[例えば、画面が美しい映画なら絵画でもよく、哲学的な映画なら哲学でもよく、ギミックの楽しい映画なら見世物小屋でよいわけであり、そういうものはあくまで二次的なものであり、映画独自の本質的な力ではありません。]

第四章、視覚的文化

マルクスはこう述べます。
[言い回しが面倒なので、読み飛ばしても構いません。]

「人間の音楽的感覚は音楽があってはじめてよびさまされるとともに、非音楽的な耳にはもっとも美しい音楽も何らの意味をもつことなく、(何らの対象でもない。)というのは、私の対象はただ私の本質的諸力の一つを確認しうるものにすぎず、そのようなものとしてのみ私の対象は私にとって存在しうるにすぎないからである。~そういうわけであるから、社会的な人間は非社会的な人間のそれとは別の諸感覚をもつのである。人間的本質が対象的に展開されてできあがった富というものをとおして、はじめて、主観的な人間的感覚世界の富というものが生まれ出るのであり、音楽的な耳が生まれ出るのであり、形態の美に対する目が生まれ出るのであり、要するに人間的な諸々の愉楽を味わう能力をそなえた諸感覚が生まれ出るのである。~人間的本質諸力として自分自身を確認するのである。」(バラージュ著、佐々木基一訳『映画の理論』学芸書林37項より)
「対象としての芸術は、~芸術的感覚をもち美を享受する能力をもった大衆を創り出す。生産は、それゆえ、主体のための対象を生産するのみでなく、対象のための主体をも生産する。」(同上、38項)

既存の芸術学は芸術作品のみを考察の対象としますが、同等以上に重要なのは、それを観る鑑賞者の主観的な能力です。
美は客観的現実でも、独立した対象の属性でもありません。
美は社会的な人間における文化現象として存在し、芸術的文化の担い手である主観「人間」を考察せねばなりません。
「芸術の歴史」とともに「人間の歴史」が問題となるのです。

芸術作品によって人間の新たな能力が開発され、その新しい感覚能力と資質を備えた人間が、新たな芸術文化を生じさせるという、弁証法的な発展です。
映画は次々に新しい表現手法を生み、同時に鑑賞者の感覚を異様な速度で開発していきました。

例えば、田舎から出てきた女性が、はじめて都会で映画を観た時、恐怖に震え蒼ざめました。
彼女は人間の身体がバラバラにされるその映像に恐怖したのです。
映画によって開発された文化の中にいる者であれば、幼児でも自然に理解するグリフィス的なモンタージュ、顔のアップや手のアップが、芸術的感覚の未開発な彼女にはまったく理解不能だったわけです。

芸術は歴史を持ちますが、それは成長や発展ではありません。
近代絵画が中世美術より、より完全であるわけではありません。
発展するのは人間の主観的な感受性や感覚の能力です。
例えば、遠近法の有無が芸術作品の優劣を決定することはありません。
重要なことは、遠近法は芸術ではなく、人間の文化を発展させ、あらたな感受性を付加し、高い文化水準の社会に欠くことのできない要素になったということです。

(2)へつづく