ライプニッツのモナド(かんたん版)

モナドとは何か

物質的な原子というものは、それ以上分割不可能な存在、世界の究極的な構成要素と考えられていました。
しかし、物質が分割不可能なのは、現時点での技術的な限界か定義によるものです。
いかに小さくとも何らかの空間的広がりを持つ以上、原理的に分割可能性が残ってしまいます。
それに対し空間的広がりを持たない、真に分割不可能な単一の実体は形而上学的(メタ-フィジカル、超-物理的)なものであり、それを「モナド」と名付けます。

真に分割できないものというのは、分かりやすく言うと精神や心です。
物体→植物→動物→人間(→神)の順に従い、高度な意識を持つモナド(非物質的原子、精神的実体)であり、これら各モナドのもつ精神(心)が互いを互いに映し合う鏡のように世界を表出(認識しつつ同時に表現)することで、全宇宙は成り立っています。

各モナドはひとつとして同じものはありませんが、大きく三つに大分できます。
「物質的モナド(眠れるモナド)」、意識および記憶をともなう「魂的モナド」、理性により自己(反省)や普遍的なものを認識できる「精神的モナド」です。
もちろん、これらはあくまで連続的なグラデーションの系列をなしており、明確に分類できるものではありません。

その精神に意識される表象には二種類あり、明晰な意識によって認識される「意識表象」と、曖昧で無意識的な意識によってなされる「微小表象」があります。
意識表象の作用の中でも、人間のように高度なものを「統覚」と言います(例えば、反省的な表象作用、我を思えるのは人間だけです)。

微小とは、小さすぎて影響を与えていないように見えても与えているような表象、という意味です。
イメージで喩えるなら、いま私たちがモニターで見ている白色は、赤、青、緑色の微小なLEDライトの集まりですが、私たちはそれにまったく気付いていません。
ちなみに、この無意識的な影響力を持つ微小表象は、後に心理学の無意識の学説へとつながっていきます。

人間は、意識に統合された明晰な表象(統覚)によって物事(意識表象)を認識することもあれば、酩酊状態の時のように意識の低下した動物程度の認識しかできないことがあります。
重度の昏睡状態では人間は植物とのアナロジー(植物人間)で表現されますし、脳死状態の場合は単なる物体として扱われることもあります。
物体→植物→動物→人間の差も、これに似た意識の程度の問題であり、植物や石のような物体にも人間からすれば無いに等しいような別様の精神の萌芽のようなものがあると考えます(眠れるモナド)。
人間という明確な精神的実体であるモナド以外の、意識を持たないモナド(植物や自然物など)も、無意識的な微小表象を持っています。

人間にとって、微小表象は本能的な反応、習慣的行為、無意識的な選択などの原因となり、意識表象は明晰に認識された意志的な行為を生み出し、その中間は認識されはするが明晰でない表象や、動機を上手く説明できないような行為を生じさせます(人間の多くはこの中間で生きています)。

モナドには窓がない

このモナドというものには窓がなく、他のモナドと直接的に交渉(相互作用)することはありません。
そもそも物理的な広がりを持たないモナドは、物体と違い、直接的な関係(因果や相互作用)を築けないからです。

一般的に知覚のモデルは、外部世界から精神の内部へと入ってくる感覚的印象の受け取りとされます。
しかし、モナドにはそんなものを受け容れる窓など無く、表象とはモナド自身の内から自発的に生ずる“表出”なのです。
インプレッション(印象)ではなく、エクスプレッション(表現)であり、表象とはいわば自己表現です。
表象とは、外部にあるものの写しではなく、自己の内部にあるもの(各モナドは全宇宙の原型のようなものをDNAのように自身の内に所有する)の投影であるということです。
厳密に言うと、モナドには外部や内部の区別など存在せず、メビウスの輪のように外も内もない自己充足的なものとして存在しています。

では、一体モナドはどうやって世界と関係するかというと、それはひとつのパースペクティブ(視点)においてです。
それぞれのモナドの位置が、世界の眺望の多様性(差異)を生じさせます。
円すいを上から見ると円、横から見ると三角、斜めから見ると雫形に見えるように。

モナドの自己表出および自己同一性(個性)とは、各モナドの視点に現れた世界のあり様そのものです。
宇宙はモナドの数だけある無数の宇宙として現れつつ、同時に各視点(モナド)相互をつなぐ関係性の地盤として唯一的に在るのです。
個々のモナドは自己の内に独自の仕方で宇宙(全世界)を表出する鏡であり、かつ宇宙の代表なのです。
各モナドの精神の内にある重層化した“ひだ”を広げれば、そこには全宇宙の地図が描かれているのです。

各モナドが自己の内に眠る同じ宇宙をそれ自身の内から異なった仕方で個性的に映し出し(表象、表出)、モナドは他のモナドを映し出す(知覚する)と同時に他のモナドによって映し出され(知覚され)るという二重の志向性において、世界を表現(代表)しています。
各自のかけがえのない視点とあり様に従い、全世界を表出する“活きた宇宙の永続的な鏡”として、各モナドは存在します。
その限りでモナドは個体(個性を持つ)であり、それら無数の個体的実体によって構成され、表現しあうその全体が「世界」なのです。

予定調和

実体が相互作用しない、言葉を変えれば各モナドが完全に独立し関係を持たないなら、一体世界はどういう秩序によって成り立っているのでしょうか。
ここで用いられる原理が、あの有名な「予定調和」です。
各実体はそれらが持つ予定調和という根によって、協調と独立を同時に実現します。

例えば、まったく同じ時間を刻む時計は、それぞれ独立に動きつつ、同時に調和を実現しています。
文明人と違い、時計の原理を知らない未開人がこれを見れば、何らかの形でこれら二つの時計が作用しあい、同じ針の動きをしていると考えます。
それと同様、実体や世界の本質を知らない私たちは、実体間に相互作用があると考えてしまうのです。

木こりが斧を振り下ろし薪を割る、ぜんまい仕掛けのからくり箱は、木こりの斧を振り下ろす反復運動と、割れてまた引っ付く薪の動きは、それぞれ独立した動きです。
しかし、からくり箱の中のぜんまい仕掛け(予定調和)を知らない子供には、「木こりが斧を振り下ろしたから薪が割れた」という因果(相互作用)で見てしまいます。

各モナドは同じ宇宙を包含しつつ(同じからくり箱の土台を所有しつつ)、異なるコンテクスト、いわば宇宙における地位と位置(木こりという場所、薪という場所)においてそれを展開、表出するだけです。
世界は各モナドによる無限の多様性において表出されつつ、かつそれらは予定調和によって協調を実現するのです。

詳細は本論にて