柄谷行人の『日本近代文学の起源』風景の発見

芸術/メディア

 

 

風景の発見

 

一、

「文学」という観念は相対的なものであるのですが、その中にいる限りなかなかそれに気付くことができません。
漱石の学んだ英文学の普遍性への疑いは、それが決して経験に先立つアプリオリなものではなく、その起源(歴史性)を覆い隠すことにより成立しているということに向きます。

漱石が、固定した歴史主義的な文学研究(普遍的なものを前提とする文学史)を否定したのは、彼がもっと本質的な文学そのものの歴史性を問うているからです。
それは歴史を必然的で連続的なものとして見る歴史主義、およびその内に隠れた西欧中心主義への異義です。

漱石が重視するのは、作品を作家や時代精神といった全体の内に還元し配置するのではなく、個々の作品の上にあらわれる特性によって区別する姿勢です。
歴史的背景や作家の心理ではなく、文学作品それ自体の表現や構造などから作品を解明しようとするフォルマリスト的(構造主義的)な見方です。

例えば、ロマン主義と自然主義は歴史的な概念ですが、漱石はそれらを二つの主義に対立させるのではなく、「主観的態度」「客観的態度」という特性(要素)の混交によって構造的に記述しようとします。

存在するのはそういう組み替え可能な構造だけです。
西欧のアイデンティティ(自己同一性)は、あくまで偶然選び取られたたったひとつの構造でしかないという事実を隠蔽し、それを必然的で普遍のもの(リニアな歴史的発展)と捉えます。
それは日本の文学のアイデンティティについても同様に言えることです。

この事実は、なぜ歴史や私はこうであってああでないのか、という根源的な存在への疑いを生じさせます。
フォルマリズムも構造主義もその問いが欠けています。
漱石の創作活動はこの根源的な問題の延長線上にあり、そういう意味で理論から派生した真に理論的な文学といえます。

 

二、

西欧文学と漢文学(近代文学以前の日本の文学を含んだ)という異質なものを学んだ漱石にとって、文学の自明性というものに不安や疑いが生じます。

例えば、漢文学のあり方に似たものとして「山水画」がありますが、それはフェノロサによって命名され定義づけられた、明治近代化(西洋意識と日本文化の邂逅)の中での発明品です。
「山水画」という概念しか知らずそれを自明視する現代の私達には、その命名以前「月並」「四季絵」などと呼ばれていたそれらの絵が、当時いかなる形で認識されていたかは知り得ません。

それは「漢文学」においても同様、現在の「文学」の視座において見られたものであり、その歴史性は見逃されています。
それが何かと言えば、「風景の発見」です。

日本におけるそれは明治20年代、いわばそれは「風景としての風景」の発見であり、今までとはまったく違う認識において風景が出現してくるということです。
この「風景」にすでに馴染んでしまっている私達にこのねじれた断層は見えません。
漱石の疑いは、西欧を学んだことによるこの断層の認識からはじまります。

山水画の空間は、西欧の遠近法とはまったく別のものです。
遠近法とは、固定した視点と消失点を軸とし、事物を統一的に配したもの、いわば客観的風景の秩序の再現(写実、描写)です。
それに比して山水画は、主体的個人と客観的物の対峙関係ではなく、心の内にある先見的な形而上学的なモデル(理想や概念のようなイデアルなもの)を見ています。

だから、芭蕉などは、決して客観的な風景を見てそれを描写したわけではなく、風景は過去の文学や言葉につながるものでしかありません(例えば、芭蕉の有名な「夏草」は、中国の詩人杜甫の「城春の草青」につなげるものであり、風景の夏草ではない)。

明治20年代に確立した「国文学」(それ以前の日本の文学「漢文学」と対比的に使われています)は、この「風景の発見」のなかで生じたものに過ぎず、このことを疑っていたのは漱石だけです。

 

三、

明治20年代の写実主義は江戸文学の延長であり、風景の萌芽はあっても決定的な断絶がありません。
そのズレが明確にあらわれ、風景の価値転倒が行われるのが、国木田独歩の『忘れえぬ人々』(明治31年)です。
それは現実よりも風景として見られた人間(忘れ得ぬ人々)を優位に置く倒錯したものです。

風景はたんに外に存在するものではありません。
風景の出現とは、根本的な認識の立ち居地の変化(知覚の様態の転換)によって起こるものです。
『忘れえぬ人々』の主人公は、眼前の人に対してはは冷淡ですが、誰でもない漠然とした風景としての人間には一体感をもちます。
風景とはむしろ外を見ない「内的人間」において生ずるものであり、関心が外にではなく内に逆転し閉ざされた内面的な状態において存在します。

先にも述べたように、これらの事実(起源)は隠蔽され、気付くことはありません。

 

四、五、

西洋絵画において、背景が主題を呑み込み、主従が転倒され、風景画が支配的になっていく歴史を嘆いたのがポール・ヴァレリーです。
それは芸術の内にある理性的なものを省みない感覚的な「印象」の勝利であり、どこにでもある草原の描写だけで満足する鑑賞者の俗化です。
これは絵画だけでなく文学も同様だとヴァレリーは述べます。

明治20年代、正岡子規の俳句による「写生」の実践において伝統的な俳句の主題を捨て、外界(発見された風景)の描写に目を向けました。
先ほど述べた山水画においても芭蕉においても、描かれるのは実際の松ではなく、松という概念です。
それが実在の松の描写として見えるためには、記号論的な布置の転倒が必要になります。

これは、人間の内面化志向において、外界から疎遠化された自己(内的人間)が誕生し、同時にその内的人間の内に「風景」が発見される過程です。
例えば、ルソーが『告白録』において描いたアルプスにおける自然との合一体験を読んだ読者は、スイスに殺到し、それまではただの障害物でしかなかった山が「アルプス」として見出されます。
内面的な文学からアルプスという風景は発見され、アルピニスト(登山家)が誕生します。
[分かりにくい場合は、バラージュの風景論をお読みください。]

風景が発見(発明)されると、それが昔から普遍(客観)的に存在するもののように見え、人はそれを模写しはじめ、そこに「リアリズム」というものが生じます。
リアリズムとはその実、転倒されたロマン主義、隠蔽されたロマン主義にすぎません。
近代文学のリアリズムは、「人間から疎遠化された、風景としての風景(そして風景としての人間)」の確立の中で生じます。

リアリズムの本質は非親和化にあります。
身近すぎて(親和)見ることのなかったものを疎遠にし(非親和化)、冷淡に見ることにあります。
リアリズムとは風景の描写というよりは風景の創出であり、たえざる非親和化によって誰も見ていなかった風景を存在させることです(忘れられた人々を忘れえぬ人々にすること)。

リアリズムとロマン主義を対立させることは無意味であり、それはその対立自体を生じさせた起源を見えなくしてしまいます。
漱石が二つの要素(主観-客観)の割合としてそれらを見たフォルマリスト的視座は、その起源にまでは及ばなかったにしても、その両義性および相対性を見、「文学史的な分類」いわば主義的な対立を否定します。
リアリズムもロマン主義も同じ源流から生ずるものであり、その起源が「風景の発見」という事態なのです。

私たちが「現実」と呼ぶものは、すでに内的な風景でしかありえず、つねに自意識の球体の中での出来事でしかありません。
それを破壊し真の客観(客観という名の主観ではなく)にいたることはできないにしても、その球体そのものの起源を明らかにし、記述することは出来ます。

 

六、

風景の成立は同時に客観物(客体)の成立であり、さらにそれはコインの両面のように見る主観(主体)いわば自己を生成します。
「風景の発見」という起源の忘却は、まるではじめから主体と客体の認識論的な布置が存在していたかのような錯覚を生じさせます。

江戸時代や中世の絵画になかった遠近法の意識が、近代的な主体意識であるデカルト的なコギト(思う我)の成立条件です。
ひとつの固定した視点(主体)から、均質(冷淡)に見られた事物(客体)の統一的な把握である「遠近法」において、必然的に浮き出してくるのが主体というものです。

これを問題にしたのがニーチェであり、ニーチェは既成の認識論の構造を遠近法的な倒錯と言います。
遠近法は内面化の産物なのですが、その結果生まれた主体が、さもはじめからいたように錯覚してしまいます。
ニーチェの言うように、私たちは多くの場合、原因と結果を倒錯して把握し、その転倒によって見失った原因を事後的にこしらえるのです。

日本において西欧的な近代化は、明治という限られた期間に一気に行われたため、漱石はこの近代的主体の発見(風景の発見)を眼前に見ることができたのです。

 

(2)告白という制度につづく