現象学の目的
現象学の目的は、私たちの目の前にあらわれる現象が一体どういう構造のもとで成立しているのかを解明することです。
それに先立って、捨てていただきたいひとつの先入観があります。
それは、まずはじめに世界(事物)があって、その情報が電磁波(光線)や空気の振動(音波)などの媒体を通って、私の眼などの感覚器官に入ってきて、現象が成立するという観念です。
太陽の光がリンゴに当たって、そのリンゴから反射する光が私の眼に入ってきて網膜に表象を生じさせる、という風な図式です。
多くの人々は、現象は世界や事物の方から私に向かってやってくるという世界観をもっています。
しかし、フッサールはこれを完全に反転させます。
まず、私の眼前にありありと現れている生きた直接体験が最初にあって、その直接体験から事後的に太陽やリンゴや光などの世界の事物は構成され現象として生み出される、というのです。
現象学の発想
例えば人類が宇宙空間に出て地球を実際に観る二千年も前から、地球が丸いことは知られていました。
古代の人は、水平線の湾曲や天球上の星の動きや影の長さなどの目の前にありありと現れる現象をデータとして構成し、地球は丸いということを推論しました。
そしてその推論的仮説はやがて自明の常識となり、皆が「丸い地球の一部が水平線の湾曲として私の前に現出している」と感じだす逆転現象が起きます。
丸い地球がまずあって、それが私の網膜に映り現象として現れているというわけです。
しかしそんなはずはありません、まず最初にあったのは水平線の湾曲という現象で、丸い地球はそこから生み出された仮設的構成物です。
デカルトの懐疑の本質もここにあります。
現象A、B、Cからそれを人間だと認識し近付いたら、「現象D-関節が球体である」が現出しそれが人形であったと気付きます。
しかし触れてみると「現象E-体温がある」が現出し、よく見るとそれは球体関節人形風特殊メークをしたモデルさんであったと分かります。
つねに世界にある事物は、私に現出する諸々の現象から推論構成された仮説的なものであり、懐疑の目を向ければ、無限に疑い続けることが出来ます。
地球が丸い証拠として宇宙から撮影した写真や映像を出しても、合成の疑いをかけられます。
現象を無数に集め、そこから帰納的にその本質「何であるか」を決定したとしても、現象は無限にあるため、それをくつがえす現象があらたに現れる可能性がつねにあるわけです(ポパーの項参照)。
用語解説
この私の外部に実在(丸い地球)が存在するという日常的な思い込みのあり方を「自然的態度」といいます。
そして現象の現われの構造を解明することに集中するために、とりあえずこれら自然的態度によって生ずる外部世界の諸々の事物を括弧()に入れてその影響を取り去ることを「エポケー(判断停止)」といいます。
実在は外部(客観)にあるという自然的態度から、実在(対象)は主観に現れるものから事後的に構成された仮設物であるという態度への引き戻しを「超越論的還元」といい、その超越論的還元によってえられた態度を「超越論的態度」、およびその根源的な直接体験の領野である主観を「超越論的主観性」といいます。
私が丸い地球というものを認識する時、その対象に向かう関心・視線のようなものを「志向性」といいます。
そして志向性の先にある対象(丸い地球という実在経験など)を「現出者」といい、その現出者を構成的に生じさせる純粋な現われ(湾曲する水平線という眼前の生きた光景など)を「現出」といいます。
直接体験される「現出」を集めて推論的に構成し、「現出者」が知的に経験されるのです。
非主題的に体験・感覚される「現出」を媒介物として、その先に主題的に経験・知覚される「現出者(対象)」が生じます。
(生ずる、構成するなどといってもそれは同時的で、時間的な意味ではなく過程の記述としていっているだけです)
この現出者が生ずる場面である志向的体験そのものが「意識」であり、有名な現象学のテーゼ「意識とはなにものかについての意識である」の意味内容です。
デカルト的な反省「我思う」によって主題的に見出される「意識」はたんなる「現出者(対象)」としての「意識」であって、フッサールのいう「意識」ではありません。
現象学的な「意識」とは、主題的に対象(リンゴ)を見ていると同時に、非主題的におのれがリンゴを見ているということをそこはかとなく感じている漠然とした自己意識です。
また、この意識の作用的・機能的側面を「ノエシス(志向作用)」、意識の対象的側面を「ノエマ(志向対象)」といいます。