アリストテレスの『詩学』(2)~第十五章迄

(1)のつづき

第九章、詩(創作)と歴史の違い、その普遍性、驚きの要素

詩人(創作家)は、歴史家のように既に起こった出来事を語るのではなく、起こるであろうような出来事、もっともらしく必然的な仕方で起こる可能性のある出来事を語る。
詩(創作)は普遍的な事柄であり、歴史は個別的な事柄である。

[歴史は個別的な出来事の時系列的な陳列であって、それら出来事の継起に本質的な因果関係や必然性はなく、各出来事は自立しています(年齢順に並べられた赤の他人のようなもの)。しかし、創作は出来事の必然的つながりを語るものであり、前の出来事があったから今の出来事が生じ、今の出来事があったから次の出来事が生じる、という理想的な因果の必然性において描かれます(系図のように無駄のない完全なつながり)。だから詩(創作)は普遍(理想)的な事柄だとここで言われるのです。私たちが学生の時に読む歴史は、読み易くするためにある程度物語風に因果関係を整理された創作物です。]

悲劇は、恐れと憐れみを引き起こすような出来事の必然的な継起であるが、そういう効果が最もよくあらわれるのは、出来事が思いもよらぬ仕方で、しかも緊密な因果関係の必然によって起こる時である。
一見、必然性のない偶然に見える出来事が、実は完全な必然性のもとに起こったものであると開示された時、強い驚きが生じる。
また逆に、偶然の出来事でも、そこに必然性を感じさせるような時も、驚きの効果が強くあらわれる。
例えば、ミテュスの彫像が、ミテュスを殺した男の頭上に偶然落ち、男が事故死する時、あたかも何らかの必然がはたいているような驚きが生ずる。

創作の本質が必然的出来事の継起であるなら、それを巧みに利用するこういう種類のものが、最も優れた筋(物語)であることは必定である。

第十章、単純な筋と複合的な筋

先に規定したような、一つのまとまりある行為の連続性と統一性の中で変化が起こっていくものが「単純」であり、そこに逆転や認知による変化が伴うとき「複合的」と呼ぶ。

何度も言うように、これら「逆転」や「認知」は因果的な必然性の筋の中で生ずるものであり、「ある出来事のゆえに起こる(因果的つながり)」か「ある出来事の後に起こる(時系列的つながり)」かには、決定的な違いがあるからである。

第十一章、逆転と認知、苦難

「逆転(いわゆる、どんでん返し)」とは、行為の流れ(筋)が、一気に正反対の方向へ転ずる転換である(必然性ともっともらしさを伴いつつ)。

「認知」とは、端的に無知から知への転換である。
最も優れた認知のあり方は、『オイディプス王』における認知のように、逆転と同時に生じる場合である。

「苦難」とは、登場人物が破滅したり、苦しんだりするような行為である。

第十二章、悲劇作品の部分

悲劇作品は基本的に上演順に以下に区分けされる。

プロロゴス(序章、状況説明)
パドロス(登場歌)

エペイソディオン(登場人物の対話と動き)
スタンシモン(間の歌)
エペイソディオン
スタンシモン
エペイソディオン

・(繰り返し)

スタンシモン

エクソドス(終章、最後の場面)

全体の構成として、登場人物の対話とコリコン(コロス-合唱隊-の歌の部分)を交互に繰り返す。

第十三章、筋(物語)の構成における諸原則

以前述べたように、すぐれた悲劇の構成は、単純ではなく複合的なものであり、恐れとあわれみを引き起こす出来事の再現である。
ここから、以下の点が帰結される。

1.善い人が幸から不幸へ転ずるのではいけない。それは恐れやあわれみではなく、ただ忌まわしさと憤慨を与える。

2.逆に、悪人が不幸から幸へ転じてもいけない。これは最も悲劇に向かない筋であり、恐れやあわれみだけでなく、情に対してもなにも引き起こさない。

3.だからといって、極端な悪人が幸から不幸に転じてもいけない。それは情には訴えかけるかもしれないが、恐れもあわれみも引き起こさない。あわれみは不幸に値しない人が不幸になる時に生じ、恐れは自分(鑑賞者)に似た者が不幸になる時に生ずるものだからである。

4.残る選択は、これらの中間に属する人である。徳と正義において優れているわけでもなく、悪さのゆえに不幸になるのでもなく、ある過ちのために不幸になる者である。もちろん不幸に転ずるためには、それなりの幸福を享受している者でなければならない。

以上、すぐれた悲劇とは、「上記のような中間者が、(邪悪さではなく)過ちによって、幸から不幸へ転ずる」物語(筋)である。

第十四章、恐れとあわれみの効果

恐れとあわれみの効果は視覚的方法によって生み出すこともできるが、それは悲劇および詩作の技術にとって本質的ではない。
悲劇固有の恐れとあわれみ(筋により作られるもの)を、詩作の本質である出来事の再現の中に組み込み、生じさせなければならない。

では、どのような出来事が恐ろしく、あわれみを誘うか。
出来事を生む行為は、1.親しい者同士の間、2.敵対者同士の間、3.どちらでもない関係、においてなされる。
2.の敵同士の行為から生ずる苦難では、恐れもあわれみは生じない(3.も同様である)。
しかし、1.の親しい者同士の行為の間に起こる苦難には、恐れとあわれみが生ずる(例えば、敵同士が相手を殺すのではなく、子であるオイディプスが近親の父を殺す時など)。

また、それら行為は以下の仕方においてなされる。
1.自分が何をするか知りつつ為す。
2.知らずに行為をなし、後になって知る。
3.知らないままに為そうとし、行為直前に認知し実行しない。
4.何をするか知りつつ、実行しない。

4.では何も生じず問題外であり、まだ実行する1.の方がましである。
優れているのは2.であり、これは悲劇的でありかつ認知の驚きがある(例、オイディプス王)。
しかし、さらに優れているのは3.である(例、知らずに息子を殺そうとしながら直前で認知し思いとどまる)。

[ここは前章の論述とやや矛盾しています。前章の悲劇の規則に照らせば、2.が最も優れているはずなのに対し、ここでは3.と述べられます。筋(物語)としては共に優れていますが、より悲劇としてなら2.より筋としてなら3.が勝っているでしょう。]

第十五章、性格描写

登場人物の性格を描く際に考慮すべき四つの点を以下に挙げる。

1.各登場人物はすぐれた性格でなければならない。劇において性格は行為によって開示されるため(第六章参照)、その行為選択がすぐれたものであるなら、当然性格もすぐれたものとなる。それは人間の種族(女・奴隷など)を問わず、その種族なりに、あるいはその種族として、すぐれているということである。
[文脈からしてここで言う「すぐれた性格」とは、第二章のような人間の優劣の意味ではなく、キャラクター(性格・もち味)としてすぐれているという意味に取る方が自然です。]

2.性格はふさわしいものでなければならない。勇敢な性格の女役がいても構わないが、その勇敢さが度を過ぎて不自然になってはいけない。

3.性格は現実の人間に似せたものにしなければならない。

4.性格は首尾一貫したものとして再現しなければならない。仮に首尾一貫しない性格の人物がいたとしても、その人物は首尾一貫しないという点でもって首尾一貫しなければならない。

性格も筋の場合と同様、必然的でもっともらしいもとして、あらねばならないということである。
ここでついでに言っておくが、よく使われる「デウス・エクス・マーキナー(機械仕掛けの神が出てきて、強引に筋をまとめる)」は、必然的でももっともらしくもない。
この神の登場に必然性を与えるとするなら、予言や託宣のような場面においてだろう。

再現(描写)においては優れた肖像画家を見習うべきである。
彼らは個人の顔の特異さを忠実に再現しながらも、同時により美しい顔として仕上げる。
それと同様、様々な性格上の欠陥(特異さ)を持った人物を忠実に再現しながらも、それを立派な人物として生み出さねばならない(例えば、短気と強情の化身でありながら、それが魅力的で美しいアキレウス)。

(3)へつづく