柄谷行人の『日本近代文学の起源』告白という制度

芸術/メディア

 

 

(1)のつづき

 

告白という制度

 

一、

告白という形式と日本の近代文学の成立は並行します。
告白は告白されるべき「内面」を生じさせます。
告白という形式の文学作品(表現されたもの)と、告白する作家の内面(表現されるべきもの)の分化生成です。
表現されるべき「自己」が、作品に先立って存在するという「自己表現」の言説の誕生です。

この自己なるものは、前項で述べたのと同様に、事後的かつ倒錯的に作り上げられたものでしかありません。
告白という形式、制度が産出した「真の自己」「内面」であり、告白という義務が告白すべき隠し事や内面を作り出させるのです。
勿論、これらの起源は私たちに意識されることはなく忘却されています。

精神分析という告白の技術が深層心理というものを実在させたように、告白という制度が「精神」を生じさせたのであり、精神は決してアプリオリな(はじめから在る)ものではありません。

 

二、

明治40年代に始まる告白という文学の形式に先行するものとしてキリスト教の告白という制度が存在しています。
明治の文学者たちにとってキリスト教の衝撃とその影響は否定することは出来ません。
さらに言えば、西欧文学そのものが告白という制度に由来し、文学は既にニーチェの批判するキリスト教的な転倒にすでに感染してしまっており、意識するしないにかかわらず、その枠組みに組み込まれてしまっています。

 

三、

明治の体制から除け者にされた旧士族(いわば武士であることにしか存在価値を見出せないにもかかわらず、それを許されない階層)の無力感と怨恨感情を抱く心に、キリスト教(新教)は深く喰いこみます。
新渡戸稲造や内村鑑三がキリスト教と武士道を接続したのは、この時代においてはもうキリスト教徒であることによってしか「武士」であることを確保し得なかったからです。

刀を必要としなくなった江戸という太平の世の中において、武士は社会的に曖昧な存在となり、その存在理由として精神的理念「武士道」が必要となりました。
そんな理念的な武士という階層を現実的に守るのは武士そのものの力ではなく封建制度であり、江戸幕府の崩壊によりそれが失われた時、武士という存在の曖昧さのみが残りました。

没落士族が武士道という主人の自尊心を維持するために、キリスト教的な価値転倒(主人であることを放棄することによってむしろ主人になる-ニーチェの項を参照-)の思想を拠り所にしたのです。
武士道はキリスト教に接木され、その新生をはかります。

「告白」とは、主人でありえなかった弱者の転倒された権力意志であり、それは悔悛ではなく、主体奪還の試みです。
自分の素直さ(真理性)を誇ることによって、他者より優位に立ち、内なる真理(神)に服従することにおいて、外的権威(主人)から自由であろうとすることです(ルターの項を参照)。

 

四、

内村鑑三は神道的な多神教からキリスト教的一神教へ転換することによって、自然のうちから意味や禁忌や力を剥奪し、それらを被造物(作られたもの)でしかないたんなる自然として見ることになります。
これは先に述べた風景の発見(風景化された自然)です。
畏れるべき自然という主人から、精神は自由を(というより精神そのものを)獲得することになります。
多神論的な多様性を抑圧することが、主体を獲得するための条件なのです。

[少し分かりにくい箇所なので解説します。主体というものはひとつの精神にひとつの肉体が対応し、ひとつの主観(視点)から世界を見る統一体です。しかし、元来人間は多形倒錯的な欲望(肉体)を持ち、精神は分裂症的であり、自己と他者の不分明な複数の視点をもった、不統一な存在者です。文化や教育の中で、その多様性を専制的に抑圧し、ひとつの中心から全てをまとめ上げていくわけですが、この中心となるものが主体です。]

自然の多様性を抑圧して単なる風景にすることによって、「風景の発見」がなされたように、キリスト教的な文化は人間の肉体(欲望)の多形倒錯性を抑圧することにおいて、単なる肉体を獲得します(肉体の発見)。
文明化(近代的主体化)は、制御できない過剰な健康を持つ自然な人間を、精神的にも肉体的にも去勢し弱化させるキリスト教的方法論によって進められます。

ここで重要なことは、明治維新という大きな変動の中で生ずる様々な権力同士の対立による多神論的葛藤の中から、明治国家が近代国家として中心化していく過程と、個人における近代的主体化の過程が同時期に進行し相互浸透したことです。
国家権力への対抗として、主体の自立や内面への誠実さを称揚することは、むしろイデオロギーの追従であり、主体や内面こそ専制権力であるという事実が見えていません。

「国家」および「内面」の成立は、当時の状況として不可避的なものです。
問題となるのはそれを自明なものとする今日の態度であり、国家と主体が対立しているように見せかけながら相互に補完しあうことによって、起源を覆い隠そうとする欺瞞です。

 

(3)構成力について、につづく