創造(想像)とは何か

芸術/メディア

注、本頁は以前書いた「オリジナルとは何か」を発展させたもので、やや内容が重複しています。

現実の本質

SF映画によくあるように、私の全ての記憶を消去されたとします。
そして、私は部屋で目覚めます。
その時、最初に私の眼に映ったものは、「こたつの上でネコが寝ている」という経験的事実です。
いま、私の世界は「こたつの上でネコが寝ている」という事実、だけです。

ここで柱時計が鳴り、私は柱時計を見ます。
これにより、私の世界に「柱時計が鳴る」という事実が付け加わります。
いま、私の世界は「こたつの上でネコが寝ている」「柱時計が鳴る」のみで成立しています。
私の現実世界はこれら事実の総体として成立しています。

 

想像の本質

ここで私は想像によって、「こたつの上でネコが寝ている」「柱時計が鳴る」という事実を分解して、個々の対象に分けてとらえることができます。
そして、さらに想像力によってこれらを組み替え、結びつけ、「柱時計の上でネコが寝ている」「コタツの下でネコが寝ている」「コタツの上に柱時計がある」というような状態を頭の中に生み出します。
事実の総体が現実世界であるのに対し、これが可能世界です。

さらに、この組み替えは、論理的に逸脱した組み替えも可能であり、「柱時計の胴体から手足の生えたネコ」「ボーン、ボーンと鳴くネコ」なども可能であり、これが一般に言われる現実ではない想像(ファンタジー)の世界です。
ここから分かるように、私が持つ経験的事実の組み替えの可能性の全体が、私の想像力の限界です。

はじめて「ペガサス」というものを想像によって描いた芸術家は、過去に見た「駆ける馬」と「飛ぶ鳥」という経験的事実を組み替えることによって生み出したのです。

 

想像力の豊かさ

私の想像力の限界とは、「私が持つ経験的事実の組み替えの可能性の全体」であるなら、当然、私の想像力の豊かさとは、私の持つ経験的事実の豊富さに比例します。

これがいわゆる作家のボキャブラリーの豊富さであり、単純に想像力の豊かな世界を作りたければ、それだけたくさんの経験をインプットする必要があるわけです。

例えば、ガンダムとエヴァンゲリオンしか観たことのない作家は、それら二つの作品の組み替えによって作られた、非常に狭い想像世界しか生み出せません。
しかし、時代、国、ジャンルを問わず、幅広い作品に接し、幅広い経験を得る人ば、それだけ広大な想像世界を所有することになります。

 

想像力の質

経験にも質というものがあり、深い経験もあれば浅い経験もあり、鑑賞するにしても、優れた作品もあれば下らない作品もあります。
それらは当然、自分の生み出す想像にも直結します。
いくらたくさんの経験を摂取しても、それが質の低いものなら、私の想像世界も貧しいものになります。

本当か嘘か知りませんが、ガンダムを作った偉い人は、作り手になるならマンガやアニメなんか観るな、と言うそうです。
マンガやアニメが劣化コピーなのに、さらにそれをコピーしたら、コピーのコピーでどうしようもないと。

 

想像とはパクリである

これで大体分かってきますが、想像とはパクリのコラージュ(切り貼り)であり、哲学者風にカッコつけて言えば、作品とは「引用の織物(ロラン・バルト)」なのです。
他人の作品を糸にして、自分の作品をつむぎだすのが、創作です。

哲学者のパスカルは言います。
「私の文章がパクリだからといって、非難しないでほしい。パクリ素材の並べ方が新しいのだ。おなじ言葉でも違った並べ方をすれば、違う意味をもつように、おなじ思想でも、並べ方を変えれば、全体の意味が別のものに変化するのだ。(超意訳、パンセB22より)」

しかし、並べ方も基本パクリで出来ています。
詳細は省きますが、物語や芸術の構造分析の分野をあたってみてください。
では、パクリを隠して、オリジナルっぽく見せている偉い作家達は、どうやっているのでしょうか。

 

正しいパクリの方法、その1

優れた作家の想像は、統一性によってパクリの記憶を消去する

すぐれた作家の想像(パクリ)と凡庸な作家のパクリ(想像とは言えない様な)では、大きな差が出ます。
すぐれた作家というものは、あくまでもコピーの元ネタを自分の内部にまで取り込み、なかば無意識的に切り貼り作業を行います。
なので、そこには非常に統一感のある、作家独自の必然性の中にコピー素材が配置されるため、完全にコピーの元ネタの出自(故郷)の痕跡は消されてしまいます。

しかし、凡庸なパクリ作家は自己の内にまで素材(元ネタ)を取り込み消化するという作業をへないままに、表面的かつ意識的にコピーするため、統一感がなく、まるで取って付けたようなチグハグさと、いかがわしさが目に付きます。
コピー素材が元いた出自をありありと主張する、土産物屋にあるキャラクター商品のような、あのチープな安っぽい感じです。
そういうギクシャクとした不統一でキッチュな感じを「今風」だとして、意図的なパクリを全面に押し出す作家もいますが。
画像はうまい棒のパッケージ(キッチュなドラえもんである、通称うまえもん)です。

 

正しいパクリの方法、その2

優れた作家の想像は、遠いところからパクって鑑賞者にそれを気付かせない

安易な作家は、同時代、同地域、同ジャンルの作品からパクるため、誰にでもコピー元が簡単に分かります。
けれど、優れた作家は、古書でしか入手できないような古典文学や、洋書でしか接することのできない国外の優秀な画家、単館上映の芸術系映画など、一般人の目の届かない非常に遠いところからコピーするため、それが分からず、独創的(オリジナル)に見えてしまうのです。

コピーとオリジナルの違いは、作品にあるというよりは、鑑賞者のボキャブラリー(言語に限らず視覚・聴覚等含めた)の量の問題です。
鑑賞者がその作家以下のボキャブラリーしか持たない場合はその作品はオリジナルに見え、鑑賞者が作家の持つボキャブラリーを追い越すとそれがコピーだと分かります。

私がその世界に入りたてで何の知識もない時、すべてがオリジナルの作品に見えます。
しかし、私がその世界に浸り知識を得て、豊富なボキャブラリーを得るにしたがって、大抵の作品がコピーの組み替えだと気付きはじめます。
そして、最終的には、すべてがコピーであるという見識に変わります。

パクリの方法その1.とその2.について明確に語っているのが、詩人のT.S.エリオットです。

未熟な詩人は模倣し、成熟した詩人は盗みます。悪い詩人は手に入れたものを傷つけ、優れた詩人はそれをより良いもの少なくとも別のものに変えます。優れた詩人は、自分の盗品をその元となる感情とは明らかに異なる、独自の感情の全体に統合します。悪い詩人は、それを一貫性のないものの中に投げこむだけです。優れた詩人は、時間的に遠い作家、言語的に異なる異国の作家、または様々なカテゴリーの作家から借用します。(意訳、T. S. Eliot “Philip Massinger”1919年)

エリオット(文学)と同世代のピカソ(絵画)やストラヴィンスキー(音楽)も同じようなことを言っていますが(凡庸な芸術家は模倣し偉大な芸術家は盗む、的な)、ピカソについては裏が取れておらず、スティーブ・ジョブズがピカソの言葉と勘違いして流布させてしまったとも言われています。

正しいパクリの方法、その3

優れた作家の想像には生命力があるため、自然淘汰的にオリジナルとして生き残る

なんでうまい棒のキャラがドラえもんのパクリだと言われるかというと、『ドラえもん』という作品に魅力があり、長く生き続けているからです。
うまい棒のキャラ(うまえもん)も40年ほど前(1979年)からいるそうですが、もし、ドラえもんという作品に魅力がなく30年前に私達の前から消えていれば、うまえもんはパクリと言われず、オリジナルとして君臨していたはずです。

『ドラえもん(1969~)』の世界観の元ネタは1959年の益子かつみの漫画『快球Xあらわる!!』ですが、作品として短命であったため、その影響については一部のマニアにしか言及されません。
もし、『快球X~』が今でも世間でもてはやされるような作品であれば、逆にドラえもんはパクリと言われていたかもしれません。

基本的に良い作品や人気の作家はパクリをしてもあまり叩かれません。
みんな無くなったら困る作品や作家のパクリには目をつぶり、消えてもいいような(あるいは権威のない)作家や作品のパクリなら無理なこじつけをしてでも叩いて潰したがるからです。

リアルなことを言ってしまえば、オリジナルというものの本質は社会的な力関係に依存しています。
オリジナルの発明家として歴史に名を残す者に先行する、無名の真のオリジナルの発明者というものが常に隠されています。

方法2と方法3は、意図せずに生じることもあります。(注1.参照

 

正しいパクリの方法、その4

優れた作家の想像は、分割あるいは連鎖によってパクリの原形をとどめない

簡単に言うと、ひとつふたつの作品からのパクリではパクリが簡単にバレますが、100個の作品から細切れ状でパクったら、パクリ先の原形をとどめず、オリジナルに変化します。
これは結構本質的なことなので、高名な心理学の先生(アルバート・バンデューラ)に代弁してもらいます。
「モデリング」とは、「模倣(パクリ)」のことです。

「創造モデリング」
一般に信じられている考えとは異なり、新しいパターンはモデリング過程を通じて出現できる。様々なモデルを観察する中で、観察者は、ある一人だけのモデルに従って行動をパターン化することはめったにしないし、あるモデルのすべての属性を採用してしまうこともしない。そうではなく、観察者は、いろいろなモデルの諸々の側面を組み合わせて、どの一つとも異なる独自な新しい混合体を作り上げる。それぞれの観察者 が、それぞれ違った特徴の組合せを採用するのである。社会的行動の場合、同じ家庭の中のひとりひとりの子どもが、その家族から違った態度をひき出すことによって、それぞれ違った性格特徴を作り上げると考えられる。連続的モデリング、すなわち観察者が次に新しいメンバーに対してモデルとなるモデリングの経過の中で、最初のモデルの行動とは似ても似つかない新しい行動パターンが徐々にできあがっていくと考えられる。しかし、すべてのモデルがだれもかれも同じような行動様式しか示さないような同質的文化の下では、連続モデリングの長い過程を踏まえても、行動様式はほとんど変化しないだろう。新しい行動はモデリングの多様性の土壌の上に培われる。
モデリングは新しい行動様式の「発端」において最も創造的発達に貢献すると思われる。ひとたび開始されるや、その新しい形での経験に基づいて更に進化的変化が生み出される。こうして従来の考え方から部分的に脱け出すことによって、結果的に新しい方向に進むことになる。ある時代の創造性に富んだ生涯は こうした過程の好例となっている。ベートーベンは、その初期の業績において、ハイドンとモーツァルトの古典的形態を採用しながらも、その中で情緒の表現を大きくし、このことが後の芸術的発達の方向を予見するものとなった。ワーグナーはベートーベンのシンフォニー様式にウェーバーの自然主義的設定とマイエルビーアの劇的な技巧を融合させて、新しいオペラを創造した。他のいろいろな分野でも、創造者は、まず最初に他人の業績に頼りながら、その経験に基づいて新しいものを創造していくと考えられる。(原野広太郎/福島脩美訳)

 

そもそも想像のオリジナルなど特定できない

子供の頃、私がテレビアニメを観ていた時、一緒に見ていた父がそのシーンを『大岡越前』のパクリだと言ったのを憶えています。
しかし、そのアニメ作家が「大岡裁き」をパクッたのか、その元ネタである聖書の「ソロモン裁き」をパクッたのかは分かりません。

あるアニメのシーンが宮崎アニメの『千と千尋の神隠し』のパクリであると批判された時、そもそも宮崎のそのシーンは泉鏡花の文学からのパクリであり、鏡花のそれは上田秋成からのパクリであり、秋成のそれは私の知らないさらに昔の文学からのパクリかもしれません。
当の宮崎駿は、自分の作品に対する他の作家の影響に言及された時、「根が同じなだけ」と一蹴しています。

結局、多くの場合、鑑賞者が知っている最初のネタがオリジナルなのであり、コピーとオリジナルの違いは、作品にではなく、受け手にあると言えます(美術家の森村泰昌もこのオリジナルというものの曖昧さについて度々言及します)。

 

パクリをばらしては駄目

マジシャンの世界でタネ明かしはタブーなのと同様に、作家は自分のパクリを明かしてはなりませんし、タネ(パクリ元)を知っている鑑賞者も他の鑑賞者にそれをバラしてはなりません。
作品というものはマジック同様ある種のイリュージョンなので、その夢を覚まさせるようなことをしては魅力が半減します。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず(秘密にすれば花となり、秘密にしないと花にはならない)」です(世阿弥の本意ではなく通俗的な意味で)。
秘密を知っていると話したくなるのですが、そこは大人になって、グッと我慢して、作家と無垢な鑑賞者の夢物語を守ってあげてください。
サンタを信じる子供にサンタの本性をバラしてはいけません。(注2.参照


Norman Rockwell ”Truth about Santa”or”Discovery” (1956)

 

おわり

 

 

※注1.

特にオリジナルの自然消滅によるパクリのオリジナル化は、作家と鑑賞者の年齢差のギャップがある時には自然に生じます。
作家が若く、鑑賞者と年齢が近い場合、パクリの元ネタが見えやすい(文化を共有している)ので、パクリとオリジナルの関係が見えやすくなります。
しかし、年齢差があると、鑑賞者にパクリの元ネタが見えず、オリジナルに見えてしまうということです。
例えば、宮崎駿が50年代のフランスやロシアのアニメからパクっても、90年代に彼の作品を鑑賞する人にはオリジナルへのアクセスが難しくなっているので、パクリがオリジナルに見えます。
これは地理的な面でも言え、海外作家の丸パクリのアートが国内ではオリジナルとして堂々と幅をきかせることが多々あります。
インターネットの爆発的な普及によって、誰にでも簡単に広い世界遠い過去の情報まで光の速度で手に入れられるようになり、現代の作家はオリジナルを主張することが難しくなってきています。
それは、パクリの元ネタがバレるという積極的な面と、影響を受けていないにも関わらず似たものが過去に存在し、遡及的、結果論的にパクリにされてしまうというという消極的な面の二面で言えます。
現在は作品が素晴らしければ、かつ著作権的な名誉や利益を害しないものであれば、コピーとかオリジナルとか「どうでもいい」というスタンスの鑑賞者が増えています。

※注2.

個人的には、パクリ(元ネタ)はオープンにした方がよいと考えています。
高尚な芸術作品も、ひと昔前に流行したニコニコ動画のMAD動画(細切れ状の無数のパクリで一本の作品を作る)も、やっていることは変わりません。
ただ、その元ネタの広さ(地理的、カテゴリー横断的、歴史的)と深さ(質的)において前者の方が範囲が広く、独自の統一性のもとにはめ込まれているというだけで、いわゆる一次創作と二次創作の違いは、元ネタとの距離(遠くて分かりにくいか、近くてすぐにバレるか)と統一性の問題です。
自らの権威付けと利権と虚栄心のために、頑なにパクリを否定し隠そうとする高尚な作家に比べ、パクリをオープンにし、パクられた時(つまり元ネタにされた時)むしろ喜ぶMAD職人の方が、よほどクリエーターとして純粋で、清々しく感じます。
無償、匿名の世界でのクリエイティブ(いわゆる「才能の無駄遣い-誉め言葉-」)では、金や権威や名にこだわり嘘を吐いてまでオリジナル性を主張する必要など無いからです。