神話化する啓蒙
啓蒙、伝統的理論、道具的理性と巡りましたが、ここでこれらに共通する構造のイメージが何かに似ていることに気付きます。
それは神話です。
天という頂点の視座から階層化されたヒエラルキーの中(パースペクティブ)において秩序づけられ組織化された統制的世界。
眼前にある事物に対しての無批判な信頼によって生ずる事物の聖化と永遠化、それによって生ずる同語反復的に再生産され続ける自己完結した世界。
啓蒙は神話の宿命論を解体することを目指しながら、その思惟の抽象作用によって現実のもつ様々な質を等質化し、数学的に数量化されたその平板な世界は、計算する理性という神によってあらたな宿命論を背負わされることになります。
なぜそうなるかというと、そもそも「神話」自体がすでに「啓蒙」だったからです。
啓蒙は、元々神話に内在していたものを批判的に抽出しながら自己発展していったものとも言えます。
それは、視座の固定、秩序化、階層化、カテゴリー化、組織化、主従や主客の発見、現実の代替物(概念)の発見、などです。
神話とは世界の出来事を名付け、レポートし、その起源(因果)をいうものでした。
発見し、著述し、説明するという、ロゴス的体系化の原初的なプロセスがすでにあったわけです。
生ける自然の質的多様性と世界の重層性は、ロゴス的統一主体により同質化され、ある特定の目的に資するための単なる客体的な質料(素材)としての統一的自然に取って代わられることとなります。
「太陽を頂点とする家父長的な神話は、言語によって組織立られた総体であり、そこに含まれている真理欲求によって、~神話の言語的組織化そのものが、止まるところを知らない啓蒙の進展過程の動因となった」(引用)
啓蒙と道徳
主体の自己保存のために自然(客体)を支配する合理化の果てにある閉鎖的な世界の中に閉じ込められた人間は、必然的に人間による人間自体の支配、主体による主体の支配へといたります。
SFっぽくいえば、人間の利便性のために作った奴隷であるAIが、人間の制御を超え出て、逆に人間を支配し始めるような弁証法的な反転です。
人間は技術の合理性によって自然を支配したわけですが、人間による人間の支配の場合それは道徳の合理性という形に変わります。
啓蒙家カントの倫理観に見られる、人間の感情や性向を完全に切り捨てた極めて理性(啓蒙)的で厳格な無感情の義務道徳。
そしてこの啓蒙的な道徳を仮借なきまでに追求した先にあるものが、ニーチェ的な道徳です。
「弱者を抑圧せよ」と言うニーチェは決して非道徳なのではなく、異様なまでに誠実かつ理性的に道徳を追求するがゆえに、既成の道徳の枠を超え出てしまうためそう見えるだけです。
雨の中ずぶ濡れで帰ってきた小学生のニーチェを心配した母親に対し彼は言います、「だって、先生が下校時は走って帰っては駄目だと言ったから」と。
何かしらの狂気を感じるこの逸話の中にあるものは、ファシズムにも通底するような苛烈なまでの義務感と道徳性です。
ニーチェの徹底的な啓蒙道徳にとって、キリスト教やショーペンハウアー的な弱者の同情道徳は、あまりに不合理なわけです。
自己保存(生きること)を目指すはずの自然法則が、あえて死ぬことや弱さを志向する事は、悪徳以外の何ものでもありません。
啓蒙から野蛮へ
全てにあまねく神のように現代の神話となった理性(啓蒙)は、世界を単なる自己保存と再生産のための道具とし、外的自然を支配し、人間を支配し、自己自身の内なる衝動(内的自然)をも徹底的に抑圧します。
元来自然がもっていた様々な可能性や複雑な諸力は非合理なものとして斥けられ、単なる限定的な真理でしかない実証主義や科学や数学の専制的な独断論がすべてを覆います。
この抑圧された根源的な内的自然の諸力は、文明や理性や主体に対する潜在的怨恨と敵意としてくすぶり続けており、高まりを見せたその暗い衝動は、チャンスを見計らい強力な破壊力として理性に対し逆襲します。
しかし、現代において絶望的なことは、ある程度文明と自然のパワーバランスをとっていたこの内的衝動の反逆力が、文明の体制を維持強化するための手段として利用されてしまうことです。
内的自然の反抗的な不合理のエネルギーを、合理の組織のうちに取り込むことによって、それすら道具にしてしまうのす。
そしてこの爆発する暗い力を利用したのが、ナチズムです。
抑圧された根源的自然の解放を求める大衆におもね、むしろその大衆の怨恨を煽り爆発的な力を操作し、逆に反抗の標的であった支配の条件そのものを強化することに成功します。
啓蒙の目指した理性的で主体的な近代的自我は、その極点にいたり、野蛮(非理性的)で主体性の完全な否定という、反対物に転化します。
理性と自然の融和の夢は、理性と自然の破壊的な対立という正反対の現実を突きつけられることになるのです。
救済
この啓蒙的理性の暴走を止められるのは、理性自身の自己反省(批判)しかありません。
前項の一部において示唆した、元来理性がもっている批判力によって自己の限界=可能性を知らねばなりません。
啓蒙の弁証法を自覚し、自ら道具に堕ちた理性自身を解放し、理性の自律性の回復によって面目躍如とした批判的理性へと成らなければなりません。
全体的、体系的、絶対的真理という偶像崇拝を否定し、謙虚と誠実の中にあること。
ソクラテスがその批判的理性によって無知の知というより高次の知を獲得したように。
自分が偽善者であると自覚できる者のみが善人たりえるという視座を与えたシモーヌ・ヴェイユのように。
批判力はその批判の先にある人間の可能性への信頼を有するがゆえに、批判するのです。
批判なき絶対的真理を講ずる者は、人間への潜在的な不信をもつがゆえに、固定した偶像に頼らざるをえないのです。
「救済の保証は、救済を詐称するすべての信仰からの離反のうちにあり、認識は、狂気への告発のうちにある」(引用)