ホルクハイマーの啓蒙の弁証法(1)

※『啓蒙の弁証法』という本の要約ではなく、啓蒙の弁証法という概念の解説です。

論点

「なにゆえに人間は、真に人間らしい状態へ進む代わりに、一種の新しい野蛮状態へ陥っていくのか」(引用)
啓蒙という蒙(くら)きを啓(あき)らむ光によって、世界を野蛮な呪術と神話の桎梏から救い出し、人間社会は理性的な進歩を遂げるはずであったのに、なぜファシズムやスターリニズムのような蒙い野蛮へ堕ちこんでいくのか、という問いからはじまります。
人間は戦争や飢餓や抑圧のない世界が成就していてもおかしくないほどの知の力(科学技術文明)を持ったにもかかわらず、むしろ逆に社会化以前の自然状態、万人闘争の野蛮世界へ退行していくように見えるからです。

啓蒙

ここでいう啓蒙とはヨーロッパ18世紀の思想運動という狭義の意味ではなく、理性や文明など含むより広義の概念をさしています。
啓蒙とは、古代ギリシャにさかのぼる「世界の脱呪術化、脱神話化」の過程です。
それは近代において飛躍的に進展し、人間の母なる自然からの解放(主体化)とその自然の客体化により、自己同一性と自己保存を可能とする、デカルト的二元論やベーコン的経験科学の誕生です。
啓蒙の本質は、人間と自然が一体であった世界から主-客を分離し、人間(主体)による自然(客体)の支配を行うことにあります。

しかし、この人間による自然の支配は、やがて人間による人間自身の支配へと転化することになります。
「啓蒙の弁証法」とは、この啓蒙が野蛮へと転化する弁証法的過程をさします。

伝統的理論

デカルトやベーコンに代表される伝統的理論の本質は、見る者である主体と見られる物である客体的事物の分離です。

例えばある人間集団が、何らかの仕事に共同で従事していたとします。
皆が横並びの対等な関係にある中であーだこーだ言いながら、作業の目的を達成していきます。
しかしそれが合理的でないとして、最も頭の良い人物をリーダーとしてその集団を統率させ、より効率のいい方法で作業を進めることにします。
これにより見る者である観察者のリーダーと、見られる物である集団成員というヒエラルキーの関係が生じます。
チェスの指し手が盤の上から人駒を眺めるように、見る主体と見られる客体の構図です。
それにより集団成員の対象化やカテゴリー化が起こり、それらを秩序づけ統一し、構成を組み替えたり体系化や法則(形式)化が可能になり、最終的には数学的な操作も可能となります。
古代の壁画のように画面上に個々バラバラの対象が無秩序に広がった絵画から、透視画という固定した視点を頂きとしたパースのヒエラルキーの中に全対象が整頓されたルネサンス以降の絵画をイメージすると分かりやすいかもしれません。

主体(人間)は客体(自然)という素材を外から受容し、それを操作的に整頓・概念化し、今度は主体がそれを客体に適用し働きかけ、客体を個々の内容において変えていくことはできます。
しかし、伝統理論において主体と客体はあくまで平行する対立物であり、双方各々が自立的に自己を保存し、主-客の関係性そのものは決して変わることはありません。
これがいわゆる啓蒙の本質的な形です。

批判理論

この伝統的理論に対するものが、カント、マルクス、フロイトなどに代表される批判理論です。
批判理論の本質にあるものは、見る主体と見られる客体が互いを前提とする相即不離の関係性です。

カントにおいて客体とは主体の形式が生じさせるものであり、マルクスにおいて主体という上部構造は客体という下部構造によって予め既定されているものであり、フロイトにおいて主体とは取り込まれた無数の客体であり同時に客体は投影された主体の分身です。
いわば主体と客体が円環的に互いを規定し合っており、その批判(反省)的な自覚が様々な問題を解決するキーになるということです。
いわゆる主-客の弁証法的な形です。

道具的理性

伝統的理論の基礎にあるものは、客体的事物(経験と事実)への信頼です。
実証主義や科学主義など、現代にいたる社会の中で強い影響力を持つ考え方の根にあるのは、この経験のリアリティーです。
客体的事物を基礎としないものはリアルではなく、それは非科学的な観念論、主観的なものとして斥けられます。

しかし、先の批判理論は、客体やリアルな事実というものが、そもそも主体によってあらかじめ枠付けられている主観的なものであり、主体の認識活動そのものもある特定の社会的コンテクストの中で行われる相対的なものであることを暴き出します。
伝統的理論はそれに対して無反省なため、自分達の固定したパースペクティブの中にある箱庭世界から抜け出すことができず、なにかやっている風ではありながら本質的にはなんら変わらないものを延々と再生産し続ける万華鏡のようなものとなります。
理性はその本質である批判力を喪失し、たんに既定の枠内の操作を上手く行うための「道具的理性」に成り下がるのです。

そこでは客体的事物や主体の認識活動そのものの目的や意義を反省的にかえりみられる事がなくなり、全体的なものや根本的なものの方向性は問われず、ただ任意の現実的所与に対する受容と適応と再生産のみがその仕事となります。
より合理的なものを目指す伝統的理論が自己そのものに対しては無反省であるため、本当の合理を見誤り、むしろ不合理に陥ってしまうわけです。
他の意見を聴かない専門医の善かれと思って行った治療行為が、身心全体の影響を考慮しなかったがため、むしろ病気を悪化させるようなものです。

(2)へつづく