議論とは何か

人生/一般

議論の条件

議論を議論として成立させるためには、いくつかの条件があります。
本項ではそのうち特に重要だと思われるものを、いくつか取り上げます。
議論としての条件を満たさない議論は、口論や口喧嘩に近く、無意味で非建設的なものにしかなりません。
それどころか、叩けば叩くほど互いの釘は深く喰い込み、それぞれの意見の中にさらに頑なに閉じこもらせるだけのものに終わります。

その一、自分とは反対あるいは違う意見を持つ人と議論する

自分と同じ意見を持つ人たちを集めて議論しても、何の実りもありません。
それはうなずき合いの集団的自己満足にしかならず、意見として何の前進ももたらしません。
いわば鏡に向かって話しかけているようなもので、仲間を媒介としたモノローグ(独り言)に終わります。

当たり前すぎることですが、これが一番難しいとも言えます。
自分と違う意見と対決し、吟味し、取り込むことの心理的抵抗は、自分が思うよりはるかに大きいものです。
自分は進歩的な人間であると自認しつつ、反対意見をきちんと聞き入れるフリをしながら、その実まったく聴いていない人がよくいます。
違う意見を持つ者同士の対話がいかに有益かは弁証法の項を参照してください。

その二、明確な共通の目的(ゴール)をもつ

意見は対立しても目的は同じでなければ、議論は成立しません。
それもかなり明確にしておく必要があります。
一見、皆が同じ目的について議論しているように見えても、内実は全然違っていたりします。

例えば、「経営危機にある会社を立て直す方法を考える」というテーマで三人の人が議論していたとします。
a.今の会社を愛する生え抜きのAさんは、十年後も会社が存続しているような堅実な方策を提示します。
b.今の会社はあくまでも次のステップへの踏み台として考えているBさんは、とりあえず短期的にでも成果を挙げる危険な特効薬のような方策を提示します。
c.上司の前で自分の能力をアピールしたいだけの出世狙いのCさんは、会社の存続そっちのけで、とにかく議論で相手を打ち負かすことに終始し、ひたすらハリボテの方策とレトリックで自分の案を通そうとします。

こんな状態では、議論をしても何の実りもありません。
そもそもお互いの行き先(目的)が違うため、目的地への正しいルート(手段)の合意など生まれるはずがないのです。

例えば、インターネット上の議論が不毛な結果しか生まないのは、そもそも議論についての明確な目的の同意がないからです。
「論破」というほとんどネットスラング化した言葉が流行るのは、彼等が目的意識をもった議論ではなく、何ら共通に目指すべきものを持たない、ただの論理のラップバトルの場として、議論を利用しているだけだからです。

その三、言葉の定義を揃える

使用する言葉の定義が揃っていないと、そもそも議論になりません。
各人が持つ言葉の定義は本質的に異なっており(ソシュールの項を参照)、厳密に言うと人間は既存のコミュニケーションモデルのような言葉のキャッチボールはしていません。
人間のコミュニケーションは詩の読解に近く、出産の痛みを絶対に理解できない男性が骨折などとの類比で理解するような間接的な形で、なんとなく分かった風になっているだけです。
しかし、議論においては、可能な限り、その「なんとなく」や、詩的曖昧さを排除せねばなりません。

例えば、人権や平和や勇気に関わる問題を議論する前に、「人権」「平和」「勇気」という概念の定義を揃える作業をしておかねば、噛み合わないピッチの歯車を合わせようとするような徒労に終わります。
魚の定義を、進化論的解剖学的な内的構造に置く国の人と、外観や生態環境に置く国の人が、お互いの定義を知らないままイルカやクジラなどの海獣について語り合っても、決して意見は一致しません。
私とあなたが持つ「勇気」という言葉の定義は異なっており、私にとってはある場面における前進が勇気であり、あなたにとっては撤退が勇気となります。

その四、具体的に議論する

言葉というものは、具体的であればあるほど情報として精度が上がり豊かになり、抽象的であればあるほど何でも指し示すアバウトで貧しいものとなります。
具体的な言葉を使うことは、その分、責任も重くなり、抽象的に誤魔化せば、責任は軽くなります。
例えば、命を預かる責任ある医者は、病因に対して具体的な説明をするのに対し、常に責任逃れを考えている政治家は、具体的な政策ではなく抽象的な説明に終始します。
医者は本気で治療を考えているので、病因を具体的にする必要があるのに対し、政治家は本気で国民の事を考えていないので、可能な限り抽象的に話し自己保身をはかります。

議論においても同様、抽象的な議論だと、議論しているようで何もしていない格好だけのものに終わります。
「顧客満足の向上」と言う言葉を使う人がいれば、その内容を徹底的に問い、顧客とはどの範囲を指すのか、満足とはどういう状態を指しているのか、向上とは負を無くすことか正を足すことか、等、具体化させることによって、はじめて実りある議論となります。
多くの場合、この具体化の作業に耐えられず、漠然と何の考えもなしに言葉を使っていたことに気付きます。
先の無責任な政治家のように、本気で議題について考えていないことがバレてしまいます。

その五、時間をかけて継続的に議論する

議論を議論たらしめるものは時間です。
充分に考える時間を用意しない議論は、ただの意見の発表のしあい、プレゼン合戦の意味しか持ちません。
相手からの刺激に対し、ただ今まで自分が考えてきたことを機械的な反応としてレスポンシブに晒しあうだけの、何の前進もない議論です。

また、時間のない議論において勝つのは、より正しい方ではなく、相手を黙らせた方です。
逆説や極論や自己言及や論点ずらしのような議論をもつれさせるレトリックによって、相手の頭を「???」にして黙らせれたほうが勝ってしまうのです。
ぐしゃぐしゃにしてもつれさせるのは一瞬で出来ますが、それをほどくにはかなりの時間を要します。
早指し将棋のような考える時間のない議論では、深く思考できる者より、条件反射的な思考のボキャブラリーと幼稚なレトリックを駆使し、場の時間を制する者が強くなってしまいます。

また、議論は一回で終わらせるものでもなく、継続的に議論の場をもうけ、宿題として考える時間を与え、言説を折り重ね続ける必要があります。
時間、継続、回数があるからこそ、議論は進展します。
お互いが意見を対決させ、自分の意見に対するクリティカルな批判がでた時こそが、議論の本当のはじまりなのです。
時間のない議論では、このはじまりが終点になってしまうのです。
反対意見と自分の意見を照らしあい、じっくり考え、さらに高次な意見へと昇華し、その上で再度争うという、その繰り返しによってしか、議論は実を結びません。

その六、意見そのものを議論の主役にする

議論においてもっとも大切なものは、意見そのものです。
自分のプライドや羞恥心や負けん気は、ただ自分の目を曇らせ、相手の貴重な意見を得る機会を失うことにしかなりません。
議論において勝ち負けという概念は、一番どうでもいいものです。

重要なのは、自分の意見より相手の意見の方が有益ならば、それを迷うことなく捨てられる、真理への開かれた姿勢です。
たとえ自分の意見が打ち捨てられてしまったとしても、それはロケットが宇宙へ飛び立つときに切り捨てられるエンジンと同じで、それがあるからこそ次の意見へとつながっていくものです。
それは結果へ到達するための最も重要な過程です。
最終的な意見というものは、その裏側に無数の意見を背負って成立しているということを知らねばなりません。
ただ単に最終的に見える部分(ロケットの先端)だけを重視するのは、ロケット(議論)の構造を知らない素人だけです。

有益な議論に向けて

きちんと議論の条件を整え、実りあるものにしなければ、やがてみな議論に対する信頼を失います。
現在インターネット上に溢れる議論のイメージ、「議論はどんな手段を使ってでも勝てばいい。なぜなら真理が勝つのではなく、勝った者が真理になるからだ」という、古代ギリシャ以前の幼稚な詭弁術に逆戻りしてしまっています。

「真理など相対的なものだから議論なんて無意味だ、だから勝った者が真理になる」
そんな訳はありません。
相対的なのは真理ではなく、目的の方向性と各人の使う言葉の定義です。
議論する各人の目的の方向性と言葉の定義を明確に合致させれば、意見は必ずひとつの方向へ収斂します。

議論において最終意見がバラバラ(相対的)になるのは、明確にかつ具体的に目的や定義が設定されていないからです。
当たり前の話、問題設定が曖昧であればあるだけ、対立する無数の解が存在することになってしまいます。
答えが出ないのは、問題の立て方が悪いためです。

 

おわり