フーコーの『監獄の誕生』(2)パノプティコン

社会/政治

 

(1)のつづき

 

規律(ディシプリン)

この監獄システムの本質である規格化を支える管理の方法が「ディシプリン(規律)」です。
ディシプリンとは、身体を詳細に管理することにより、従順な人間(=機械)を作り出す技術です。
人間の身体を調教することによって自動的に精神を支配しようとする、新しい統治の方法です。
この時代において、身体が権力の標的としてとらえられるようになります。

例えば17世紀において兵士というものは、屈強で力強い身体を持ち、それが勇敢さや厳威さ、そして兵士であることをシンボルとして示すことが理想とされていました。
しかし、18世紀後半になると兵士は、一般的な身体(例えば農民など)を、規律によって改造することによって作り上げられるようになります。
農民に染み付いたその立ち居振る舞いの一挙手一投足を、兵士らしい動きへと改造します。
力強く勇敢なものが兵士なのではなく、詳細な規律に服従し訓練された、命令に従順な身体(人間=機械)が兵士なのです。

学校や工場のような閉鎖空間を設定し、その空間を機能や特性によって区切り、個々人を配置し、置き換え可能な機械のパーツのように、人々はその中を移動(配置換え)します。
身体は詳細な時間割によって完全に拘束され、身振りを規定されることにより、速やかな行動が可能になります(典型はテーラーシステム)。
段階的なヒエラルキーによって、成長過程を組織化し、目的論的な連続性(レール)の中に個人を閉じ込めます。
組織の変化に対応するように、その空間時間の中で、私の身体は機械のひとつの部品として、機能(あり方)を変えていかねばなりません。

私たち一般人の日常生活は、これら身体調教の規律をモデルにしています。
私たちは監獄の外にいるため、自由という幻想を抱いていますが、その実、逃げ場のない社会という巨大な監獄の中に収監されているわけです。

この身体調教は知的な面からも補完されます。
その典型が「試験」です。
私たちは子どもの頃からずっと試験というものに縛られて生き続けます。
学校というものは延々と繰り返される試験装置で、むしろ学ぶことより規格(真理という名の)に合致した人間になるための空間です。
それは社会に出ても同じ事で、私たちは社会にとって有益な人間となるために、実際の試験や上司のまなざしという常なる試験によって、絶えず自分の知や行動のあり方を規格に合わせていかなければなりません。

真理とは権力であり、規格に合致した人間は規格外の人間を見下す監視者側にまわり、規格に合致しない人間は社会の中で見下される、監視される囚人の様相をていします。
試験とは、規格の到達段階に準じた階層秩序を与える権力の儀式であり、社会の意図(規格)に自発的に従う人間を形成するための強力なシステムとなっています。

 

パノプティコン

これら管理システムの本質を象徴的に表したのが、功利主義思想家ベンサムによって考案された「一望監視施設(パノプティコン)」です。

周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側に向かって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕らえられている人間の小さな影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。(『監獄の誕生』田村俶訳)

さらに説明を加えれば、監視者の居る塔の窓には鎧戸がつけられ、映画館のような遮光壁を設けた入口によって、監視塔内部の状態を知ることは決してできません。

 

ここで重要なことは、囚人は完全に見る可能性を断たれ、常に監視者に見られるだけの存在になるということです。
先ほども述べたように、見る-見られるということは、権力関係を含んでいます(サルトル『存在と無』の項参照)。
例えば学生である生徒は、常に教師に上から見られる側の裁かれる立場ですが、その眼差しを反転して、逆に生徒の方が教師を品定めし裁くことも可能です。
「あの先生、キモイよね~」みたいな感じで、生徒が見る主体(主人・監視者)の側にまわることが可能です。
しかし、それが可能なのは、ある特定の監視者○○先生が、視線の対象として存在しているからです。
視線の対象が存在のないアノニマスなものとなったとき、私たちは永遠に見られる側、裁かれる側の囚人になってしまいます。
得体の知れない何者か(ストーカー)に常に監視されているような、非常に不気味な不安です。

これにより、監視し裁く権力は、匿名化、自動化、常態化し、やがて囚人の心のなかに植えつけられたその視線は、なかば無意識的な行動原理の審級として働き出すことになります。
看守(監視者)がいなくとも、囚人自らが自発的に規律を守る、命令に従順な人間=機械の誕生です。
その目的は、「権力の自動的な作用を確保する可能性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者に植えつけること(引用)」です。
非常に経済的で効率的な、管理と統治のシステムです。

現代社会は監視社会とも呼ばれますが、実際これらのシステムは、社会全体にいきわたっています。
それはむしろ社会の成立条件ともいえるものです。
シャバに居るまっとうな社会人の私たちは、法さえ守っていれば自由だと思っています。
しかし、その自由な主体なるものは、以上のような身体調教と、自らの心の内部に埋め込まれた不気味な「監視の目」によって成立しています。
私の行動は、常に規律を強要する社会の目によって統御されています。
もし、そのまなざしを無視して行動すれば、私は反社会的人間として、自由な主体という権利を剥奪され、収監されることになります。
フーコーが炙り出したのは、社会や自由なる主体の隠れた存在条件であるこれら身体調教の詐術です。