フーコーの『監獄の誕生』(1)処罰の歴史

社会/政治

 

 

近代化される処罰の形式

本書においてまず、近代的な監獄制度が誕生するまでの三つの処罰の形式が描かれます。
第一に君主権力における身体刑、第二に社会的に一般化される処罰、第三に管理装置としての監獄制です。
以下、それらを順に紹介した後、管理社会のモデルとなる監獄の技術「ディシプリン」と「パノプティコン」を詳細に見ていきます。

 

一、君主による身体刑(拷問)

君主制における犯罪(法をやぶる行為)というものは、被害をこうむる者への罪であると同時に、法によって統治する君主の権利を踏みにじる行為でもあります。
見世物として罪人に残酷な身体刑を与えるのは、君主の威厳と統治者としての権利を回復するための儀式であり、かつ復讐です。
首に判決文をかけられた罪人は市中引き回され、その罪を人々に示し、公衆の面前で自らの罪を自らの口によって述べることを拷問によって強制されます。
その上で、君主を象徴的に傷付けた犯罪者に対し、君主の力を誇示する残酷な処刑が、見世物として行われます。

 

二、社会体による処罰

18世紀になると、改革者たちによって刑罰の改革がおこなわれます。
力が君主から資本主義社会のブルジョワジーに移行し始めると、処罰は君主の権利回復という目的から、社会の掟(契約)をやぶり、社会の秩序を壊そうとした者への処罰へと変更されます。
いわゆる社会契約上の法的な主体を、再生産することです。
君主の恣意的な権力ではなく、合理的な規則によって取り締まる司法権力によって裁かれます。
具体的には以下のように変更されます。

犯罪で得られる利益よりも、刑罰で与えられる不利益の方が多いことを認識させるために、罪と罰の量的損得勘定を行う。
再犯防止のためには直接的な刑罰の苦痛よりも、苦しみの観念(記憶)が重要になる(たとえば一過性の苦痛は忘却されても、トラウマとしての苦しみは永続されるように)。
それは一般人の犯罪抑止においても同じく、刑罰の実質的な過酷さよりも、その観念(イメージ)の効果の方が重要になる。
法の規定と監視が完全であり、抜け道を許さず、確実に処罰される司法システム。
犯罪の確証が客観的かつ社会的であり、誰に対しても明白な真実としての罪の概念。
体系的な犯罪の規定と位置付け(犯罪のカテゴライズとそれに対応する処罰という処方の規則)。

キーワードで言えば、社会性、効率性、客観性、均質性、規則性、などに則って、罪と罰を規定していくことです。
革命によって勝ち取られた人権の概念が、恣意的で曖昧な罪の規定や残酷な拷問を許さなくなったということでもあります。

市民社会に損害を与えた罪人は社会の利益に貢献すること(主に公共土木事業)によって、自らの身体によって罪を償うことになります。
それによって受刑者の身体を効率的に利用することができ経済的であり、受刑者自身に社会化(社会貢献)の精神を植えつけることができます。
また同時に、人目につく戸外で労働する受刑者の身体が一種の広告の役割をはたし、人々が犯罪へ走ることを防止する「見せしめ」の効果があります。

しかし、改革者たちによって掲げられた啓蒙的なこれら処罰の方法は定着することなく、すぐに監獄という装置に取って代わられることになります。

 

三、管理装置としての監獄

改革者の処罰の方法と監獄のシステムは、かなり似ています(再犯の防止、罪人の矯正、罪と罰の合理的な規定、等)。
しかし、そのベクトルの方向が根本的に変わります。
前者においては意識主体に直接訴えかけることによって主体を馴致することに向いています。
後者においては受刑者の身体の管理に向いており、いわば身体を訓育することによって無意識レベルから服従する主体を作ることが目的になります。
監獄は収容者の身体を全面的な規律のもとに置き、強制的な教育を施術し、規格化された有能な身体を作り上げようとします。

しかし、収容者を規格化し、社会に適応する者へと矯正するという監獄の目的は、常に失敗しています(依然として高い再犯率にある)。
なぜなら、監獄の本当の機能とは、社会から法律違反者をなくすことではなく、何が規格に沿ったものであり、何が法律違反(非行)であるかを分別することにあるからです。
それは正常と異常を決定する規格化の権力であり、それは監獄をモデルとして、学校や病院から一般の会社にまで広がっています。
誰もが皆、裁定者側にいるために、自分の行動や姿勢を規格に合致したものにしようと努力します。
規格からはずれた者は、異常なものとして社会から排除、監禁、矯正されるからです。

 

 

(2)へ続く