小野洋子の『グレープフルーツ』

芸術/メディア

一、芸術は想像である

ヨーコのアートにおいては、誰でもどこでも手に入るような普通の材料や媒体によって、頭の中にあるアイデアや芸術的な概念を表現することが重要です。
突き詰めれば、水や空気や光や愛のような、モノでないもので作品を作ることも可能であり、最終的に芸術において本質的なのはアイデアやコンセプトなどの概念そのものとなります。

現代美術のマルセル・デュシャンが、どこにでもあるガラス容器に「パリの空気」というラベルを貼って芸術作品にしたり、最近では改元時にどこにでもある空缶に封をしただけの「平成の空気」という商品が飛ぶように売れたりしましたが、そこにあるのは概念(アイデア、コンセプト)の価値のみです。
これを一種のまやかしだと言って、人々は非難する訳ですが、実のところ私達が本物で独自なモノとする高価な美術品も、これと大差がないのです。

どこにでもあるガラス容器についた傷やラベルの筆跡が、その独自性の顕れとして既製品から差別化され、数百万ドルのデュシャンの美術品として扱われるようになるわけですが、それこそ、まやかしなのではないかという疑問です。
ついでに言えば、作家は概念を売ったはずなのに、ここではいつの間にかそれをモノの価値としてすり替えられています。
一般的な例でいえば、ある国の人々は、部外者から見ればどこにでもある単なる石を、命よりも貴重な聖なる石としてそれぞれが想像し価値付け、その奪い合いのために激しい殺しあいをします。
そんな風に、貴重なモノの価値とは、実は想像や概念が付与するものであり、その事実を隠すことによって、芸術作品はホンモノ感をアピールします。

そんなインチキをするくらいなら、芸術なんて想像(概念)の産物でしかないということをオープンにしたほうが良いのであって、インチキをインチキであると公言することによって、インチキでなくすしか方法がありません。
だからこそ、彼女は、芸術の本質はアイデアやコンセプトだけだと言うのです。

 

二、鑑賞者が作家になる

アカデミックな芸術においては、コミュニケーションにおける発信者(作家)と受信者(鑑賞者)が厳格に分けられています。
作家はメッセージを発信する自由で主体的で有能な者であり、受信者は従属的で無能な者であるという地位に甘んじています。
鑑賞者はそこから脱却し、自らもコミュニケートする主体とならなければならないのです。

ヨーコはただ、簡単な作品のレシピ(動機)を差し出すだけであり、作るのは鑑賞者自身です。
円を描くというインストラクションで、別に四角を描いても良いのであって、重要なのは、そのインストラクションによって、その人に何らかの変化を起こすことです。
彼女のインストラクションを、現実で実行するも想像で実行するも、従うも反抗するも、その人の主体的な活動を起動するのであれば、どんな表現方法でも良いのです。

 

三、メッセージはメディアである

この時代のアートにおいて強い影響力を持っていた考えとして、マクルーハンやグリーンバーグに代表されるメディア(メディウム)の優位性というものが挙げられます。
簡単に言うと、芸術において重要なのは媒体であって、それが伝える中身ではないという主張です。

しかし、メディアというものはモノであり、当然そこには所有の関係が生じ、メディアを持つ者と持たぬ者という格差が生じます。
コミュニケーションの可能性を持つのはメディアの所有者(特権者)のみであり、持たぬ者は沈黙を強いられます。
特定の人々がコミュニケーション(特にメッセージの発信)を許されないということが、差別と抑圧の本質でもあり、必然的にそこから不満や暴力が生じてきます。
ですので、すべての人々がコミュニケーションの可能性を持つこと(トータル・コミュニケーション)が、平和への道の一歩になるということです。

だから彼女はマクルーハンの「メディアはメッセージである」をひっくり返して、「メッセージはメディアである」と言います。
誰もが平等に所有する想像やメッセージ(言語に限らず)などの概念そのものをメディアとして捉えるなら、コミュニケーションはモノの拘束から解放されます。

例えば、ある少年がある少女に「好き」というメッセージを伝える時、それがどんな媒体、ラブレターだろうが、口頭だろうが、電話だろうが、目配せや態度(身体言語)だろうが、何でもよくはないか?ということです。
もし、その媒体の如何によってそのコミュニケーションの成否が変わるとしたら(例、ラブレター以外の告白は受け取らない少女)、むしろその人はフィティッシュに媒体を志向しているだけであり(例、ラブレターに恋する少女)、そもそもコミュニケーションなど取っていことになります。

ヨーコが訴えるのもシンプルにそういうことです。
大切なのは中身であって、コミュニケーションの仕方や方法ではないのです。
それぞれが自分の状況に応じた自分なりの方法を持っていますし、それに自信をもってみんなが発信者(作り手)となっていけばよいのです。
中身(メッセージ)よりもそれを表現する技術や方法を評価するのが既存の芸術ですが、それは手段を自己目的化し、本来の目的を忘却してしまっています。

芸術が媒体如何にかかわるものでしかないとしたら、それはただの倒錯したモノへのフェティシズムでしかありません。
マクルーハンの言うコミュニケーションを戯画的に言えば、糸電話が耳をくすぐる振動が気持ちよくて、延々と無意味なメッセージを送りあう子供のようなものです。
グリーンバーグも突き詰めれば、オタク的な物への執着と疎外、あるいはインテリの自己満足的な大人の玩具遊びです。
これらの眼差しは対話者に向けられているのではなく、その中間(ミディアム=メディウム=メディア)で止まってしまっており、コミュニケーションとして成立していません。

 

四、想像による革命

社会を変革しようとする人達は、既存の社会を破壊した上で、新しい社会を作ろうとするわけですが、それでは同じことの繰り返しで意味がありません。
気に入らないからといって積み上げたものをリセットし続ければ、常に人は住む家のない根無し草のような不安定な世界の中で生きねばなりません。
モノしか見えない人間は、当然、世界をモノによって変えようとし、そういう人々がとる最終的な手段は暴力であり、世界の形を物的な力によって物的に変えようとするわけです。

そうではなく、社会変革において重要なのは価値の変革、頭の変革です。
今あるモノはそのままにして壊さずに、概念のみ(モノの観方)を変えることによって、徐々に世界をよくして行くことです。
勿論、そこで重要になるのは「想像すること」による、別の可能性の模索と提示です。
モノの価値は想像によって生じているものでしかないと述べましたが、その想像をより良い想像へと転換することによって、社会構造を芯から徐々に変えていくことです。
例えば、博士号を持つ人を誰も尊敬しなくなれば、必死に努力して博士号を取ろうとする人はいなくなり、大学を頂点とする学校教育のシステムは自ずと変わっていきます。

人々は経済発展によって、モノ(テレビや冷蔵庫や自動車など)は誰でも持つようになりましたが、想像力とコミュニケーションに関しては、いまだ未開人のままなのです。

 

やがて、人々が自分で自分自身の指図[Instruction]や、与えられた指図を変更して絵を描きはじめると、芸術家は必要なくなるでしょう。

この本を読み終わったら燃やしなさい。(同上)

 

おわり

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