三木清の『パスカルにおける人間の研究』(2)人間の分析・下

哲学/思想

 

(1)のつづき

 

尉戯による世界への堕落は、同時に生が想像世界へと堕落することを意味します。
尉戯の先には常に想像によって作られた的があり、それに対し情熱を燃やし欲望を向けます。
「われわれは、自分のなか、自分自身の存在のうちでわれわれが持っている生活では満足しない。われわれは他人の観念のなかで仮想の生活をしようとし、そのために外見を整えることに努力する。われわれは絶えず、われわれのこの仮想の存在を美化し、保存することのために働き、ほんとうの存在のほうをおろそかにする。(147)前田訳」
「とにかく自分をだますことが必要なのである。~自分で熱を上げる理由をつくり出し、その理由にもとづいて、自分ででっち上げた対象に向かい、自分の欲望や、怒りやおそれをかきたてる。(139)田辺保訳」
例えば、私は壇上でメダルを首にかけ、大歓声の中で観衆に手を振る想像上の姿のために、現在というものと自分の生をすり減らし、スポーツという尉戯に命をかけます。
私たちは想像上の対象(的)のために命をも捨てることができるのです。

パスカルにとって尉戯とは単なる遊びや暇つぶしではなく、自己本来の存在(ハイデガーの言う本来的存在)を忘却しようとする、事物世界への逃避(非本来的存在)という、人間の基本的な存在のあり方のひとつなのです。
自己の悲惨や虚無を垣間見た時に生まれる、気晴らしや熱中を志向するひとつの本能があり、それとは逆に、静かな安らぎの中にある本質的な幸福を求める本能があります。
しかし、安らぎを成就しても、今度はそれに耐えられなくなり、気晴らしを求め、結局、人間はこれら二つの間を揺れ動いているうちに、人生は終わります。
人間の活動とは、不安と倦怠を出てまた戻ってくる、永遠の反復運動にすぎず、生の動性の一つの面がこの悪しき無限なのです。

自然な生を覆い隠す想像は、誤謬と虚偽の産みの親であり、それは存在が「蔽われれてある」というひとつの存在の仕方であり、避けることの出来ない人間の根本的な存在規定なのです。
想像は人間にとっての第二の自然を樹立し、やがて人は意図的に想像(虚偽)によってあるがままの存在を蔽い隠し、他者を(そして自分自身を)欺こうとします。
立派な衣装や肩書き、権威的な言動に財産の誇示、それら想像の産物によって、人間存在の自然な姿(吹けば飛ぶような一本の葦のような弱さと不安)、その悲惨を互いに覆い隠し、互いに欺き合い、互いにへつらい、「人間同士の結合は、この相互的な欺瞞の上においてのみある(100)」。
虚偽とは人間にとって必然的でもある、ひとつの存在の仕方なのです。

パスカルにとって虚偽がひとつの存在の仕方であるように、真理もひとつの存在の仕方です。
真理は命題に関係する概念ではなく、「蔽われずに」「顕わにされてある」態である存在の仕方なのです。
真理とは、「存在の蔽いを取り除き在るがままを見出すこと」を意味します(これもまたハイデガーの真理の定義です)。

正しい人間とは、学問的に真なる命題を数多く所有している者を指すのではなく、自己および他者について、その在るがままの態を覆い隠すことなく見、語り、告げる者のことです。
無知や欠陥や悲惨を恐れず、存在を正しく諦視(諦-あきらーかに視る、諦観)し、諦視したところのものを正直に伝える者です。
真理という概念を命題の領域に限定しようとするのはひとつの思想動向(流行)でしかなく、それは決して原初的、根本的なものではないという自覚は重要です。

 

第三節

では、いかにして人間は、この悪しき無限往復の生、いわば自己逃避を克服すべきでしょうか。
それは何らかの別のルートで自然な生に還り、自己を回復せねばなりません。
元いた生の自然に還っても、悪しき無限往復の繰り返しであるため、還るべき自然は別の場所である必要があります。
それは、生の「自然(ネイチャー)」ではなく、「自然性(ナチュラル)」に還ることです。
“生の動性は「自然」より出て、「技巧」を経て、「自然性」に向かう過程である。パスカルはこの生の動性の第三の契機を「意識」と名付けている。(本書岩波文庫版31項より)”

分かりやすくいえば「意識」とは、自己が自己を意識する反省的、自覚的な意識のことです。
人間が想像によって第二の自然を作り、それが生の習慣にまでなってしまった時、その技巧的に作られた世界を真に受けてしまいます。
これが想像が虚偽になる瞬間です。
ここで失われてしまっているものは「問い」です。
あるべき態を問う、反省的な「意識」の欠如です。
虚偽は人間を安定に置き、問い(意識)はそれを揺り動かし、生の本性である動性に還らせようとします。
想像(虚偽化した)が生んだ虚構の世界へ堕落せんとする自己を、意識によって回復させるのです。
人間の生というものの具体性はこの意識、自覚性、思惟にあるのであり、だからこそパスカルは、宇宙に比べれば一本の雑草に過ぎない弱い人間も、それを自覚(意識)できるがゆえに宇宙より貴い、と言うのです。

自覚的な思惟というものは、人間に与えられた特別な「存在の仕方」であり、反省的自覚を促す哲学は、結局、生そのものの自覚ということなのです。
「人間は明らかに考えるために創られている(146)」のであり、哲学は単なる好奇心や功名心から生ずるのではなく、人間の存在論的な必然性から生ずる、本質的な「存在の仕方」なのです。
深淵(不思議)の間の中間者である人間に対し、「自然は私に疑惑と不安の種ならぬなにものも供しない(229)」のであり、世界は常に問われるべきものであり続け、不安定そのものである人間存在もまた問われるべき理由をもち続けます。

不安定な生は常に途上にあり、途上にあるものは行き急ぐあまり、自己の現実から浮き足立って、生は地盤を喪失しやすくなります。
この地盤をきちんと確かめ、自己を具体的にするために、その自覚、反省としての哲学が必要となるのです。
途上にあるものは、性急で短気になり、到着点を先回り的に想像し、見越そうとします。
性急になるあまり、場当たり的に、間に合わせの偽物を掴み取ってしまいます。

その不安定の中で、生は安住を求め、ここに虚偽が明らさまに生じてきます。
精神は偽なるものを信じ、意志は偽なるものを求め、生はまるで熟知されたものであるかのように装い、世界は問いの欠如した自明なものとして扱われます。
自明性(安定)は、その内に虚偽を孕み、生はその虚偽(誤謬)によって眠らされます。
生は本来の動性を回復するために、哲学(反省)によって目覚めさせなければなりません。

もちろん、哲学そのものも、常に虚偽の自明性に回収される危険性を孕んでおり、「我々は決して事柄そのものを訊ねずしてかえって事柄の議論を訊ねる(135)」ように、哲学も自己逃避の尉戯に堕ちます。
多くの場合、真理を探究する議論において、人が求めるのは、議論そのもの(意見の格闘)であり、導き出される真理を見るのはまっぴらなのです(気晴らしの将棋のようなものとしての哲学)。

また、性急な哲学はとかく先回りしたがり、過度の抽象化や還元、究極的な体系化に走り、存在そのものを忘却してしまいます。
むしろ哲学は、その存在を問い、その中へと入っていくために、自己を批判(反省)的に破壊していくものです。
答えは新たな問いにより消え失せることによって、新たな道を展開し、自らはどこまでも問いであり続け、問いによって無限に自己展開するものが哲学です。
問いとは動性であり、動性を本性とする人間は、問いにおいて生きることができます。
人間にとって最も重要なことは、この生の発見であり、論理的に整った体系ではありません。
「哲学を嘲ること、それが真に哲学することである(4)」

これは単なる懐疑論(懐疑という名の気休め)ではなく、人間存在の根本規定から生ずる在り方です。
しかし、この不安定な動性は、人間の「自然」な生によるものではなく、自覚的意識において現れるものであるがゆえに、「自然性」としての不安なのです。

それに対し、懐疑論者は疑いの中にありながら平然とし、自己の懐疑を誇りと喜びとし、懐疑の状態に満足しています。
なぜなら、彼らはある一点において非常に安定した虚偽を隠し持ち、そこに安んじているからです。
一切合切を懐疑によって崩壊させると見せかけながら、自分の立ち位置だけはちゃっかり隠して残しているからです。
懐疑論は徹底すれば、必ず自己矛盾を引き起こします(例えばクレタ人のパラドクス)。
疑いの本質が間断なく求めることであるにもかかわらず、自分の状態に安住している彼らの懐疑は、懐疑の本質を離れたひとつのイズム、世俗(頽落)の生き方のひとつに過ぎず、パスカルの懐疑とは正反対のものなのです。

人間の本性である生の動性は、その自覚的な不安においてあり、だからこそ人は「確実」いわば不安を満たす平和を求めます。
このような確実性は、人間世界においてはあらず、神においてのみ存在します。
懐疑を尽くしたデカルトの確実性すらパスカルにとっては「無益で不確実(78)」にすぎず、だからこそ、パスカルはこの存在そのものに存する根源的な不安を梃子にして、神へと跳躍することを呼びかけるのです。

 

第一章 おわり

 

(3)へつづく