クーンの『科学革命の構造』(2)危機の科学

科学/自然

 

 

(1)のつづき

 

第五章、パラダイムの優位

ある時期における概念や装置や方法などを理論的にとらえる際、そこに何らかの標準的な説明の仕方が共通して見られます。
それがその専門家集団のパラダイムであり、それは教科書や講義や指導などを通して現れ、学生はそれを学ぶことによって集団のメンバーと成り、仕事に習熟していきます。
そしてこのパラダイムから、研究におけるルールというものを抽出し、展開していきます。

しかし、この個別のルールというものを探究し捉えることは、パラダイムに比べ難しい問題となります。
共通したものをとらえるパラダイムと違い、ルールはそれら個別的なものの「家族的類似(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66節67節を参照)」によってつながっているからです。
様々な問題や解法の技術などに共通するルールなどなく、それらは部分的に似ることのつながりにおいて、まとまっているということです(私の目は母親ゆずりで、輪郭は父親ゆずりで、父-子-母が家族的な類似としてつながるように)。
科学者は集団内で評価の定まったものの一部をモデルに仕事を進めるのであり、ルールの全体の把握など必要としません。

学者は、概念や法則や理論を抽象的にそれ自体として学ぶのではなく、それらが適用された歴史的な文脈の中で出会い、また、常に具体的な自然現象への適用として発表されます。
こうした適用の歴史が教科書になる時、同時に理論が潜在的に繰り込まれ、そこから未来の学者は自分の仕事のあり方を学びます(いわばゲームのルールが無意識的に習得されるということです)。
特に通常科学は定説を受容し、モデルに倣い仕事をするため、ルールなし(意識する必要なし)に進行します。
しかし、パラダイムが不安定になる時(科学革命時)、ルールに対する無関心は強い関心に変わります。
正しい方法や問題の規準についての基礎的な議論が闘わされ、学派的な分裂が生じます。

 

第六章、変則性と科学的発見

パズル解きである通常科学は、着実な積み重ね作業であり、知識の量と質と精密さにおいて確実に目的を達成していきます。
これは一般的な科学研究のイメージによく合いますが、科学にはもうひとつのユニークな側面もあります。
それは未知の新しい現象の発見であり、人々を驚かせる革新的な理論の提示(いわゆるコペルニクス的転回)です。
安定したルールの中で行われていたゲームが、思い掛けない出来事をきっかけにして、まったく別のゲームに生まれ変わる瞬間です。
図式化すると~通常科学の予測を破る変則事例の「発見」→その周辺の探索と研究→変則事例を予測可能にするパラダイムへの変更。
このパラダイムチェンジにより、発見された単なる新奇な事実が、以前とは違うものとして見られるようになり、科学的事実となります。

「発見」というものは時間的な幅を持つもので、単純な認識ではありません。
まず、何らかの新しい事実を知覚し、時間をかけてそれが何であるかを探究し、それに意味づけが与えられた時に、その「事実」が「発見」になります。
発見的な事実は理論構築の後に事後的・遡及的に生ずるものであり、概念的に意味づけを与えることができない事実は、永久に単なる知覚された事実のままです。
ある事物が現実的に存在すること(~がある)と、理念的に存在すること(~である)、という事実と理論の両方の認識において、はじめて「発見」が生じます。
発見というものはそういう時間の幅を持った過程であり、単純に最初に事実を知覚した者と、それを概念付けた者のどちらか一方が発見者であるなどと断定することはできません。
同じ事実を見ていても、それを発見にできるかどうかは、その科学者のパラダイム変更の有無にかかっています。

勿論、前もって概念付けの道具が揃っており、準備が整っていたような場合は、「~がある」と「~である」は同時に「発見」されることになります。
これは通常科学的な意味での発見(理論による予測に合致する結果)ではなく、理論誘導型の科学的発見とクーンが言うものです。
要はパラダイム以前、あるいは危機の時期に乱立する仮説が争い、無数の実験によって淘汰されながら、理論と結果が上手くかみ合う時に生ずる発見(パラダイムの生成)です。
理論に誘導されながら生ずる発見という意味です。

この新しい発見やパラダイムの変更には強い抵抗がともないます。
革新的なものは、強引に変則を常則に塗りかえる恒常性の圧力(心理および社会的な)をかいくぐり、やっと現れます。
そしてその存在によって何らかの違和感を生じさせ、今までの事物のとらえ方に対する疑義を抱くようにさせます。
そうした変則性の気付きによって、過去の現象が新しい視点の下に捉え返され、同時に変則的なものを予想できるように概念を適応させる努力がはじまり、その完成と共にようやく革新的なものは「発見」されます。

しかし、強い抵抗の元となる通常科学(成熟したパラダイム)なしには、革新も発見も生じません。
それは「正常があるから異常がある」というような言葉あそびの問題ではなく、通常科学の発達した設備や理論や精度、それに伴う予測と観測の一致を生じさせる状況や基盤があるからこそ、変則事例が現れる可能性が増すということです。
革新や変則的なものの発見は、通常科学の成長の先に存在するのであり、パラダイムチェンジの条件として、パラダイムの成熟が必要となるのです。

 

第七章、危機の出現

変則性に気付き、それを深く認識することが理論の変革を生じさせるわけですが、多くの場合、その変則性の出現は長く続き深化していくものであり、その学問領域を危機的状態に陥らせます。
既存のパラダイムが崩れ、ルールに従えば失敗し、通常科学のあり方に反省を迫る不安定な状況が生じてきます。
この事例として、コペルニクスの革命を見てみます。

コペルニクスに先行するプトレマイオスの体系は、今でも実用可能なほどの精度で星の動きの予測を可能としていました。
しかし、それだけではどうしても上手く説明のつかない事例(春分点の歳差運動など)があり、その合致しない予測の食い違いをいかに小さくするかが、プトレマイオスの後継者達の仕事(通常科学)になります。
しかし、その体系に様々な補正を加え、その差を小さくしようとするうち、天文学はとてつもなく複雑な体系となり、一方に修正を加えれば、他方が矛盾をきたすような、収拾のつかないあり様となっていきました。

16世紀、コペルニクスとその共同研究者は、これほど込み入ってなお不正確なものが、自然の真理を告げるものとは思われず、プトレマイオスのパラダイムを捨て新しいものを探究することになります。
コペルニクス『天体の回転について』の序文で、当時のその危機的状況が語られています。
“彼等の仕事は手や足や頭やその他の部分-それらはそれぞれ立派であるが決して一つの身体を形造ってはいない-を寄せ集めて、人間を作るというよりはむしろ怪物を作っている人の仕事に比較することができます。”(岩波文庫、矢島祐利訳)
もちろん、彼等らとは先行する科学者たちのことであり、通常科学のパズル解きが混迷を極めた状況にあることを示しています。

新理論が生ずる前段階(十年、二十年以内)として、パラダイムの崩壊と諸理論の並立した混乱状態が起こり、そういう危機の直接的な対応として、革新的な理論が現れるのです。
しかし、実はパラダイムを崩壊させる難点というものは、すでに認識されている古くからの問題であることが多く、それは半ば通常科学が自己欺瞞的に解決された問題として等閑視してきたものなのです。
既存のパラダイムでは上手くいかない状況の中で危機感を持った時、ようやくその問題が無視できない深刻なものであると気付きます。

新しい理論構造を生み出すこと自体は、それほど難しいことではありません。
それでも危機的な状態まで放って置くのは、古いパラダイムを取り巻く道具立てがまだ役に立つものである限り、それに安住することによって科学は最も早く進むからです。
道具立てを変えることは大きな浪費であり、危機が訪れどうしても必要になるぎりぎりまで利用されます。
通常科学を信奉する者に、その歩みのスピードを落とすようなリスクを背負う勇気も意義もありません。

 

(3)へつづく