メイロウィッツの『場所感の喪失』第一部、メディアによる変化

社会/政治 芸術/メディア

第一章、メディアと行動

既存のメディア論の大半は、メッセージ内容を主題としたものであり、各メディア相互の差異やメディア自体が持つ可能性は見落とされています。
メッセージ内容ではなく、それを取り巻く状況や受け手の主体性からアプローチする新しい研究もありますが、それらが隠れた前提としているものは、メッセージ内容の受容-反応という既存のモデルです。

新しいメディアは、新しい形で特定の内容を伝達するだけでなく、新しい社会環境と人間行動の刷新(新しいパターンの行為・感情への転換)を生み出します。
例えば、暴力や性描写や差別表現という「メッセージ内容」が鑑賞者に与える影響ではなく、そういう内容を「伝える方法」が異なると、善悪や性差や人種という社会的概念がどれほど違ったものになるかという可能性です。

この探究のためには、以下の二つの研究分野を融合することが必要です。
1.メディアの変化により社会環境がどう変わるかの研究「メディウム論」(各メディア固有の特性を主題とするので単数形メディウム)
2.その社会環境(状況)の変化が人間行動をどう形成するかの研究「状況論」

「メディウム論」

メディウム論において重要な研究となるものが、ハロルド・イニスと、マーシャル・マクルーハンです。
以下、彼らの議論の要点をまとめます。

イニスはメディアのコントロールを社会的権力の支配の技術として見ます。
当然、新しいメディアの登場は、そういう独占を破壊する可能性を持ちます。
例えば、中世の書写システムによる宗教的情報の独占は、教会および聖職者の権力を保障するものでした。
しかし、印刷技術がそのエリートによる聖書や経典の独占を崩します。
キリスト教の民主化、革命であるプロテスタンティズムは、印刷技術なしには決して起こらなかった、あるいはむしろ印刷術が起こした社会的変革とも考えられます。
同じ聖書というメッセージ内容でも、筆記と印刷というメディウムの違いで、これほど大きな変化をもたらすのです。

また、メディアには、時間的な持続か空間的な広がりかのどちらかへの偏向があります。
石版というメディアは移動が難しく、書き換えが困難で風化に強いため、それは必然的に小さく安定した息の長い社会を生み出し、その反対の特性を持つパピルスは、対照的に中央集権的な大帝国を作ることを可能にしました。
イニスはこのように、文明の歴史をメディアの歴史として翻訳し直していきます。

マクルーハンは文明の歴史を、「口誦」「筆記・印刷」「電子」の三つの時代に分けます。
その社会の特徴は、その時代特有のコミュニケーションの形態によって規定されます。

口誦の社会は耳の文化であり、口誦の特徴である同時性と円環性によって、相互依存的で個別性の意識の薄い「閉じた社会」となります。

筆記および印刷は、口誦社会の調和を壊し、音声(耳)の直接性から引き剥がし、視覚を支配的なものとします。
直接性から離れることで、人間は内省的で個別的になり、抽象的思考と合理性が育まれます。
音の円環的な世界、円形の小屋や円形の村を離れ、活字の線形(リニア)とマス目状の世界、格子に並んだ個別の都市へと移住します。
共に生活し、共に聴き、共に感じる人々の直接的なつながりは、抽象的な「国家(政治)」や普遍的な「愛(宗教)」への忠誠と変わります。

電子メディアは、私達人間の神経系をこの惑星全体にまで拡張し包み、地球規模の村社会「地球村」へと立ち戻らせます。
線形的(リニア)な思考は衰退し、あらゆる人があらゆる人と直接につながり、ナショナリズムは崩壊します。

メディウム論者は、別に社会の形成が全面的にメディアに依存すると言うのではなく、そういう面が見落とされていると主張するのです。
ただ、メッセージ内容の如何より、コミュニケーションの形式の方がはるかに大きな影響力を持っていることは間違いありませんが。

「状況論」

状況論において多くの示唆を与えてくれるのがアーヴィング・ゴフマンです。
ゴフマンは人間の社会行動をドラマのメタファーによって論じます。
社会という舞台のなかで、個人の行動は他者(オーディエンス、観客)を前にした役割の演示であると捉えます。
互いにオーディエンスの期待を汲み取り、自己の役割を適切に遂行することで、スムーズな社会生活を送れます。

それには、役割の一貫性(医師は幼児のように振舞ってはならない、葬式の参列者は神妙な顔をしなければならない、等)と、状況をよく知りどのような役割を演じるべきかの判断が重要になります。
この判断に必要な情報を得るのには相当な時間がかかりますが、現実の社会的な相互行為では、瞬時の判断と対応力が必要になります。
人々は、つねに社会役割の効果を作り出すことにエネルギーを費やし、家具、所持品、服装、身振り、声色まで、周到に役作りの準備をしています。
そのため、ある程度全体の状況を読む力と基本的な対応力を身につけています。

役割遂行においては、必ず表と裏という二つの領域が存在しています。
「表領域」とは舞台の上、「裏領域」とは舞台裏の行動です。
例えば、舞台上での教師は自分の無知や憂鬱や性欲望を決して見せませんが、舞台裏の職員室ではセクシャルな冗談を言ったり、特定の生徒に対する愚痴やあきらめをこぼすかもしれません。

しかし、裏領域がホンモノで誠実であるわけではありません。
それは相対的な裏表であり、生徒をオーディエンスとした教師役割の場合は職員室は裏領域ですが、職員室では教師連中をオーディエンスとした教師役割を演じているだけです。
例えば、生徒の前で内緒話として、生徒指導の厳しい同僚教師の悪口を言って生徒から人気を博する教師は、教室を裏領域としているわけです。
家に帰っても家族をオーディエンスとして父親役割を背負い、自分の部屋に独りでいても、自分自身の反省の目というオーディエンスに対して何らかの役割を背負わなければなりません。

職員室で問題児の悪口を言ったとしても、本当はその生徒を大切に思っているかもしてませんし、それは実は「悪口を言いつつも、結局は大切にする」素直になれない照れ屋のキャラを、自分自身に対して演じているだけかもしれません。
役割とは、そういうつかみどころのない、あくまで状況に関連した関係概念としてしか存在しえず、固定したものではありえません。
ゴフマンにとって誠実な人間とは、自分自身のパフォーマンスによって自分自身が騙されている人、自分は自分自身が演じるキャラクター通りの固定した人間だと思い込んでいる人のことです。

表領域の役割遂行は、オーディエンスを騙すものでも馬鹿にするものでもありません。
普通、実際にオーディエンスが求めているものは、その役割遂行という部分的なものであり、全部ではありません。
教師は家に帰っても性欲望を持ってはいけないなどと、誰も思っていません。
もし、そう思う人がいるとすれば、ただの差別主義者です。
他者に対しての全面的な役割の押し付けがステレオタイプ(偏見、差別)であり、自己に対しての役割の押し付けが自己欺瞞(先述の誠実な人)です。

そもそも社会的なアイデンティティー(自己同一性)は他者との関係においてしか成立しないものであり、何らかの役割遂行でしか自分は自分という同一性を獲得できません。
役割という仮面を否定し、あるがままの自分(実存)であることを自由だと述べる論者もいます。
しかし、役割を自分自身で選択し、それを適切にコントロールできる能力を持つことが、もう一段上にある自由であるといえます。

第二章、メディア、状況、行動

場所を超えて

行動を規定する状況というものは、一般的に物理的な場所や配置、セッティングとして捉えられています。
しかし、それよりももっと本質的な要因として「知覚の境界」というものが考えられ、物理的な場所というものは、そのの境界(範囲)というものの下位のカテゴリーでしかありません。

例えば、学校という表領域において教師役割を演じている教師も、教室や職員室から誰もいなくなれば、家(裏領域)にいる時と同じような振る舞いをしたりします。
反対に、家に帰っても学校関係者が訪ねてきていれば、教師役割のままでいます。
行為を規定するのは、物理的なセッティング自体ではなく、情報へのアクセス、情報フローのパターンの問題です。
携帯端末で活字情報を送り合う生徒は、物理的には教室という表舞台にいながら、裏領域を作り出すことができます。

ここで言う「情報」とは、ことば、身振り、姿勢、服装、等、コミュニケーションにおいて得られる社会的情報全般を指しています。
状況とは、その社会的情報に対するアクセスのパターンのことです。
状況を情報システム(社会的情報フローのパターン)と考えると、物理的セッティングとメディアを分離することなく、ひとつの連続体として把握することができます。
物理的場所は情報システムのひとつの形(生のエンカウンター)であり、その他のコミュニケーション・チャネル(伝達経路)によって別の形の状況(情報システム)が無数に存在することになります。

中間領域、深い裏領域、最前面領域

ゴフマンのモデルに秘めた可能性を拡張することで、新しいメディアが生み出す状況と行動の変化を記述することができます。
舞台上と舞台裏を同時に見る舞台袖にあたる「中間領域」は、表と裏の両方の行動の要素を含みながら、極端な特性は欠いています。
夕飯に招いただけの客であれば、きちんと裏領域を作れるため、表領域もきちんとしたものにできますが、それが一年間滞在するホームステイであると、表裏の曖昧になった中間的なパフォーマンスとならざるを得ません。

表領域と裏領域の行動が際立つには、それらがしっかり分離されている必要があり、その分離の度合いが強いほど、その領域の行動は、より特殊で極端になります。
それらを「最全面領域」(特化した表領域)と「深い裏領域」(特化した裏領域)と名付けます。
ある状況が二つ以上の別々の状況に分離し、状況間に開きが出る時、これら二つのより専門的で純粋な行動領域が生じます。
反対に、中間領域の行動は、以前は別々であった二つの状況が融合した時に生まれます。

親元を離れ上京(分離)した大学生が自立した者となったように感じたり、反対に、同棲(融合)すると恋人が恋人らしくなくなったりするのは、これら行動領域とパフォーマンスの変化によるものです。
既存の社会的情報システムを分離する傾向のある新しいメディアの台頭は、より特化した舞台裏と舞台上行動のスタイルを生み出し、既存のシステムを融合させるメディアは、中間領域の舞台袖行動のスタイルをもたらします。

 

第三章、メディアの変化と役割の変化

社会的な地位というものは情報フローのパターンによって規定されます。
同一の地位にある人達は同じような状況(情報システム)に、異なる地位にある人は異なる状況にアクセスします。
例えば、伝統的に子供と大人の地位の差は、前者に特定の情報(性やお金など)に対するアクセスが制限されることによって成立しています。

だから、新しいメディアの登場によって、人々の情報システム(状況)が変化すると、必然的に社会役割のあり方にも変化が生じます。
それら社会役割の変化の考察にあたり、本書ではそれを大きく三つのカテゴリーに分け、それらの組み合わせることによって、社会役割の大部分を包括的に把握可能にします。
所属の役割(集団的アイデンティティ)、移行あるいは成長の役割(社会化)、権威の役割(ヒエラルキー)、の三つです。

この三つの役割カテゴリーの複合によって各個人の地位は規定されています。
個人は、ある特定の集団と結びつき、社会化のある過程段階にあり、ある階層秩序の特定の位階に居ます。
例えば、医学部の学生であれば、順に、医師集団、学生過程、エリート階層として、その地位を規定できます。
これら社会役割の構造が、コミュニケーション・メディアの変移によって如何に変化するかを考察します。

その1、集団的アイデンティティ

情報の共有というものが、人々のつながり(サークル、集団)を生じさせます。
それは同一の時と場所である必要はなく、物理的に離散していても 情報が共有されていれば強い結束を伴います。
また、集団的アイデンティティは常に、同一の状況(情報アクセス)を共有しない他者を前提としており、必然的にそれは対立的な部外者を生み出します。

しかし、状況というものは常に変化するため、その集団的アイデンティティを形成する境界もそれに応じて変わります。
例えば、ニューヨーカーとロサンゼルス在住の人が電車で同席し対立的であっても、そこにアジア人の旅行客が入ってくると互いが絆を感じ、新参の外国人を対立的な部外者として結束するかもしれません。

自己のアイデンティティの感覚というものは「私は何者か」という問いの中にあるのではなく、私は何処に居り、誰と共にあり、いかなる情報や経験を共有しているか、ということに依存しています。
それは同時に「われわれ」と「彼ら」の生成であり、「彼ら(部外者)」が私のアイデンティティーの鋳型(凹型)として機能しているということです。
そして、メディアの変化により「われわれ」の結束の基盤である情報共有のパターンが変化すれば、当然私のアイデンティティーの境界も変わっていくことになります。

情報や経験の共有は、成員に同じ役割、同じパフォーマンスを促し、舞台上・舞台裏行動も似たものとなります。
伝統的にそれ(共有される特殊な情報システム)は物理的な位置取りによって保証されていたわけですが、電子メディアなどの発達により、情報が離散的・複合的に共有されるようになると、場所による集団の定義づけは崩れていくことになります。

その2、役割の移行

社会化とは、社会的に順路を規定された、ある役割から別の役割へと移る過程(ただの変化ではなく成長段階)です。
あらゆる社会化の目的は、先進の集団が共有している特殊な情報を獲得し、自己もそこに属することです。
その集団の共有する情報へのアクセスは、タイミングと順番をよく吟味された上で、徐々に与えられます。

人間の一生(ライフサイクル)がそういう成長(役割移行)の過程であり、情報へのアクセス権が与えられる方法やパターンや期間は、人間個人の知的・身体的能力の制約以上に、その社会の慣習によって規定されています。
子供から大人への役割移行のような、生物学的な発達段階に見えるものであっても、その段階数や期間や弁別の指標は、文化によって相当異なります。

もし、その社会のメディアが各集団の情報世界の分割を保持するような可能性を持っていれば、社会化は明確で細かい成長段階を形成することになり、反対に情報の共有が広く曖昧なメディアになると、社会化段階の区別もアバウトなものとなっていきます。

特に裏情報領域へのアクセスは慎重にコントロールされており、それらが開示されるのは、参入者がもう後戻りできないくらいその役割集団に入り込んでしまった時です。
舞台裏の秘密を明かしてしまえば、苦労して得た自分自身の役割そのものをを冒涜し、地位を失ってしまうような状況が、裏領域にアクセスするための担保になっています。

社会化段階の数は、人間集団の隔離可能な場所の数にある程度規定されます。
各役割や段階固有の場所(テリトリー)が、情報アクセスや役割の境界を保証するからです。
例えば、院長室と一般のスタッフルームが同じ部屋であったり、大学生と小学生が同じ教室で勉強したりすれば、役割の境界は崩壊します。
あるメディアが物理的隔離と情報の隔離をどう構成するかを考察した時、もしそれが両方を並行するものであるなら、社会化段階をより分割的なものとしますし、もし前者をそのままに後者の境界をなくすものであれば、社会化段階はより均質的なものとなります。

その3、権威の階層(ヒエラルキー)

一般に権威の階層秩序というものは、財産や才能などの具体的な力(権力)によるものと考えられていますが、これも本質的には情報フローのパターンとして記述することができます。
権力というものは所有するもの(富、軍備、各種能力など)ですが、権威というものは遂行的に保持されるものです。

高い地位(権威)は、その役割における情報(技術的知識や経験的知識など)をコントロールできる力によって保証、維持されます。
状況というものは、情報の価値を相対的に変化させるため、権威というものの定義も状況によって変化します。
例えば、病院に通う自動車整備士は診察室において医者の下の地位にありますが、仕事帰りに医者のベンツが動かなくなって往生した時は、今度は医者が整備士を仰ぎ見ることになります。

万一、下位の者が上位の集団の知識にアクセスできてしまうと、その地位が崩れる可能性があります。
患者が医師より医療に関する知識を持っていたり、趣味でカートをやっている医師が整備士より高い知識を持っている可能性もあります。
だからこそ、専門家集団にしか共有されない特殊な情報が必ず存在し(例えば自動車部品のコード番号や、それを取り扱う卸売業者の情報など)、それによって一般人の侵入から権威は守られているのです。
このような情報のコントロール可能性こそが、その役割を遂行する権利を生むのです。

イニスによって示されたように、聖書に関する情報のコントロール可能性が、中世の教会の圧倒的な権威を保証していたのであり、なぜ彼らが公式でない聖書の翻訳書や異端書に眼を光らせていたか、なぜこの権威を崩そうとしたルターやカルヴァンが聖書を個人のものとして改革しようとしたかは、この辺りから推察されます。
情報コントロールの不均衡が権威の特質であり、対等な相互関係はその不均衡が崩れ情報がフラットに共有された時に生じます。
あるメディアが情報を分断する特性を持つなら、それは社会にヒエラルキーをもたらし、情報を融合させる特質を持つなら、社会は平等主義へ向きやすくなります。

第二に、権威を保証するものは、裏領域行動の全面的な不可視性です。
高位の者のフォーマルな表領域を成り立たせるには、それだけ深い裏領域が必要になります。
ある意味人間はすべて凡庸であり、偉大さはその凡庸さを隠すことによって成立します。
権威とはそういうもの(状況や役割や情報)の戦略的なコントロールの技法によるものであり、それは裏領域を隠すだけでなく、それらをコントロールしていることそのものを決して気付かせない技法も必要とされます。
その人のリアルで具体的な実在性(要は凡庸さ)を隠すことによって、社会的役割の象徴的でイデアル(理念的、抽象的)な面が強調されるのです。

当然、その裏領域情報がリークされたりする可能性もありますが、高位の者の裏側に下位の者がアクセスすることは、そう簡単ではありません。
例えば、平社員が社長や会長の部屋に入るためには、かなりの手続きが必要ですが、社長は平社員の部屋にノックもせずに入っていくことが許されています。
テリトリーのコントロールと、見る権利(見る者見られる者という主従の関係)は、権威の不可侵性と神秘化の絶対的な条件です。
先ほどと同様に、ここでもあるメディアの特性が、裏領域行動の壁を強化するものか侵食するものかによって、当然社会のあり方も変わってきます。

 

第一部おわり

第二部へつづく