クーンの『科学革命の構造』(4)革命の完成

(3)のつづき

第十一章、革命の不可視化

科学において非常に重要になるのが、教科書という権威ですが、この教科書というものは、革命や危機の混迷を可能な限り目立たないように編集します。
まるで科学が合理的で直線的な歴史の中で、現在まで進歩し続け、いまその最前線にあることを強調しようとします。
教科書においては、学生に対し現在までの知識を可能な限り迅速に伝えることが目的となるため、それは必然的な選択でもあります。

教科書に集められた過去の独創的な発明群は、現在のパラダイムを構成する要素、いわば壮大な建造物のひとつひとつのレンガ積みとしてとらえられ、一般的で非歴史的な著述の羅列として、その本来持っていた意味や可能性は捨象されます。
直線的な成長の歴史を描くために、個々の学者や発明の記述は史実に逆らうような解釈によって捻じ曲げられ、取り捨て選択され、強引に現在のパラダイムの型枠にはめ込まれることになります。
学生は決して過去において存在しなかった歴史のファンタジーを学び、そういう歴史(捏造された伝統)を背負い、そこに参加する現在の自分を誇りとします。

そうして、ひとつひとつの科学革命の結果、新たな通常科学が生じる度にそれは書き直されることになり、当の革命の事実さえ目立たぬように誤魔化されます。
科学においては通常科学がノーマルなものと認識され、その安定を壊す危機や革命は、むしろイレギュラーな排除すべきものとして排斥される傾向にあります。
無知、失敗、誤り、混乱などのネガティブな要素を、学者(通常科学)は潜在的に忌避します。
こうして教科書は通常科学を永続化させるための強力な基盤となります。

教科書は革命の決着が付いた後に作られるものですが、次章ではそれについて述べます。

第十二章、革命の決着

専門家集団が伝統的な通常科学を捨て、新しい世界の観方を採用する際、一体どういう道を通るのでしょうか。
通常科学に従事する学者はパズル解きであり、パラダイムの検証者ではありません。
それは、将棋というルール内の難題を解くことを仕事とし、ルールそのものに言及することはない棋士のようなものです。
しかし、どう考えても解けない問題が積み重なると、必然的にルールへの疑いが生じ、パラダイムの検証が始まります。

これは通常科学のような自然と理念との比較検証だけではなく、対立するパラダイム(科学者集団・学派)間の比較検証(競争)となります。
しかし、第十章でも述べたように、パラダイム間の争いを検証するような超制度的なパラダイムが存在しない以上、その選択には自然淘汰のような外的な作用が働きます。
ある特定の歴史的状況において、最も有効な可能性(将来性)を持ったパラダイムが生き残ります。

そもそも対立するパラダイムの主張者は、別々の世界に生きていると言ってもよく、同じものを見ながら違うものを見ており、むしろどちらの主張も間違ってはおらず、その関係は必然的に「誤解」の様相を呈します。
天動説を主張する人々にとっての「地球」という概念はあくまで固定した位置を指すものであり、地動説を主張する人々の「地球」とは根本的に別物なのです。
コペルニクスはただ地球を動かしたのではなく、物理学や天文学において、まったく別の世界の見方へ変革したのです。
アインシュタイン以前の「空間」は、曲げられないからこそ「空間」なのであり、互いの「空間」という概念は通訳が不可能なものと言えます(根本的な定義や関係付けが変わってしまっている)。
よってパラダイム間の移行というものは、ゲシュタルト転換のような全面的な改宗であり、それは起こるか起こらぬかのどちらかになります。

科学者たちはこの移行をどう為すかといえば、実のところ移動しない者が多いのです。
量子論のマックス・プランクは自伝においてこう述べます。
“新しい科学的真理は、その反対者を説得し、彼らに新しい光を見させることによって凱歌をあげるものではなくて、むしろ反対者が死に絶えて新しい世代が成長し、彼らにはあたりまえになってしまう時にはじめて勝利するのである”(『科学革命の構造』クーン、中山茂訳、170項より)
これは科学者が頑固であり、明確な証明を前にしても自己の誤りを認めないということではなく、それは根本的には改宗の問題であって、客観的に強制されるべき論理的な問題ではないということです。
この頑固さというものは、むしろ科学(通常科学)にとって本質的なものであり、自己の信じるパラダイムによって最終的に世界を説明することができるという信念です。
この確信が通常科学を可能にし、また変則性を生じさせる基盤を生み出すのです。

ただ危機を生む変則的な諸問題を解決したと主張するだけでは、改宗を促すことはできません。
古いパラダイムが積み重ねてきた正確さや、新しいパラダイムに反対するために生じる再整備による応戦は、そう易々と移行を許しません。
むしろ改革者が声高に叫ぶ主張、主戦場の周縁において、改宗は進むといえます。

新しい理論に含まれていなかった事象がその理論に結び付けられる時、いわば改革者が予期していなかった問題に対する解答がその理論の内にあることが徐々に明らかになるその衝撃が、改宗に対して効果的にはたらきます。
また、新理論が古い理論より美しく、簡潔で、要領の良いものであるという、感覚的な魅力が、科学者を惹きつけ、これらの少数者が新パラダイムの強い援護者となることがよくあります。
科学において美的直観は、時に決定的な意味をもつことがあります。

何度も述べたように、新パラダイムは直面する危機においていくつかの問題を解決するだけで、多くの課題を残します。
パラダイムの完成は通常科学の仕事であり、それは改宗してゆく科学者集団全体が行っていくものです。
重要なのは、そのパラダイムが、将来の問題に対して研究の道標を与えてくれるということであり、過去や現在においてどれだけの問題を解決したかということではなく、未来の可能性(将来の約束)によって選び取られているということです。
旧パラダイムの圧倒的な問題解決能力を前に、新パラダイムの改革者は、そういう未来に対する信念によって進まなければならないのです。

なぜ科学革命において危機が重要になるかというと、危機を経なければ、決して科学者は定かではない未来のかすかな光のために、旧パラダイムの圧倒的な証拠を放棄することなどないからです。
先に述べた美的直観や感覚的なもの(いわば勘)が、この未来の可能性に賭けるという、ある種不合理な合理性の選択の後押しにもなっています。
勿論、ここでいうのはひとつの革命的な論証が専門家集団を改宗させるのではなく、様々な力がそこに加わって新パラダイムが生じるということであり、勘や賭けに頼れというような非科学的なことを言っているのではありません。

新パラダイムの支持者も、はじめはごく少数です。
しかし、彼らが優秀であれば、パラダイムは開発され支持者も増えていきます。
状況と共に、やがてそれは新しい通常科学となり、最後には頑固な旧パラダイムの支持者が残るのみです。
勿論、それら頑固者が間違っているわけでも、非合理・非科学的なわけでもありません。
ただ言えることは、事実上、彼らは科学者であることから降りたということです(第三章を参照)。

※序章および最終章に関しては、本書の本質的な理解に影響はないと判断し、省略いたしました。また、あくまでも一般向けのサイトですので、本書の半分を占める豊富な科学史的事例分析も扱っていません。