柄谷行人の『日本近代文学の起源』構成力について

(2)のつづき

構成力について(没理想論争)

一、

日本の近代以前の文学には、何か深みというものが無いように思えます。
しかし、別に江戸時代の人々が深いことを考えていなかったという訳ではありません。
これは文学に限らず、絵画にも同様の問題が含まれており、参考になります。

近代以前の日本の絵画には奥行きがありません。
いわゆる遠近法がないということですが、これは中世や古代の西欧絵画においても同様です。
しかし、遠近法というものはあくまで作図上の問題であり、知覚にとってリアルに存在するものではありません。
それは数学化(理念化、抽象化)の産物であり、現実の空間ではありません。
[例えば、実際は目の前にそびえるビルは膨れた牛乳パックのように湾曲して知覚されていますが、現代の私たちはそれを遠近法的に補正し、勝手に直線的な箱として見てしまいます。子供が描いた丸こいビルの写生を大人は幼稚だと笑いますが、実際の知覚像としてはそちらの方が正しかったりします。]

近代的な遠近法の空間把握に慣れてしまった私たちは、それがひとつの作図法でしかないことを忘れ、江戸時代の絵を写実的でないと考えてしまいます。
しかし、江戸時代の人にとってはそれが写実なのであり、そもそも現実(リアル)の定義と認識の枠組みが根本的に違っているのです。

文学においても同様、その深みはあくまで文学的な作図法の問題です。
遠近法的絵画が、鑑賞者に対して、絵の向こう側に入っていけるような感覚を生じさせるように、文学においても感情移入は文学的作図法(遠近法的配置)によって作られるのです。
文学における感情移入は、人間の本性や意識のような持って生まれた特性によるものではなく、特定の手法により生じるものでしかありません。

文学における深み(内面的深化)の度合いが文学の評価価値となることが多くありますが、それはなんら必然的なものではありません。

二、

近代的な遠近法の本質はどういうものかというと、ひとつの視点から、均質的な空間に、諸事物を統一的に配置する、ものです。
それはデカルト的な空間であり、その視点となるものが当にコギト(思う我、主体)です。

三、

もうひとつの「深さ」の問題として、いわゆる意識の表層-深層という階層性の問題があります。
深層を生じさせるような階層化の基盤となるものが、先ほどの「均質的空間」です。

博物学者リンネの階層分類体系の前提となるものが、均質的空間内の秩序的(網羅的、排他的、一貫的)な分類です。
この系統樹的空間体系をダーウィンが時間(歴史)に変換したわけですが、この変換が可能なのは「均質的空間」というフォーマットにおいてです。
アリストテレスのような異質なトポス(場所)に属する個物の生物分類では、この変換は不可能です。

空間的階層化が時間的階層化に変換される、いわば歴史的な進化の言説はそういうものに支えられています。
生物的進化論も、発展的な歴史観(特にヘーゲル的弁証法)も、科学的な進歩史観も、全てその隠れた根拠として、遠近法的な作図上の仮定(等質性、中心性、秩序性)を持っているのです。

これは心や意識の問題も同様です。
精神分析や心理学において前提とされるものは、この秩序です。
フロイトやエリクソンに如実に現れているように、人間の成長における進化の失敗、低い階層への退行や停滞が病の本質なのであり、基本的にその視座はヘーゲルのそれと同様です。
治療とは発展に挫折した患者のやり直し、生き直し(再統合化)の試みです。

しかし、補足すれば、意識や心の深層の発見者であるとされるフロイトが実際にやったことは「深層」の拒否です。
その方法論は表層にあらわれる情報のみに注目するものです。
「意識」という、いわば直線(中心)的で統合(等質)的な遠近法的配置において、無意味で不条理なもとして排除される表層の別様のあらわれが「無意識(深層)」です。
フロイトの革新性は深層を拒否し、表層に留まることであったにもかかわらず、一般的にそれは深層という実在の発見として解釈されます。
[ウィトゲンシュタインの言うように、無意識とは単なる言い換えによる迂回した意識の説明であり、あくまで言葉の問題です。]

ヘーゲルの場合、弁証法的発展(階層的発展)の原因を矛盾対立に帰する訳ですが、それはただ結果から見られた倒錯的な原因(対立矛盾)でしかなく、歴史(弁証法や進化論など)は遠近法的に構成された作図上の存在物でしかないのです。

ニーチェの言う「神の死」の神とは、この作図上の消失点(超越論的意味)のことであり、それは人間に「見通し-perspective-」や「展望-perspective-」を、いわば未来や歴史を与えるものであり、人間はこれを自明で自然なものとして受け取らざるを得ないとも言えます。

四、

この遠近法の変容は、明治20年代に生じた森鴎外と坪内逍遥の「没理想論争」において明確にあらわれています。
しかし、文学的な事物を過去から現在にいたる進歩(深化、発展)であるかのような統一的なパースペクティブに配置する「国文学」や「文学史」というものの成立が、この事実を見ることを妨げます。

先に述べたように、論争という対立形態は歴史的な遠近法(弁証法、進化、進歩)を生み出すための作図上の必須条件です。
対立によって形成される「問題」は、何かを明るみに出す(人間は対立的二分法によってしか現実を意識できない)とともに、何かを隠蔽します。
隠蔽されるものは多様性です(告白という制度-第四節-参照)。

逍遥がシェークスピアに見て称賛する「没理想」とは、作られた理想ではなく、自然のように豊饒で多様な解釈を許す、計り知れない奥深さを指すものです。
有-理想でもなく、無-理想でもない、そういう別様の理想を「没」と表現します。
逍遥の批判する理想とは、いわばテクストを見通す意味や主題、パースペクティブのことです。
逍遥は西欧文学の受容において、日本の文学を切断するのではなく、江戸以来の小説を「没理想」という位置づけにおいて並存的につなごうとしたわけです。

それに対する鴎外の「理想」とはパースペクティブの消失点ことであり、テクストに見通しを与え、統一的に配置するためのものです。
逍遥における並存的なカテゴリーを克服されるべき対立と見なし、遠近法的な階層において江戸文学の流れを下位として位置づけようとしたのです。

五、

この理想、およびパースペクティブの問題は、「構成力」の問題として形を変え、構成を嫌う芥川龍之介と構成を重んずる谷崎潤一郎との「『話』のない小説」論争につながります。

おわりに

今回、三項にわたって要約したのは、以下の部分のみです。
柄谷行人著『日本近代文学の起源(原本)』、第一章「風景の発見」、第三章「告白という制度」、第六章前半「構成力について~没理想論争」
分量としては全体の半分ほどで、特に哲学的に重要な部分を選びました。
定本版は大幅に加筆され、原本の倍ほどになっておりますので、別の本として考えた方がよいと思います。