フッサールの現象学(2)

(1)のつづき

基本の構造

前項でみた志向性や現出-現出者の関係は、私たちの世界のとらえ方のすべてを基礎付けています(注:「現出」は「射影」ともいいます)。

現出A「ドイツ皇帝」も現出B「フリードリヒ三世の息子」も現出C「ヴィクトリア女王の孫」も、各現出を媒介してその先に同じ対象「ヴィルヘルム2世」という現出者を(異なる様態で)志向します。
「イエナの勝者」と「ワーテルローの敗者」という別々の現出は、現出者「ナポレオン」という基体によってつなぎとめられるわけです。

図式化すると、「基体X(対象-現出者)」に無数の「諸特性ABC(様態-現出)」が帰属しているという形になります。
実体である主語に、属性である述語が付属するという、アリストテレスから現代にまで通ずる基本的な考え方と同様です。

以上のように「ノエマ(志向対象)」とは、ノエマ的意味である諸現出がひとつの基体に収斂するという形の構造体です。

数学と言語の基礎

この諸現出ABCをすべて剥がせば、何の意味規定も持たない純粋に抽象的な、何ものでもないもの「現出者X(エックス)」が残ります。
この純粋に形式的な抽象物が、数「一」という概念を成立させ、それの理念的な結合によって「数学」が可能となります。

逆に基体である現出者Xを剥ぎとれば、純粋な性質的成分である諸現出ABCのみが残ります。
リンゴでいえば、「赤い」「甘い」「固い」「丸い」などです。
この諸特性の抽象(抽出)によって、言語的な述語規定「意味」が可能になり、私たちの記述や口述(読む、書く、聞く、話す)が成立します。

時間と空間の基礎

仮に同一のノエマ的意味が複数の基体に収斂されたとします。
太郎くんが飼っている黒猫と、ケイトさんが飼っている黒猫はほぼ同じで見分けがつきません。
また、私が今飼っている三代目の黒猫は、私がかつて飼っていた最初の黒猫に似たものを選びました。

このノエマ的意味が同じであるにもかかわらず、各黒猫別々の個体として志向対象(ノエマ)に分けているものは何でしょうか。
それが「ここ」「あそこ」という空間性質と、「いま」「かつて」などの時間性質です。
いつ・どこで飼っていたかが、同じノエマ的意味(同特性)の黒猫を各ノエマ(対象)に弁別するわけです。

原的時間

私が何らかのメロディーを聴くとき、今この瞬間に現出している音の意味はその前後の音と関連してしか存在しえません。
そうでないと、ただバラバラの音が感覚されるだけでメロディーが生じません。
例えば、かえるの歌の「ドレミファミレド」のメロディーの「ファ」を聴いている瞬間にその前のミの音は物理的には消えていますが、私の中に保持されているからこそ「ファ」はメロディーとして現出できます。
過ぎ去りつつまだ生きている、彗星の尾のように消失しつついまだある過去です。

それと同時に「ファ」の後にくる音も、ある程度の枠内で予測され期待されています。
「ファ」の後に「ソ」がきて「ドレミファソ・・・」であったり、「ファ」の後に「ミ」がきて「ドレミファミ・・・」であったなら期待の枠内のメロディーです。
まさか「ファ」の後に2オクターブ高い「レ」がきて「ドレミファ15ma_レ・・・」になるなど誰も予期していません。

この原的な瞬間に現出していることを「原印象」、原印象より前に把み保持されていることを「把持(過去把持)」、原印象よりあとに予め期待されていることを「予持(未来予持)」と名付けます。
かえるの歌のメロディー「ファ」を聴くいま「現在」は、原印象的現出だけでなく、その前後の把持的現出と予持的現出が一体となってはじめて成立するものなのです。
ここでも現出A「原印象的現出」、現出B「把持的現出」、現出C「予持的現出」という諸現出を媒介として、「現在」の現出者が構成されるわけです。
この三つの契機が、流れつつも留まるという「生きた現在」の可能条件になっています。

そしてこの直接的な原的時間経験を、抽象化や数量化などによって理念的に無限の過去と無限の未来へと引き伸ばしたものが、いわゆる客観時間を成立させるのです。

原的空間

これは空間においても同じです。
いま、わたしの机の上の棚に財布が置いてあります。
ほぼ目の高さと同じため、それは漢数字の「一」に似た形体として現出しています。
すっと立ち上がり上から覗き込むと、それは一形から台形をへて四角形へなめらかに変化します。
「台形」が現出している時、その直前の「一形」が把持され、かつその直後の「四角形」が予持されているからこそ、原印象である今この瞬間の「台形」が、「財布を斜めから見下ろしたいち様態」であるという意味をもてます。
この「ヌッ」となめらかに変化する光景を生じさせる運動感覚を「キネステーゼ意識」といい、原的な空間経験ともいえるものです。
そして時間同様、この原的な空間を、抽象化や数量化などによって理念的に無限の拡がりとして引き伸ばしたものが、いわゆる客観空間を成立させるのです。

私たちは自然的態度によって素朴に、無限に拡がる客観的時間と客観的空間が存在しており、その中の「いま、ここ」という点において主観としてのわたしの私的空間が分配されていると思い込んでいます。
しかし、実際は私の根原的主観体験である原的な時間と空間を基礎として、事後的に客観時間と客観空間が構築されているのです。
この「客観時間-空間」がひとたび構築されると、それ以前の「原的時間-空間」は単なる「主観的時間-空間」として従属的な地位へ転倒され、その出自は隠蔽されることになります。

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