クーンの『科学革命の構造』(3)科学革命

(2)のつづき

第八章、危機への反応

[この章の前半は、科学者は反証例に直面し科学理論を放棄する、と言うポパーの反証主義への批判になっています。]

科学者は変則性に出会いながらも、既成のパラダイムを放棄しようとはせず、危機を導く反証例を反証と認めたがりません。
一度パラダイムとなった科学理論は、それに変わるパラダイムによって取って代わられるまでは無傷であり、単純に理論と現実の直接的な検討によって放棄されるようなものではありません。
既存のパラダイムを放棄する時、同時に他のものを受容する決断をするのであり、パラダイムは現実比較のみならず、複数のパラダイムの比較によって、その決断を下すのです。

反証例は既成の理論の虚偽性を証明するものとはならず、既存の学者はただ理論を上手く取り繕うような修正を施し対処するだけです。
もし、そうしない場合は、それは新しいパラダイムに移行し、反証例が反証でなくなっている時であり、反証例はむしろ実証例として吸収されています。
反証によって生ずるパラダイムの放棄があるとすれば、それは学者自身がその危機に耐えられず、科学を放棄するときです。
反証例を反証とさせない、新しいパラダイムを採用しない者は、科学者集団から排斥されるだけです。
科学史の中で、一度でもパラダイムが生成すると、もうパラダイムなしには科学研究というものが成立しません。

通常科学と危機状態の科学の違いは、反証例に直面しているかどうかの違いです。
しかし、前章のコペルニクスの例で見たように、コペルニクスが反証例として見たものを、プトレマイオスの信奉者はパズル解きの問題として見ていたということです。
通常科学は不完全でパズル解きの余地があるからこそ、研究問題が生ずるのであり、完全な科学理論は単なる工学の道具となるだけです。
パズル解きと反証例は同じものの両面(ゲシュタルト的反転)であり、パズル問題(反証例)が積み重なり、それを何とか解くために、通常科学のルールをゆるめることが、最終的に新しいパラダイムへの変革につながるのです。
科学理論はまったく反証例に直面しないか、つねに反証例に晒されているかの、どちらかなのです(有名なだまし絵「ルビンの壷」の顔と壷を同時に認識できないように)。

変則性が通常科学の問題として扱う限界を超えた時、それは危機となり、異常科学の圏域に突入します。
ようやく変則性が専門家集団一般に認識され、一流の科学者達もその解決を専門として仕事をはじめます。
しかし、そこにあるのは部分的な解決が無数に現れる分裂状態であり、各々のパラダイムの修正と整備の対立の中で、パラダイムの完全性は溶けていき、通常科学のルールはその拘束力を失い疑いの目が向けられます。
パラダイムに対する意見の一致はみられなくなっていきます。
また、通常科学は既存のパラダイムに対する信仰をもつため、ルールや基本的な仮定というものを反省する必要はなく、哲学者から距離をとっていますが、異常科学時においては、根本への反省を迫る哲学的分析が必要とされるため、両者は接近します。
この混乱した現状での解決を諦め、未来の道具立ての進歩に任せて放置することもありますが、本書で考察するのは、新しいパラダイムの出現とその受容をめぐる争いの末、危機が終わるケースです。

新しいパラダイムの始まりは、新しい通常科学の始まりであり、それは新しい基礎から再建することです。
移行期間は新旧のパラダイム間で問題が重なりますが、それが完了すると、専門家集団はその分野に関してのものの見方や考え方、理論的前提や方法や目標などを一新することになります。
新しいパラダイムの旗手となるのは、年齢が若いか、その分野に新しく入ってきた新人であることが多く、彼等は古いルールに縛られることなく、新しいものに開かれています。

第九章、革命の本質

本書においては、パラダイムの変化を科学「革命」という政治的な概念との類比で表します。
政治的な革命のように、政体内で既存の法(ルール)や制度が、環境から生じてくる様々な問題に対し上手く機能しないという危機の感覚が拡がる時、それは生じます。
また、政体が禁止する方向に政治的革命が向かうように、それは既存の制度を廃し、一時的に政治の関節から外れた個人は異常な状態に陥り、同時にこの危機を何とかしようという具体的な提案の党派的争いの中から、新しい制度が生まれてきます。

しかし、これら党派争いを判定するような超制度的な審級が存在しない以上、それは純粋に制度の問題から外れた、ある種の説得の技術に拠ることになります。
対立するパラダイム間においても、その決定に際し、超パラダイム的なものに依拠することができないため、各集団は、自己のパラダイムによって自己のパラダイムを評価するという循環的な手法で、その正当性を主張せざるを得ません。
いかにそれが明確な論拠と強い説得力を持つものであっても、あくまでも循環論的な説得の術であり、各党派に共通する前提や価値などの論議はなされません。
最終的にその決定は、関係者の集団的な同意を説得によって勝ち取る作業であり、それ(集団的同意)以上に高い規準というものは存在しません。

対立するパラダイムはこの徹底的な議論の中での各々の長所の主張と欠陥の指摘とを通して、自己がどういう規準を充たせるものであるか(どういう問題を解けるか)が明確になります。
あるパラダイムを採用することによって、すべての問題が解けるようになるわけでもなく、同じ問題に対して複数のパラダイムが解を出すこともあります。
最終的にパラダイムの選択は、現在どの問題を解くことが最も有意義であるかという科学外の価値判断を規準にして決定されます。
パラダイム間の選択決定は、純粋に科学に依拠した論争から生まれるのではなく(そのためにはパラダイムを裁く超越的なパラダイムが必要になるので原理的に不可能)、この科学の外側にある規準(社会的な利益)に拠っているのです。

第十章、世界観の変革

革命によって科学者たちは、同じ場所にありながらもまったく別の世界を見ることになります。
ゲシュタルト変換のように、今まで老婆だと思っていたものが、美しい娘になるように(W.E.ヒル画)。

勿論、科学者集団においては知覚は再教育され習熟する時間を必要とし、通常科学の伝統的な見方から、新しいものの見方へゆるやかに変化します。

反転眼鏡による心理学実験のように、世界の像がまったく逆になる眼鏡をつけた人は、最初は歩くこともままならず、食べたものを吐いてしまい、かなり危険な状態に陥ります。
しかし、数日経つとその世界の規準(パラダイム)を学び、混乱は安定へと変わり、まったく以前と変わらない生活を送れるようになります。
この被験者は視野における革命的な転換を経たわけです。
知覚の条件においてもパラダイムのようなものが存在しており、そういう概念の枠組みや規準のようなものを習得していなければ、ただ世界は吐き気を感じるような暴力的な混乱があるだけになります。

ただ、ゲシュタルトの変換(老婆⇔娘)が超越(客観)的な立場から繰り返し意識して行えるものであるのと違い、科学的な観測は学者の道具立て(観点や観測器具など)に限界づけられており、パラダイムの内側に居る彼らには、他の知覚像の可能性というものを知ることはできません。
プトレマイオスからコペルニクスへとパラダイムチェンジした学者は、「私は一年前に月を惑星と見ていて、現在は衛星と見ている」などとは言わず、「私は一年前に月を惑星と見ていたが、それは間違いであった」と言うだけです。

言い換えれば、これは定まった事実(データ)に対して、ただ解釈が変わっただけではないということです。
事実の観測や集められるデータというものが、そもそも解釈の変化の条件である基体となるような安定性を持ちえません。
正確には先ほどの反転眼鏡のように、いかにそれが同じ対象に向かっていると理解していても、根本的かつ徹底的に変革した上で見ざるを得ないのです。

いわば解釈がパラダイムを前提としているのであって、解釈という活動は通常科学的なパラダイムの整備、拡張でしかありません。
その際のデータ収集がすでにそのパラダイムの道具立てに規定されているのであって、その逆ではありません。
解釈はパラダイムを整備することはできても、その根本的な立ち位置を訂正したり変更したりすることはできないのです。

通常科学の進歩(パラダイムの整備)は、変則性と危機を生じさせる基盤を作り、そこから生まれた変則性や危機は、決して解釈や思索のような経験の論理的な結びつけや積み重ねでは解決できません(単なる通常科学の延命作業に終わる)。
それは経験の集積の束を、丸ごと別の経験として転換し意味づけるような急激な出来事によって終息します。
それは「解釈」というより、「閃き」に近い手続きです。

科学者の得るデータは、受動的な経験として与えられたものではなく、苦労して意識的に集めたものです。
それは科学が進歩しその対象に対しての注意が集中するまで見えないものです。
学者が見るのではなく、科学が見ると言った方が適切です。
データは、採用しているパラダイムの整備に有効なものが選ばれるのであり、そのデータの扱いも、異なったパラダイムを持つ科学者によって異なった操作として行われるのです。

振り子を振り子運動として観察するガリレオは、すでに何らかの形で分節され準備された概念世界を前提としているからこそ、そこに振り子を見るのであって、もしそうでなければ、それは単に抑制された落下運動(アリストテレス)として見られるか、そもそも問題として注視されることもありません。
問題意識の中にあらかじめ解答が準備されているのであり、それはまさに通常科学(パラダイムの整備、再発見)であることを物語っています。

(4)へつづく