アリストテレスの『詩学』(1)~第八章迄

芸術/メディア

※本書は『詩学』というタイトルですが、内容は悲劇論、特にソポクレスの『オイディプス王』論であるため、事前にあらすじ(wikipedia)だけでも読んでおいて下さい。

 

 

第一章、詩作と再現、再現の媒体

詩作(創作)は基本的にすべて再現(描写)と言える。

[ここで言われる詩作(ポイエーティケー)とは、ポエムを作るという狭い意味ではなく、創造・制作(ポイエーシス)に近い意味を持っています。再現(ミーメーシス)は、模倣、描写とも訳出されます。]

1.異なった媒体によって、2.異なった対象を、3.異なった方法で、再現することから、悲劇や叙事詩や舞踊歌や音楽などの個別的な種類が生じる。

それらは各々、色、形、言葉、音、リズム等、様々な媒体を通して再現を行う。
例えば、身体で表されるリズムによって人間の性質や行為を再現するのが舞踊である。

 

第二章、再現する対象の差異

再現する対象(モチーフ)は基本的に人間の行為なので、その対象は、優れた人間、普通の人間、劣った人間、の三つに分けられる。
劣った人間を再現するのが喜劇であり、優れた人間を再現するのが悲劇である。

 

第三章、再現の方法の差異

再現における第三の差異は、その対象をどのように再現するかという方法の差異である。
同じ媒体で、同じ対象を再現するとしても、a.主に作者が叙述(出来事の記述)者となって再現する方法(例えば叙事詩)と、b.すべての登場人物を現実に行動する形(演技)で再現する方法(例えば悲劇)とがある。

[要するに、a.は作者が報告者として客観的視点から描く方法で、b.は登場人物に成りきった一人称的な視点で描く方法です。「現実に行動する形で再現」とは、役者の生の演技と、書物(脚本)の劇中のキャラの行動との両方を指しています。ちなみにホメロスはaに属しつつbも混ぜる折衷的な叙事詩です。]

以上、再現は、媒体、対象、方法の三つの差異によって区別される。
ソポクレスの悲劇はホメロスの叙事詩と対象において同じ(優れた人の)再現であり、他方、ソポクレスの悲劇はアリストパネスの喜劇と方法において同じ(登場人物の現実の行動による)再現である。

悲劇と喜劇が「ドラーマ」と呼ばれるのは、行為する者による再現だからである(dramaは動詞dran「行為する」の名詞形)。

 

第四章、詩作の起源

詩作(再現による制作)は人間の本性に基づく二つの原因から生ずる。
1.再現(模倣)は幼い頃から人間にそなわる自然な傾向であり、再現(模倣)は物事を学ぶ基本である。
2.人間は再現されたものを喜ぶという自然な傾向があり、たとえば、現実では見ることが苦痛である恐ろしいものであっても、正確に模倣された絵なら見ることを望むからである。
[目を覆う指の隙間からホラー映画を観たがる好奇心は、恐怖の苦痛と、それが何であるかを模倣を通して確認したい学びの欲求の葛藤です。現実の惨殺現場なら、完全に目を閉じてしまいます。]

その理由は、再現・模倣とは学び(真似び)であり、模倣されたもの(例えば絵)を通して、その対象である模倣されるものの本質「何であるか」を学んだり考えたりする快楽を生じさせるからである。

 

第五章、喜劇について、および悲劇と叙事詩の違い

先ほど述べたように、喜劇は(比較的)劣っている人間を再現するものであるが、それは完全な劣悪さにおいてではない。
滑稽で笑える程度の害のないレベルの人間の欠陥であり、苦痛を与えるような劣悪さではない。

悲劇と叙事詩は優れたものを言葉と韻律によって再現する点では一致するが、叙事詩は一種類の韻律および叙述の形式を使用する点で異なる。
また、再現される行為の長さ(上演時間ではなく物語内の時間経過)は、悲劇では太陽が一回りする時間内に収まるのに対し、叙事詩では時間的制約はない(初期の悲劇ではこの制約はない)。

 

第六章、悲劇の定義と悲劇の構成要素

悲劇の本質および定義とは以下になる。
a.対象、一定の大きさで完結した高貴な行為の再現。
b.媒体、快い効果的な言葉と、作品の各部分ごとに応じた各種の媒体の使用。
c.方法、叙述の方式ではなく、現に行為する人間による再現。
d.カタルシス、憐れみと恐れを通して、諸感情の浄化(カタルシス)を達成する。

[カタルシス(浄化)は、身体・医学的な毒の排出と、精神・宗教的な穢れの浄めの意味を持ちます。]

悲劇の構成要素は以下の六つになる。
媒体に関する二つ
「語法」と「作曲」、言葉と曲を媒体として再現される。
方法に関する一つ
「視覚的装飾」、役者の動き、衣装、舞台美術、演出などの視覚的方法によって再現される。
対象に関する三つ
「性格」と「思想」、再現される行為の性質は、常にその登場人物の性格と思想にもとづき、決定されている。
「筋(物語)」、各行為は、常に筋(出来事の組み立て)にもとづき再現される。

これらの要素のうち、最も重要なのは筋である。
悲劇とは単なる人間の再現ではなく、行為と人生の再現であるから。
人物の性格を再現(描写)するために行為するのではなく、行為を再現するために性格も付属的に再現するのである。
出来事(行為の因果的継起)と筋(物語)こそが、悲劇の目的である。
さらに言えば、悲劇の最大の感動は、筋を構成する部分である、運命的な「逆転」と、真実の「認知」がもたらす(後述)。

 

第七章、筋(物語)の構成、その秩序と長さ

前章において、悲劇とは、一定の大きさで完結した全体的な行為の再現と定義づけた。
生物であれ機械であれ、美しいものは全体の中に部分が秩序正しく配置されている。
それぞれのパート(例えば初め、中間、終わり等)が、本質的なあり処で本質的なあり様(機能)を発揮しなければならない。

また、その全体は美しさを感じられる適切な大きさでなければならない。
小さすぎて不分明であったり、大きすぎて人間の視野や記憶の把握範囲を超えてもいけない。

筋の長さにおいてもそれと同様、もっともらしく、必然的な仕方で出来事が存在、継起可能で、運命の変転を描くに丁度適した長さが、筋の制限として本質的なものである。

 

第八章、筋の統一性

出来事の各部分を組み立てる際、その内のどれかひとつの部分を取り去っただけでも、即、全体が瓦解してしまうような、必然的で統一的な機能的つながりを持った構成でなければならない。
あってもなくても目立った差異が生じないようなものは、全体の部分として統一的に存在するものではないのである。

 

(2)へつづく