ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』

哲学/思想 言語/論理

世界と事実

SF映画によくあるように、私の全ての記憶を消去されたとしましょう。
そして私は部屋で目覚めます。
その時、最初に私の眼に映ったものは、「こたつの上でネコが寝ている」という『事実』です。
いま、私の世界は「こたつの上でネコが寝ている」という事実、だけです。
ここで柱時計が鳴り、私は柱時計を見ます。
これにより、私の世界に「柱時計が鳴る」という事実が付け加わります。
いま、私の世界は「こたつの上でネコが寝ている」「柱時計が鳴る」のみで成立しています。
『世界』とは事実の総体として成り立っています。

 

論理空間と事態

ここで私は「こたつの上でネコが寝ている」「柱時計が鳴る」という事実を分節して、個々の対象(モノ)に分けてとらえます。
そして思考によってこれを組み替え結びつけ、「柱時計の上でネコが寝ている」「コタツの下でネコが寝ている」「コタツの上に柱時計がある」状態-像を頭の中に生み出します。
この、現実の事実ではないが、可能性としてある事柄を『事態』と呼びます(「ネコがこたつ」や「柱時計が寝る」は無意味で成立可能性がないため、事態たりえません)。
そしてこの事態をすべて集めた総体を『論理空間』と呼びます。
論理空間という可能世界のうちで、現実に成立している事態(=事実)の総体としてある範囲が『世界』です。

 

写像としての言語

ウィトゲンシュタインにとって言語は現実の写像です。
現実の代理物の写像としての言語を使用することにより、事実の分節や組み換えや結合が可能となり、可能世界の総体としての論理空間が立ちあらわれます。
事実の写像が『命題』であり、事実(命題)を分節した個々の対象を示すものが『名』です。
『名』といっても、いわゆる名詞としての名ではなく、命題の構成要素すべてを『名』と呼びます(寝るも鳴るも名です)。
そしてこの命題の構成要素である『名』を組み合わせたもの『要素命題』が事態を表現します。

 

論理形式

事実から対象(名)を分節し、要素命題(事態)において組み合わせるといっても、それは完全に自由であるということでなく、ある形式に従います。
命題が事実を写像するためには、命題の構成要素である『名』を配置できる条件が、現実の事実の構成要素である対象の配置条件と一致していなければなりません。
ある対象がどのような事態のうちにあらわれうるかという、その条件を『論理形式』と呼びます。

現実において色が必ず物体に付随するように、命題内でも色名は物体名に隣接して配置されなければ無意味になります。
赤い時間、青い引力、紫が飛ぶ、等々、色の論理形式を無視した結合では、無意味となり事態たりえません。

 

論理空間の構造

仮に「A.イヌがいる」「B.ネコがいる」というふたつの事態だけの単純な世界を想定した場合、その論理空間は以下の四通りになります。

1、A×B×
2、A○B×
3、A×B○
4、A○B○

もし現実にネコしかいないなら、「3、A×B○」が事実であって、他は事態となります。

この要素命題は論理定項(~かつ~、~または~、~ならば~、など)によってつなげ、複合が可能で、それにより論理空間は複雑な構成を持つことができます。

 

以上を簡単にまとめます。
私が「鳥が飛ぶ」「馬が駆ける」という現実の事実を見て、それを写像(言語化)によって対象を名付け分節化して命題とし、論理空間の中でその命題を組み替え・結合し要素命題を作り、「翼をもった馬(ペガサス)が天駆ける」という事態を思考することができるのです。

 

語りえないもの

本書の目的は、カントが認識の限界を確定したように、思考の限界を確定することです。
それにはふたつの語りえないもの(思考の限界)があります。

第一に、語ること(言語)そのものを可能にする根底条件でありながら、それ自身については語ることができない何ものかとしての論理(論理形式や論理定項など)です。
カントにおける認識(感性)の形式である時間と空間が、経験に先立つ(先験的)もので直接認識できないように、言語に先立つ論理そのものは、言語によって語ることができないのです。
それは語られる言語のうちにつねに「語られずに示されているもの」であり、言語の暗黙のうちの前提としてあります。

第二は、第一とは逆に語りうることの外部にあるため、語りえないものです。
私にとって現実世界は事実の総体です。
さらに私が思考(想像)しうるすべての可能性をも合わせた世界(事態の総体)が論理空間です。
私にとって論理空間がすべてであり、その外部については思考することすらできないという意味で、語りえないものです。

 

独我論

第二の語りえないものについて具体的に考えて見ます。

例えば、魔女によって暗い洞窟に閉じ込められて育ったお姫様は、私たちにとっては当然の昼の世界を想像することも語ることもできません。
私と他者は経験してきた事実が違うため、別々の論理空間を生きており、お互いに語りえない世界の部位をもっています。
誰かが第六感について力説するとき、私は非科学的だと馬鹿にします。
しかし、私にとって語りえないはずの超能力が、その誰かにとっては語りうるものなのかもしれません。
逆に私がいくら科学的事実を力説しても、一向に理解してくれない他者がいるとき、私にとって語りうる世界であるはずの科学が、彼にとっては語りえないものなのかもしれません。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
私は私の世界である。(ミクロコスモス)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
(ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳『論理哲学論考』 岩波書店より)

「私」とは、世界を認識し意味づける(デカルト-カント的)主体ではなく、ミクロコスモスと表現されうる世界の実質そのもの「私=世界(私の論理空間)」であるのです。
他者とは、私とは別の世界(論理空間、ミクロコスモス)をもつ主体を指すものです。