アドラーの個人心理学

心理/精神

伝統的な目的論

「人間は行動の選択において、常にその人にとって最良の選択をしている。もし、それがその人にとって悪い結果を導くなら、それは無知によるものである」
これはプラトンにはじまるひとつの人間観であり、形を変えながら、様々な思想家の基礎となっています。
アドラーについても同じで、人間行動の裏には、そういう目的論(現在の行動は何らかの良い目的を達成するための手段である)が潜んでいるということを前提に、心理学を構築します。

ライフスタイル

子供の頃から人間はその状況において、最も自分にとって良いと思う行動を選択しながら生きています。
そして繰り返される、そういう目的論的な行動はやがて習慣となり、習慣はやがて人格を形成し、最終的にそれは人生として帰結します。
こういう習慣の束、その人の人格を形成する行動の傾向や生き様を「ライフスタイル」と呼びます。

しかし、三つ子の魂百までと言うように、子供の頃に形成した習慣(ライフスタイル)は非常に強固であり、環境が変わってもうその行動では利益は出ず、むしろ自分を害するものであったとしても、私の行動を拘束し続けることになります。
例えば、子供の頃、普段厳しい両親が病気になると自分に優しくしてくれた。
だから自分は辛い時、病気がちでいつづけることにより、保護と安心を得ていたとします。
しかし、成人し、自立して、会社でもそのライフスタイルを敢行しても、誰も保護も安心も与えてくれず、社交辞令程度の心配の言葉をかけられて、むしろ厄介者として捨てられるだけです。

方法論

私が今現在、社会的な不適応や何らかの苦しみを生じさせる自分の行動に悩む時、このようなライフスタイルの齟齬が生じているのです。
アドラーの方法は、先ずこの事実を本人に気付かせ、過去のライフスタイルを共に探り、それを解除し、現在において良い結果を生むライフスタイルに変更することです。
現代的な視座からアドラーを解釈し、サルトルの実存哲学のように認知を変えれば即ライフスタイルも変わるかのように語る者も多いですが、そんな甘いものではありません。
右手で持っていた箸を、左手に持ちかえ訓練するように、子供の頃に強固に習慣付けたライフスタイルを、徐々に変えていくしかないのです。
認知行動療法のように、意識的な認知によって即変更できる行動は、現在進行形で生成しているライフスタイルに関してのみであり、過去に生成し固定したものに関してはそれなりの時間と努力が必要です。

アドラーはトラウマや決定論(過去の原因によって現在の行動は自動的に引き起こされる)を否定しますが、それらは単に過去において目的を持ち行動していた主体のことを忘却してしまっていることの、一面的な描写に過ぎないからです。
「子供の頃にイジメにあったトラウマから、集団生活が恐くいま会社に行けない」のではなく、「子供の頃イジメにあって、学校を休むという目的論的行動選択によってそれを何とか乗り切った。しかし、その行動の繰り返しの中でそれは習慣づけられ、いま、その強固な習慣のせいで会社に行けない」というのが正確です。
その認識によって、問題ある習慣(ライフスタイル)を反省し、徐々に解除し、今現在における最良の行動へと改善(新しいライフスタイルの形成)していくことができます。
決定論はたんなる忘却された習慣付けでしかないという、ヒュームの議論と重なります。

力への意志

アドラー心理学の第二の前提として、人間は生来的に力(生命力のようなポジティブなもの)を志向する動物であるということです。
力を志向する以上、力のない状態では劣等感を、力のある状態では優越感を持ちます。
力への意志は、力のない劣等感の状態(不完全)から、力のある優越性の状態(完全)へと成るように人間を動かします。
この人間の行為の原動力となるものを、「力への意志」と名づけます。

劣等感と優越感

アドラーにおける「劣等感」という言葉は、健康な努力と成長をうながす刺激を指す万人共通の基礎的な感覚です。
例えば、周囲より学力が劣っていることの劣等感を刺激として、勉強という努力によって成長し、優越性の状態へ到るように。
「劣等感」というものは空腹のような健全な欠乏感で、「優越感」はそれが満たされた健全な充足感であり、アドラー心理学においてそれらの言葉にネガティブな意味は全くありません。

劣等コンプレックス

しかし、この健全な劣等感解消のプロセスが、不健康なプロセスとして捻じ曲がった時、それを「劣等コンプレックス」と言います。
コンプレックスとは複合した観念の絡み合いを指す言葉ですが、日本では一般的に「コンプレックス(観念連合)=劣等感」と誤って捉えられてしまっています(それだけアドラーの影響が大きいということです)。

例えば、「両親は中卒だから、その遺伝のせいで私は勉強できない」「私の家は貧乏で塾に通えないから、他より成績悪くて当然だ」「テストで一番を取ったら、嫉妬で友人に仲間ハズレにされた。それがトラウマで勉強ができない」などと思えば、自分は努力して賢くならずとも、劣等感を解消することが可能です。

当たり前のはなし、勉強できない直接の原因は勉強しないからであって、きちんと努力しない限り一生無能力なままです。
健全な努力をせず、いびつな劣等感解消の方法を取り続ける限り、自分は常に世界をゆがめて解釈し言い訳を探し続けなければなりません。
それでは精神的な健康も、幸せも手に入るわけがありません。

優越コンプレックス

この劣等コンプレックスの裏返ったものが優越コンプレックスです。
それは劣等感を補償するために、虚構の優越感で覆い隠す方法です。
無能な人間に限って根拠のない自信を持ち、他者を蔑み、ちっぽけな自分を覆い隠すために、必死で大きく見せようとしまう。
自慢や、他者への蔑みは、劣等感の裏返しです。

中には自分の劣等性そのものまで誇る人がいます。
いわゆる不幸自慢です。
不幸であることによって他者と違う特別な者であろうとし、悲劇の主人公のような選民意識をもちます。
自らの不幸を武器にして他者を支配しようとし、社会は弱者を大切にすることによって成立する共同体であることを巧妙に利用することによって、優越的な立場に立とうとします。
しかし、これも劣等コンプレックスと同様、健康も、幸せも手に入りません。

私を忘却した世界

これらのコンプレックスがなぜ悪いかというと、自分自身の成長という本質的な課題(タスク)は放置したまま、それを他者や環境の問題にすり替え、擬似問題の泥濘にはまってしまうことです。
すべては他者や環境のせいであるという視点は、必然的に自分(個人)を消去した相対的な権力争いの世界観を生じさせます。
他者は仲間ではなく常に敵となり、他人の幸福を自分の劣等と捉えて他人の不幸を喜ぶ性根がつき、卑屈な精神は怨恨感情(ルサンチマン)を生み出します。
日々、対人関係に悩み、裏切りや嘲りや策略や復讐を恐れ、心休まる時はありません。

自分のタスクから疎外された人間の多いこういう社会の中で、つねに私は権力争いの競争をけしかけられます。
優越コンプレックスを持つ人間に、根拠なく見下されたり負け犬だど罵倒されたとしても、その挑発に乗ってしまえば、幸せへの道は閉ざされてしまいます。
最重要の問題は自分の人生のタスクであり、決してそれを忘れてはなりません。

人生の課題

アドラーは明確に治療の目標(精神的健康)となるような人間のあり方を提示します。
それは行動面で社会的に自立しつつ、心理面では自信をもつ(自分を信じる)ことです。
自立は必然的に他者との調和につながり(そうでなければただの孤立)、自信は必然的に他者への信頼を生じさせます(他人を信じられない人間は本質的に自分を信じていない)。

要するに個として自立しながら、社会と調和して生きる社会適応が、精神的な健康を生じさせるということです。
そして、この実現こそが人生のタスクであり、治療の目的でもあります。
前項において挙げた、コンプレックスから生じる不健全なプロセスは、すべてこの課題からの逃避と言えます。

課題の分離

なぜこの人生の課題というものが、逃避を生じさせるほど苦しいものであるかというと、それは私のコントロール内にある課題と、外にある他者の課題を混同してしまい、そもそも解決できない(コントロール不能の)課題に取り組んでしまっているからです。
あらゆる問題は、他人の課題に私が勝手に踏み込んだり、私の課題に他人を踏み込ませたりすることから生じます。
何らかの課題があるとき、「これは本質的に誰の課題であり、その課題の解決(あるいは失敗)の結果を最終的に引き受けるのは誰か」という、責任主体の明確化が重要です。

例えば、「承認欲求」というものは、他人の期待を満たす事によって、私の期待を充たすこと(承認や褒賞)であり、それは他人の課題のために自分の課題を放棄してしまった状態です。
当然、他者の期待の変化は天気のように予測不能で、無数の他者の異なる期待の前に引き裂かれ、非常に困難な状況に陥ります。
まさに課題の分離の出来ていない典型であり、そもそも解決不能の課題に必死で取り組んでいるのです。
逆に言えば、私の期待通りに他者が動いてくれずに憤慨する時、私は自分の課題を他者の課題と取り違えているのであり、これも課題の分離のできていない未熟な状態といえます。

引き受ける責任もなければ介入する権利もない、そういう他者の課題と、自分自身の責任と行動によって解決しなければならない課題をきちんと区別しなければ、どちらの問題も解決が不可能になります。

自分を生きる

なすべきことは、自分の目的となるものを自覚し、その目標達成のための現実的に自分の解決(コントロール)可能な課題を考案し引き受け、自分の人生を歩むことです。
その選択に対し、他者がどのような評価を下すのかは他者の課題であり、私の問題ではありません。

もちろん、自分の道を自分で選ぶこと(自由)には、責任と不安と困難がともないます。
しかし、根本的にその苦しみの質が異なっています。
他者の人生(課題)を生きる苦しみは、山の上に主人の荷物を運ぶ奴隷のネガティブな苦しみです。
それに対し、自分の人生(課題)を生きる苦しみは、登山家が山を登るときに感じる心地よいポジティブな苦しみです。

共同体感覚

自分の道を歩くと言うと、何か孤独な(孤高の?)ものに聴こえてしまいますが、決してそうではありません。
前項で自立と孤立は違うと述べましたが、自立というものは、共同体(社会)を基礎として生ずるものです。

まず、課題の分離によって個々人の責任の所在を明確にすることにより、各々がお互いを責任主体として認め合う関係が生じます。
自由と責任とは同じものの別表現であるため、互いを責任主体として認め合うことは、互いを自由な人間だと認め合う対等な社会と言えます(個性を伴う平等)。
そういう社会的関心が「共同体感覚」であり、それがアドラー心理学における個人および社会のあり方の指標となります。

自己中心的な人

自立の反対は依存であり、社会性の反対はいわゆる自己中です。
自立性と社会性が結ばれるように、依存性と自己中は結びつきます。
さらに言えば、前者は課題の分離のできる人であり、後者はできない人です。

利己的な人(いわゆる自己中)は、他者は自己の期待を満たしてくれる存在(自己の課題を代わりに達成してくれる人)だと見ており、非常に他者に依存的に生きています。

利他的な人も、その外観とは裏腹に非常に強い自己中心性を隠し持っています。
勿論、それは見返り(他人の承認)を求める依存的な利他性のことであり、課題の分離によって自他共に自立した者同士の協同関係を言うのではありません。
承認欲求の本質は、他者がどれだけ自分のことを誉めてくれるか、いわばどれだけ他者が自分の欲求を満たしてくれるかです。
他者のことを思っているように見せかけながら、その実自分のことにしか関心がないのです。
他者の課題に強引に割り込んで、他者の自立性を根こそぎにしつつ、なおかつ自分自身の課題からも永遠に逃げ続けます。

みんなが世界の中心

課題の分離とは、いわば相互主観性の理解です。
この私が私という視点から私固有の世界を見ているように、あそこにいる他者も他者の視点から他者特有の世界を見ており、世界の中心は私にだけあるのではなく、無数の他者の存在の数だけ無数の中心が存在するという認識です。

所属感

共同体感覚によって生ずる社会という土台の上に、個人が具体的な他者との関わりの中で自分を規定することによって、所属感やアイデンティティー(自己の同一性と他者との差異)が生じます。
自分の居場所(所属感)とは、生まれながらに与えられるものではなく、自分自身が主体的に共同体にコミットしていくことにおいて、自らの手で獲得していくものなのです。
社会(共同体)という地図の上に、具体的に自分のあり方を描くことによってのみ所属感は生ずるのであり、他者との関わりなしに自分の存在を肯定することは、妄想の力でも借りない限り不可能です。

横の関係性

これらの関係性を構造的に見れば、それは「横の関係性」として記述できます。
課題の分離ができた自立する者同士の関係性では明確に各々が分節されているため、どちらが上だとか下だとかは意味のない軸であり、すべては横の関係性として成立します。
分かりやすく言うと、流行歌の『世界にひとつだけの花(槇原敬之詞)』が、上下の関係性を批判し、かけがえのない個の大切さを歌いましたが、その個々の花たちがオンリーワンに留まらずに協同する世界が横の関係性です。

縦の関係性

しかし、課題の分離のできない者は自己の境界が曖昧であり、自己を他者の上に拡張したり、他者を自己の上に伸張させたりするため、お互いが重なり合い、個というものが確立されず不明瞭です。
この不安定な関係は、必然的に上下の関係性で自己の存在価値をはかることに頼らざるをえません。
この縦の構造こそが、先述の「劣等コンプレックス(あるいは優越コンプレックス)」を無限に生み出す温床となるのです。
ここには、「個(自由)」も「平等(横の区別)」もありません。
あるのは「拘束」と「差別(縦の区別)」で動く世界です。

共同体(社会)の条件

人間が人間を管理するということが、社会共同体のはじまりであり、その基本条件でもあるのですが、だからと言って、別に管理する者がされる者よりも偉い(上下の関係性)わけではありません。
管理者はただ管理能力に長けた人であり、実行者はただ実行能力に長けた人であり、彼等がお互いの個を持ち発揮しながら、お互いに協同する(横の関係性)からこそ、社会の合理性と生産性が向上するだけです。

だから、監督が絶対であり、選手は個を殺して従わなければならないようなチームの場合、それは課題の分離のできていない未熟なチーム(共同体)だと言えます。
それは刹那的な結果しかもたらさず、トータルで見ると非常に非効率的で、精神的にも不健康な共同体のあり方です。

共同体感覚を生む三つの要素

以上のような共同体感覚を得るためには、重要な三つの要素があります。
「自己の受容」「他者の信頼」「他者への貢献」です。
まずひとつめの自己受容から説明していきます。

自己の受容

客観的な事実とそれに伴う因果論ではなく、事実に対する目的論的な個人の主観的認知を重視するのがアドラー心理学の前提であると述べました。
重要なのは客観的な環境として何があるかではなく、それをどう見てどう使うか、です。
事物のうちで「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極め、変えられないものに無益なエネルギーを使わず、変えられるものの現実的な可能性にのみに意識を集中するということです。

課題の分離によって、「現状の自分、及び自分の可能性」と「そうでないもの(他者の可能性)」をきちんと区別し、「今はできない自分」という現実を受容しつつ、地に足をつけた上で可能性を探り、実現していくことです。
謙虚にありのままの自己を受容し、同時に卑屈にならず自分の可能性をまっすぐに見据えること、いわば幻想ではない本当の自己信頼を持つことです。

他者の信頼

次に重要なものが、無条件に他者を信じる「他者信頼」です。
例えば、勝ちまくっている投手に対し、「私は彼を信じている」と言って先発に選ぶ監督は、別にその投手を「信じている」のではなく、当然、次も勝つだろうという計算(打算)によって登板させているだけのことです。
「信じる」ということは、当然ではなく疑いの可能性が大きい時に、それでも賭けるという時に生じるものです。
アドラーの言う「他者信頼」とは、そういう計算抜きに、裏切られる可能性も覚悟で、他者を信じることです。
勿論、無条件に信じると言っても、万人すべてを信じるということではなく、関係の構築を考える他者を私自身の課題として選んだ上でのことです。

なぜそれが必要かというと、他者を信じなければ、残るものは懐疑だけだからです。
懐疑というものは底無しであり、世界のあらゆるものが疑いの徴(しるし)として現れてきます。
恋人の浮気を疑う者は、何でもない行動(例えば、携帯で時間を見た)すら浮気の証拠(浮気相手のメールのチェック)だと感じてしまい、世界のあらゆる事物も他者も敵対的なものとして現前してきます。
こんな状態では、誰とも関係を築くことなどできません。

この懐疑を断つには、いずれにせよどこかで「信じる」しかないのです。
「信じる」ことを怖れていれば、人は表面的な部分でしかつながる事ができません。
浅い関係であれば壊れた時の痛みも小さいですが、喜びもまた小さい。
他人を「信じる」ことによってもっと深い関係に踏み込む勇気は、もっと深い所にある人間の喜びの可能性を開いてくれます。
それによって悲しみもまた深くなるでしょうが、それもまた自己受容(現実の直視)でもあるのです。

いつパンクするかと常に怖れながらするサイクリングが楽しいでしょうか。
いつ嫌われるかと怖れながらするデートが楽しいでしょうか。
たった一度のかけがえのない人生です。
疑いながら生き、人生という表層をすべるだけで終わるのは、勿体なくはないでしょうか。

他者への貢献

ありのままの自己を受容し、他者を信頼すれば、必然的にそこには「仲間あるいは共同体」という意識が芽生えてきます。
先にも述べたように、共同体という地図に私の居場所を描くことによって、私の中に所属感というものが生まれます。
そこは根こぎにされ漂う不安な世界ではなく、世界への安定した根付きによって与えられる安心の場所です。
自己受容と他者信頼のどちらかが欠ければ、世界は私に敵対し、安心ならざるものとなります。

私の居場所を共同体という地図に描くということは、社会に参画していくということです。
どんな形であれ、それは共同体(他者)への貢献となります。
私が毎日工場で作った電球は、学校のトイレや家の玄関の安全のために貢献します。
他者貢献というのは、自分を捨てて他者に尽くすという自己犠牲的のように、課題の分離のできない非自立的で未熟なものではありません。
あくまでも自分の存在価値の実践を通して、他者に貢献するということです。
どちらかの不幸がもう一方の幸せになるような縦の利益関係ではなく、お互いが対等に協同し貢献しあう横の関係が他者貢献です。

それは「自分のため」と「他人のため」が同時に共存する世界です。
見返りのない無償の貢献のみが本当の善で、それ以外は偽善だと言う人は、課題の分離のできていない、未熟な依存関係(上下の関係)で世界を見る人です。

三位一体

これら三つの要素は、円環的に強化されていきます。
あるがままの現実を受け容れる「自己受容」が裏切りへのを恐れを払拭し、「他者信頼」を可能にします。
そして他者を信頼することによって、共同体の関係の中へ入っていくことができ、仲間への貢献「他者貢献」というものが結実します。
そしてこの「他者貢献」が自己の有能感へとつながり、より強い自己受容が生じます。
このサイクルによって、共同体感覚というものが強化されていきます。

自立した人の生き方

人間には本質的に優越性への欲求があり、それは社会貢献の中でのみ満たされるものであると述べました。
優越性といっても、その実際はいたって普通の様相を呈します。
なぜなら自立した人間、自分に対しての信頼を持つ者は、ことさら自分が特別な人間であることを誇示する必要はないからです。

劣等感の項でも述べたように、自分を特別な存在として誇示しようとする人は、自分に自信のない人、自己を確立(自立)できていない人です。
優越性への欲求が、自分を特別な存在にしようと駆り立てるものである場合は、注意しなければなりません。
それは自分が本質的なものを離れ、疎外されてしまっている状態です。
例えば、私がボランティア活動をするのは社会貢献が目的であって、それに贈られる賞ではありません。

戦略的に自己を宣伝し偉人に名を連ねた者を除けば、大抵の偉人は普通に自分の課題を日々淡々とこなしていただけです。
その道程と時代のタイミングがかみ合って、結果的に偉人となっただけであり、別にアインシュタインもマザーテレサも偉人になろうとして社会貢献していたわけではありません。

マザーテレサ以上に社会に貢献しながら、名もなき人として普通に生涯を終えた人は星の数ほどいます。
別にそれで彼らが不幸だとか悔しいだとか思うわけではありません。
人間的に自立している人にとっては、自分の課題をこなすことが本質であり、名声などというものは付帯的なもの(オマケ)にすぎません。
ノーベル賞や文化勲章よりも、身近な他者の笑顔や、子供のありがとうの言葉に価値を感じる普通の人こそ、社会に貢献し、共同体を支えている人たちなのです。

世界を変える自分の力

目的論の項で、目的(未来)が現在や過去の意味を決定すると述べましたが、目的というものは現在からいくらでも変更可能な柔軟なものです。
例えば、目玉焼きを作ろうという目的を立てて、現在において卵の黄味を潰してしまったとしても、その目的をスクランブルエッグに変更すれば、その事実は失敗から成功に変更することが出来ます。
軸はつねにいま現在のアクションにあり、そこから未来に目的を立て、その未来が現在と過去をつねに新たに意味付けます。

あらかじめ固定した目的がないという事は、そもそも私の人生に決まった意味などないということです。
私の現在のあり方が人生をつむいでいくという事は、人生の意味は私が作るものだということです。
「世界は酷い所であり、他者は敵である」というライフスタイルを選ぶことは、世界を悪いものとして意味付け現前させることであり、「世界は結構いい所であり、他者は仲間である」というライフスタイルを選べば、世界は善いものとして存在します。

私の力は計り知れないほど大きいと知るべきなのです。
私が変われば、世界も変わります。
世界は誰かが変えてくれるものではなく、自分によって変えていくものなのです。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック(いわゆるトラウマ)に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(アドラー著・岸見一郎訳『人生の意味の心理学』より)

 

おわり

(関連記事)エリスの論理療法

(関連記事)サルトルの実存は本質に先立つ

(関連記事)スティーブン・コヴィーの『七つの習慣』