創作におけるオリジナルとは何か

芸術/メディア

問題設定

本頁では、創作活動に必ずついてまわる、オリジナルとコピーの問題を扱います。
創作においては独創的であることやオリジナルであることに大きな価値が置かれるわけですが、果たしてそれは本当に大切なことなのでしょうか。
また、オリジナルとコピーを分ける規定は一体何なのでしょうか。
これらの問題の考察を通じて、オリジナルというものの本質をあぶりだすことが目的です。

 

想像の限界

私の想像可能な世界の全体は、基本的に私の過去に見たものの組み替えの範囲を出ることはありません(ウィトゲンシュタインの頁を参照)。
私が何かを想像する時、それは無から生成する全く新しいものではなく、過去に見たものの組み替えでしかありません。
世界ではじめて「ペガサス」を想い浮かべた芸術家は、過去に見た「馬」と「鳥」の部分をコピーして組み替えただけです。
いかに細かく切った部分のコピーで複雑にコラージュ(切り貼り)しようとも、想像というものは、この可能性の限界を出ることはできません。

だから私たち一般人がある作品に対して、オリジナルだとかコピーだとかいう時、それは作品の問題というより、多くの場合は鑑賞者の知識(ボキャブラリー)量の問題なのです。
例えば、「北斗の拳」というアニメに対して、その時代に流行った「ブルース・リー」と「マッドマックス2」という映画の世界観をコピーして組み合わせただけだという意見がよくでます。
先ほどの「馬」+「鳥」=「ペガサス」と同様、「リー」+「MM2」=「北斗の拳」というわけです。
こんな風に、最近インターネット上では、ある創作作品に対して、「このシーン(部分)はあの作品のパクリ、そのシーンはあのパクリ・・」という風に、作品のコピー元をあげつらって、マジシャンのトリック暴きを楽しむかのように、作品の解体を行うサイトが多く見受けられます。

 

コピーしかない世界

インターネットの爆発的な普及によって、広い世界、遠い過去の情報まで光の速度で手に入れられるようになった時代。
今までは見えなかった、作品コピーの元ネタが簡単に見られるようになって、作家の独創性(オリジナル)というものへの信仰は薄らいでいます。
いわば鑑賞者が作家の持つボキャブラリーを簡単に追い越すことが出来るようになってきたということです。
仮に北斗の拳はコピーだけれど、高尚な黒澤映画や宮崎アニメは独創的だと言う人がいたとします。
しかし、それはたんなるコピー元の遠い近いの問題です。
北斗の拳は、同時代の同ジャンルの作品からのコピーであり、誰にでもコピー元が見える近さであるため、簡単にそれが分かります。
けれど、黒澤や宮崎の場合、古書でしか入手できないような古典文学や、洋書でしか接することのできない画家、単館上映の芸術系映画など、一般人の目の届かない非常に遠いところからコピーするため、それが分からず、独創的(オリジナル)に見えてしまうだけなのです。
「リー」や「MM2」なら大抵の人が知っていますが、アキレウスタティオスやビクトル・エリセなど、一部のマニアしか知りません。
現代作家が近い時代の近いジャンルからコピーすれば周囲から馬鹿にされ、シェークスピアやドストエフスキーからコピーすれば、高尚だとか学があるとか褒められるのは、なにか不思議な話です。

私がその世界に入りたてで何の知識もない時、すべてがオリジナルの作品に見えます。
しかし、私がその世界に浸り知識を得て、豊富なボキャブラリー(視覚・聴覚含めた)を得るにしたがって、大抵の作品がコピーの組み替えだと気付きはじめます。
そして、最終的には、すべてがコピーであるという見識に変わります。
それは万華鏡のように同じパーツを組み替えながら、次々に新しい作品を生み出していくのです。
その新しさは、いつかどこかで見たであろう既視感をともなうものとしての新しさです。

 

現実経験もまたコピー

メディアをとおして他者の作品ばかりに接し、現実経験をあまり持たない、いわゆるオタク的な作家の場合、すべてがコピーの組み替えというこの原理が明確に見えます。
しかし、自己の現実経験重視で、あまり他者の作品を見ない自伝的意味合いの強い作家の場合はどうでしょうか。
他者の作品というコピー元を参照しない以上、自分の経験にのみ即したオリジナルの作品になりそうなものですが、そう簡単ではありません。

私の経験や感情、またそれを統一する自我というものが、そもそも論として他者のコピーです。
精神分析家のフロイトが『自我論』において述べるように、自己とは取り込まれた無数の他者であり、そのうち最も強力な他者が超自我(自我の内から命令を発する心の黒幕のようなもの)であると言うように。
私の経験も感情も、事前に他者に既定されたものであって、完全にオリジナルであるわけではありません。
例えば私が恋人と楽しそうに自転車で二人乗りして走るとき、それはどこかで観た映画やマンガや小説や歌などのシーンを、そこはかとなくイメージしながら真似ているのです。
そういう原風景的なシーンをイメージのボキャブラリーとして持っているからこそ、私は恋人との二人乗りに情感をともなう経験を得ることが出来るのです。

私という人格は、父の生き方や、母の表情やしぐさ、アニメで見たヒーローや、故郷の人々特有の人格特性など、無数の他者を、部分的にコピーしながら取り込み形成してきたものです。
私の持つ経験や感情の枠組みも、それと同様に、他者の真似び(学び)によって得たものです。
例えば、幼児が生まれてはじめてこけて、キョトンとしている時、その経験はまだ幼児に組み込まれていないまっさらな経験です。
しかし、一緒にこけた横にいるお兄ちゃんが泣き、母が「大丈夫?」と言いながら近付くシーンを見て、幼児はこけた時の適切な動作方法を知り、それをコピーすることを学びます。
社会化とは、社会的に適切な立ち居振る舞いの真似び(コピー)のことです。
こけてキョトンとしていた幼児は、次にこけた時には泣き、幼児がお兄ちゃんの立場になって弟がこけた時は「大丈夫?」という言葉を発しながら、駆け寄るのです。
比喩的なイメージとしていえば、それは無数の鏡が他者を映し合う、コピーの複雑な網状連鎖によって私たちの世界は成り立ち、私という自我はその鎖が集中する結節点のようなものです。
コピー元が実在の人物か映画のキャラクターかなどということは関係なく、混在し互いを映しあっています。

では、仮にすべてがコピーの組み替えだという立場をとるなら、一体オリジナルとは何を指すことになるのでしょうか。

 

作品の内の構造

もし、素材というものがすべてコピーだとするなら、先ず浮かぶのがその素材の選択と、どうそれを組み合わせるかという構成などの内にある隠れた構造の問題です。
例えば、映画学校の課題などで、皆に同じ映像を素材として与え、それを編集する(好きな場所を切り取り好きなように組み替える)ことによって自分独自の映像作品にする、というものがあります。
与えられる素材は同じでも、その素材の選択と組み合わせ方次第で、千差万別の個性的な作品世界と、そこに意味の多様性が生まれるわけです。
素材が他の作家からのコピーであっても、その作家独自の素材の選択パターンや、構成の方法が、その作家にオリジナリティーを与えるということです。

 

構造すらコピー

しかし、この構造というものも、実はコピーで成り立っています。
たとえば、時代劇の『水戸黄門』と『遠山の金さん』はほぼ同じ構成をしています。
構成を同じままに素材さえ代替物で交換すれば(例えば「印籠」⇔「桜の刺青」)、別の物語に見えるわけです。
昔話の『鶴の恩返し』の構成をそのままに、素材を交換すれば、『浦島太郎』になります(レヴィ=ストロースの頁を参照)。
有名なエヴァンゲリオンというアニメの構造は、ウルトラマンの構造のコピーです。
「馬」+「鳥」=「ペガサス」の時と同様に、他者の作品の構造を切ったり貼ったりすることで、自己の作品の構造は作られています。

この構造の組み合わせのパターンが独創的な作家は、そのジャンルにひとつの革命をもたらし、その後その作品の亜種を次々と生み出すことになります。
例えば、黒澤映画の内にある独自の構造が時代劇に革命をもたらし、その構造はそのままにして素材のみを入れ替えた劣化したコピーが氾濫します。
エドガー・アラン・ポーは、推理ものやミステリーなどの数々の新しい構造を生み出した革命家で、いまだ多くの作家はその構造をコピーし、素材を入れ替えただけのものを量産しています。

もちろんこれも前頁と同じように、黒澤が独自で、黒澤映画の亜種がコピーということではなく、たんに鑑賞者が黒澤映画の構造の元ネタを知らないだけです。
黒澤映画の構造も、多くの場合、古典文学からのコピーです。

勿論、すぐれた作家と凡庸な作家のコピーでは、大きな差が出ます。
すぐれた作家というものは、あくまでもコピーの元ネタを自分の内部にまで取り込み、なかば無意識的にその素材や構造の切り貼り作業を行います。
なのでそこには非常に統一感のある作家独自の同一性のようなものがあらわれており、仮にコピーであったとしても違和感なく鑑賞者に受け入れられます。
しかし、凡庸な作家は自己の内にまで素材(元ネタ)を取り込み消化するという作業をへないままに、表面的かつ意識的にコピーするため統一感がなく、まるで取って付けたようなチグハグさと、いかがわしさが目に付きます。
土産物屋にあるキャラクター商品のような、あのチープな安っぽい感じです。
そういうギクシャクとした不統一のキッチュな感じを「今風」だとして、意図的に表面的なコピーをすることによって利用する作家もいますが。

どちらにせよ、外見もコピーした素材の切り貼りのコラージュ、そのコラージュを支える内側の構造すらまたコピーの切り貼りだとするなら、創作作品のオリジナリティーというものは作品そのものの中にあるのではないことになります。

 

作品の本質はその額縁にある

作品のオリジナリティーの本質は、実はその外部をとりまく背景の中にあるのです。
例えば、老舗の菓子屋とらやの作品である羊羹の本質は、そのこだわりの素材や製法や配合にあるのではなく、「とらや」と書かれたその箱書きにあるのです。
室町時代から培ってきた日本社会という文脈(コンテクスト)の中での自己の位置付けの努力が、その羊羹のオリジナルを保証するのであって、作品である羊羹そのものは目的ではなくむしろ手段に過ぎません。
とらやの羊羹と同じような内容のものは、きっといつかのどこかの和菓子屋が作っていたことでしょう。
しかし、それがとらやオリジナルの羊羹だと認識されるのは、作品の背景である社会の中でその地位を確立するための努力をしているからです。

広い世界、無限に続く時間の中で、私の創作作品と同じようなものを、きっといつかのどこかで誰かが作っていたはずです。
作品内容が似たようなものであれば、その誰かが作った作品と私の作品を分けるものは、その作品が置かれる背景のみです。
だから作家の作家たる所以は、いつ、どこで、どのようにして、その作品を位置づけるかという、コンテクスト(文脈・背景)に対しての応答力にあるのです。

 

作家とはイノベーターである

あらゆる分野で革命を起こした天才に対してよく出る批判に、「彼より以前に別の作家がそれを発明していた。彼はそれを取り上げ普及させた宣教師にすぎない」というものがあります。
ニュートンも、エジソンも、フロイトも、アインシュタインも、ピカソも、単なる宣伝屋であって先行する無名の発明家のコピーだというわけです。
しかし、それは本質を見誤っています。
その分野で革命を起こす天才とは、すでにあった考えや発想を、適切な時期と適切な場所と適切な方法で、いわば適切なコンテクストにおいて位置付け、ある種のイノベーションを起こし、歴史を動かす先鋭的な感性を持った者です。
その革命があったからこそ、先行する無名の発明家などという者にも脚光があたるのであって、もしその革命がなければ、その先行者は永久に無名のままです。

そもそもオリジナルがコピーを生むのではなく、コピーが遡及的にその対概念であるオリジナルを生むのです。
コピーという存在がなければ、オリジナルはたんなるアノニマスな何かでしかありません。
例えば、ダリやブルトンのシュールレアリズムの革命があったからこそ、その祖としてロートレアモンが逆照射されるのであって、先行するロートレアモンがシュールレアリズムの曙光であるわけではありません。
現代美術やコンセプチュアルアートなど、とうの昔からあった発想です。
しかしその昔からあった発想を、現代というコンテクストにおいてコピーし、まるで起業家のようにイノベーションを起こし、今までいなかった需要者(鑑賞者)を爆発的に増加させることに成功した革命家が、マルセル・デュシャンなのです。

 

本当の天才は同時代にいる

「天才は時代に先行するから死んでから脚光を浴びる」などとよく言いますが、それは彼が時代に先行するからではなく、たんに彼の発想が時代にあっていなかっただけの話です。
後世の人間が、アクチュアルなその時代というコンテクストにおいて最も有効な発想を過去のデータにおいて探した時、その「死んだ天才」なる者が発見されるのです。
だから、もしそうやって後世の人間に頼ることのない自立した本当の天才であれば、デュシャンやピカソのように、同時代に生きたまま天才の脚光を浴びるはずです。

私という人間のアイデンティティーやオリジナリティーが、あくまでも他者との関係の中で生ずる社会的な関係概念であるように、作品のアイデンティティーやオリジナリティーもそのコンテクスト抜きに考えることなど決して出来ません。
「自分は孤高の天才だから、同時代人には認められない」と言って、人里はなれた山奥で作品を黙々と作り続けても、結局それは自己の作品の可能性を後世の他者に丸投げする、孤高どころかまるで依存的な生き方です。
孤高の天才の私が生んだアイデアや作品など、広い世界、永い歴史において、誰かが既に同じようなものを作っているのであり、結局、残るものは自己満足だけです。
私が私の作品に対してアイデンティティーとオリジナリティーを付与したいのであれば、時代の感性の中でリアルに生き、そのコンテクストが何を希求しているかを察知し、それに対し作家としての応答という責務をまっとうすることによって、それを獲得するしかないのです。
現代美術家の村上隆は、これを極端にまで突き詰めて(ほとんど戯画的に)やってしまったため、ステレオタイプの孤高の芸術家というものに幻想を抱く人々に非常に嫌われるわけです。

簡単にまとめてしまえば、私の作った作品など、所詮過去の作品の切り貼りのコピペでしかありません。
重要なことは、それをどういうコンテクストに置くかということによって、それに新しい意味づけを与えることです。
そのコンテクストの中の位置と地位が、私の作品のオリジナリティーを生み出し、それを保証するのです。
さらにいえば、それを起爆剤としてその分野にイノベーションを起こす人が天才作家なのです。

どの芸術部門の芸術家でも、その人ひとりだけで完全な意義をもつ者はない。その意義、その価値は死んだ過去の詩人たちや芸術家たちに対する関係の価値である。~新しい芸術作品がつくり出されるとき起こることは、その前に出たあらゆる芸術作品にも同時に起こることである。~現在残っている著名な作品はおたがいのあいだに理想的な秩序を形成しているが、この秩序は新しい(ほんとうに新しい) 芸術作品がそこへ入ると変更されるのだ。現在ある秩序は新しい作品があらわれないうちは完結しているわけだが、目新しい作品が加わった後でも持続したいというのなら、現在ある秩序全体が、たとえ少しでも、変化を受けなければならない。こうして一つ一つの芸術作品が全体に対してもつ関係やつり合いや価値が修正せられてゆく、これが古いものと新しいものとの順応なのである。~この秩序の観念を認めた人は誰でも、現在が過去によって導かれると同じように過去が現在によって変更されるということをさかさまだとは考えないだろう。~芸術そのものは決して進歩しないが、芸術の素材はいつも変わって同じだったことはないという明白な事実をよく知っていなければならない。(T・S・エリオット、矢本貞幹訳)

おわり

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