三木清の『パスカルにおける人間の研究』(1)人間の分析・上

※これはパスカルについて書かれた本というより、パスカルを介したハイデガー入門(ハイデガー哲学で解釈したパスカル)です。

<第一章、人間の分析>

第一節

パスカルの思想の主題となるものは人間です。
人間と言っても、自然科学や社会科学、心理学のような客体的な対象としての人間の考察でも、認識論的な自我としての抽象的な人間の考察でもありません。
極めて現実的、具体的な人間存在そのものの考察です。

自然における人間存在の特性は「中間者」であると言うことです。
宇宙に比べれば極めて小さく、細胞に比べれば極めて大きく、「無限に比しては虚無、虚無に比しては全体である、無と全の間の中間者(72)」です。
[括弧()内の数字は『パンセ』ブランシュヴィック版の断章番号、特に記載のない場合は全て三木清自身の訳です。]
この事実に人は驚嘆し、恐れおののきます。
この状態性(世界における人間の「存在の仕方」)は、人間存在の根本規定です。

この人間の「存在の仕方」は、世界との「出会い方」でもあり、人間は世界(宇宙)を感じると同時に自己を感じるのです(例えば、“宇宙に比して無に等しいが、それを自覚できるがゆえに人間は偉大だ”というように)。
世界に向かう状態性は、同時に反動的に私に関係するというダイナミズムを持っています。
世界は対象でも現象でもなく、このような直接的な関係(状態性)によって所有されるものなのです。

このような存在の仕方の高められたものが「魂」であり、この魂の形式的な規定は、先にも述べたように「中間者」であると言うことです。
この両極の中間であるという状態は、魂のあらゆる能力において見出せます。
明るすぎても暗すぎても目は見えず、高すぎても低すぎても耳は聴こえず、強すぎても弱すぎても快感はえられません。
すべて極端なものは、中間者である人間にとっては無のようなものになります。
「中間的状態を離れるのは、人間性を離れるということである(378)」

この中間とは、均衡を指すのではなく、不均衡であることの表れです。
また、両極は固定されたものではなく、中間存在である人間にとっては、「深淵」や「不思議」として捉えられるものであり、その状態性は二つの深淵に挟まれた恐怖とおののきと不安になります。
人間の精神の能力は、この深淵を理解するにはあまりにも小さすぎ、常に人を無知と不確実性の中に置きます。
必然的に人間は、安定せず不均衡の中を漂う「運動せる存在」であり、この動性こそ人間存在の根本規定なのです。

第二節

この動性の具体的な概念が「生」です。
「我々の本性は運動にある、全き休息は死である(129)」
運動という概念は時間という概念と共にあります。
「生」とは、時間性により解された現実的存在の概念です。
この時間とは、物理的なものでも心理的なものでもなく、パスカルが人間の「関心」によって規定した時間です。
[ここで三木はパンセ(172)の現象学的な解釈を試みます。かなり長いですが実存哲学の歴史において非常に重要な箇所なので、引用します。(前田陽一訳)]

パスカル『パンセ』B172
われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃がしているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め 、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来によって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる 準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

抽象ではなく、具体的な時間というものは、こういう様な人間の「関心(ハイデガーの言うゾルゲ、フッサールの言う志向性)」にもとづくものであり、そこで最も重視されるのは「未来」です。
「現在」と「過去」というものは、むしろ「未来」のための手段であり、現在及び過去の意味づけも未来への「関心」によって逆照射されるようにして生ずるものです。
人間は現在においては生きては居らず、すべてを未来へと投げ入れること(ハイデガーの言う企投)によって、生きる(運動する)ものなのです。

関心とそこに生ずる動性が人間存在の本質であるなら、それは常に「途上にある存在」ということになります。
留まることを許されない人間には、現在を確実に捉えることはできず、ただ、未来(および過去)との関心の関係付けにおいてのみ、それ(現在)を捉えることができます。
人間は現在(生ける瞬間)という地盤を奪い去られ、宙に浮き、何の保証もない未来(およびあることなき過去)に篭絡された根無し草のように、時間に漂い、空虚の大海の間で生きて(生きようとして)います。
[少し分かりにくいので補足します。私が今この瞬間という現在、目の前のネコを可愛いと思うのは、美的な関心で見ているからです。しかし、ネコを主要な食べ物とする文化の人々の場合、まったく違った関心によってネコを規定し、「美味しそうなもの」と捉えます。今この瞬間、現前しているものの本質(何であるか)やそれに伴い私の心に生ずるものは、事前になんらかの関心(未来)や志向によって規定されたものでしかありません。]

この生の動性の第一の契機となるものは「不安定」です。
人間は絶えず途上にある存在であり、未来の欲望や目的を達したとしても、それと同時に新たな目的や欲望が生じ、とどまることがありません。
人間が途上にある存在である限り、現在が私を完全に満足させることはありません。
「在る快楽(現在)の徒なることの感情と、在らぬ快楽(未来)の空しきことの無知とは、不安定を結果する(110)」

このように人間とは、避けることの出来ない不断の運動に駆り立てられる不安定な存在であり、その事実は人間の「倦怠」というものにおいて逆説的に証されます。
人間にとって完全に静止することほど耐え難いものはありません。
人間の存在規定である動性を奪われた時、心の底からその存在性への希求が、「倦怠」という形で生じてきます。

生の動性の第二の契機は、第一の不安定と倦怠から反動的に生ずる「尉戯」です。
具体的には、狩りやゲームやスポーツやパーティーなどの気晴らしや慰め(心の楽しみ)のことです。
恐れを生む不安定から逃避し、耐え難い倦怠を紛らわすために、そういう「自然」のあり方(本質的に不安定な存在である人間)を、尉戯という生の「技巧」によって蔽い隠そうとするのです。
王様のようにあらゆる富や名誉が与えられても、「気晴らし」になる尉戯がなければ、それは奴隷よりも不幸な境遇となるだけです。
尉戯の特性は、生(自然)からの自己逃避であり、尉戯を追い求めるにつれ、生ならぬ事物世界につながれそれに依存する、世界への「堕落(ハイデガーの言う頽落)」が生じます。

(2)へつづく