<第一章、風土の基礎理論~第一節、風土の現象>
風土の概念
ここでいう「風土」というのは、その土地の気候、気象、地質、地形、景観などの総称であり、人間を取り巻く環境や自然全般を指します。
普通に「自然」とか「環境」とか言うのではなく「風土」と言うのは、和辻独自の環境空間への考え方や哲学的理念をそこに含めたいからです。
普通に「自然」と言ってしまうと、自然科学の対象としての「自然」と観察者としての人間が、分断されて考えられがちです。
それに対し、和辻の言う「風土」という概念は、人間と自然(環境)を相即不離のひとつのものとして見るものです。
客観的自然という概念の批判
私が寒さを感じるとします。
自然と人間を分断する既存の考えでは、まず物理的な客観性の自然として「寒気(一定の気温)」があり、それが人間の身体の感覚器官を刺激し、私の心に寒気が生じる、と考えられます。
しかし、実際には、まず私が寒さを感じることの中で、外部に「寒気」を見出します。
私の心が何かを感じる時、それは外部からやってくるのではなく、私自身の志向において感じているのです。
主観と客観の統一的理解
例えば、私の愛犬が冬の川に落ちた時、私は助けることに必死で、寒さなど感じている余裕はありません。
なぜなら、私の志向は完全に犬に向いているからです。
寒気が存在するためには、私の志向が外気との関係性においてあらねばならず、それは強制的に外部からやってくる体験ではなく、私から発する志向的な体験なのです。
花を綺麗だと感じるのは、花が綺麗だからではなく、私自身の志向において綺麗なものとの関係を持ちたがっているからです。
相田みつお的に、「美しいものを美しいと思えるあなたの心が美しい」わけです。
別にこれは古い素朴な唯心論ではありません。
事物(客体)は実体的に存在するのではなく、主体や他の客体との関係付けの中でのみ生じるという、非常に現代的な視座です。
寒さを感じるという志向的な関わりそのものの中に、すでに外気の寒暖という客体的な事物が包蔵されているということなのです。
ヘップバーンが美しいのは、男が女をそういう目(志向性)で見ているからであり、そういう目(志向性)そのものの中にすでに美醜が含まれており、それが展開しているだけなのです。
最初に挙げた主観(私)と客観(寒気)の分裂は、あくまでも自然科学的なカテゴリー(区分)であり、根本的には寒気と私は決して切り離せない関係性の中にあります。
人間存在の基本構造である志向性
私の意識というものは、つねに何らかのものに向いており、それとある特定の関係を持っています。
私の意識が私自身に向く時、自己を反省的に把握することができますが、それ以前に、自分の意識が別の対象に向いている時にも、すでに自己が開示されています。
「美しいと思うあなたが美しい」ように、数学の合理性に感動すること自体のうちに、その人自身が論理的人間であることが開示されており、モンローに興奮すること自体のうちに、その人自身がスケベな人間であることが開示されています。
私の志向が何と関係を持ち、それとどういう種類の関係にあるかによって、私の本質「何であるか」が鏡のように反射的に自己の姿を開示しているのです。
私という人間(主観)は寒さ(客観)自体の中にあるのであり、外部に寒気(客観)がありそれを私(主体)が受け取っているのではありません。
まず最初に、「寒さを感じる」というひとつの純粋な志向的な体験があって、そこから自己や主観や客観が分化発展してくるのです。
私はつねに志向的に外部に出ている(何らかの対象と関係を持っている)存在であり、私そのものの中に私がある安定した存在ではありません。
関係性としてのみ存在しうる私
勿論これは私ひとりの問題として解決するものではありません。
「今日は寒いですね」などと挨拶し、他者との共通認識においてつながる(間柄)ように、「私は寒さを感じる」と同時に「我々は寒さを感じる」とも言えます。
例えば、寒くなくても周りの人達が「寒い寒い」と言うと、私も寒く感じたりしますし、クラスのアイドルというものは、その人個人の魅力というよりはむしろ周囲の意見の同調によって作られます。
私の志向は私自身によってだけではなく、我々によっても既定されているものであり、厳密にいうと志向する者は「我々であるところの我、かつ我であるところの我々」なのです。
さらに言えば、寒さというものは暑さとの対比関係によって成立するものであり、風の寒さ、雪の寒さ、日陰の寒さ等、様々な事物との関係性においてあるものであり、その土地や地形特有のものとしての寒さでもあります(ソシュールの項を参照)。
そうした様々な関係性と間柄の網目の中に「寒気」が存在するのであり、私はこの寒さを体験することにおいて、我々自身を了解するのです。
すなわち、これが和辻の言う「風土」です。
風土の発見
自己了解と言っても、それは寒さを感じる主観としての自己を理解することではありません。
寒さを感じ、どてらを羽織り、薪を焚き、赤子に毛布をかけ、酒を温める。
足りないものは買いに出かけ、足りない金のために余分に労働する。
山では炭焼きはせっせと炭を焼き、街では仕立て屋はコートを作る。
そうして私は、寒さとの関わりにおいて、事物(手段)との関係性と人々との関係性の網の中に入っていくことで、個人と社会を成り立たせているものを知るのです。
風土における自己了解とは、この関係性の網を発見することであり、決して主観を理解することではありません。
風土の成り立ち
私を取り巻くすべてのものは、その風土との関わりにおいて生まれたものです。
それぞれの土地の産物に合わせた素材でものは作られ、それぞれの気候に合わせた機能としてデザインされます。
いま私の目の前にある畳や障子や筆という物は、そういう風土の自己了解の堆積の歴史が生み出したものなのです。
日本の石は硬く加工が難しく、代わりに森林の豊かな風土が木造建築を生み、日本の気候の難儀な湿度管理のために畳や土壁が生まれます。
気温や湿度や降水量などの気候、地形や海陸山川の分布などの地理等の様々な風土が、家屋、着物、料理、所作、性格などのあらゆる存在者のあり方を規定しています。
私が寿司(魚と米)を好む志向性は、純粋に私という主体の志向(菜食主義者のような意識的な理念による志向)によるものではなく、日本という風土における自己了解の歴史の表現なのです。
風土の自覚
これは勿論、人間の文化的な営みに関してもいえるもので、文芸、美術、宗教、風習等、あらゆるものの中に風土が見出されます。
文化的営みの様式を風土を通して理解することは、風土(空間)と歴史(時間)が相即不離なものであるということを自覚させてくれます。
最初に挙げた常識的な態度、いわば自然環境(客観)とそれを観察する人間(主観)との分断は、以上述べてきた事実を覆い隠し隠蔽するものです。
個人的(我)でありながら社会的(我々)であり、風土(空間)的でありながら歴史(時間)的であるというその事実を明らかにするためには、人間存在の根本的な構造を見なければならないのです。