議論とは何か

人生/一般

議論の条件

議論を議論として成立させるためには、いくつかの条件があります。
本項ではそのうち特に重要だと思われるものを、いくつか取り上げます。
議論としての条件を満たさない議論は口論や口喧嘩に近く、無意味で非建設的なものにしかなりません。
それどころか、叩けば叩くほど互いの釘は深く喰い込む様に、むしろそれぞれの意見の中にさらに頑なに閉じこもらせるだけのものに終わります。

一、自分とは反対あるいは違う意見を持つ人と議論する

自分と同じ意見を持つ人たちを集めて議論しても、何の実りもありません。
それはうなずき合いの集団的自己満足にしかならず、意見として何の前進ももたらしません。
いわば鏡に向かって話しかけているようなもので、仲間を媒介としたモノローグ(独り言)に終わります。

当たり前すぎることですが、これが一番難しいとも言えます。
自分と違う意見と対決し、吟味し、取り込むことの心理的抵抗は、自分が思うよりはるかに大きいものです。
自分は進歩的な人間であると自認しつつ、反対意見をきちんと聞き入れるフリをしながら、その実まったく聴いていない人がよくいます。
(違う意見を持つ者同士の対話がいかに有益かは弁証法の項を参照してください)

二、時間をかけて継続的に議論する

議論を議論たらしめるものは時間です。
充分に考える時間を用意しない議論は、ただの意見の発表のしあい、プレゼン合戦の意味しか持ちません。
相手からの刺激に対し、ただ今まで自分が考えてきたことをレスポンシブに晒しあうだけの、何の前進もない議論です。

また、時間のない議論において勝つのは、より正しい方ではなく、相手を黙らせた方です。
逆説や極論や自己言及や論点ずらしのような議論をもつれさせるレトリックによって、相手の頭を「???」にして黙らせれたほうが勝ってしまうのです。
ぐしゃぐしゃにしてもつれさせるのは一瞬で出来ますが、それをほどくにはかなりの時間を要します。
考える時間を与えない議論では、深く思考できる者より、2ちゃんねる的な幼稚なレトリックを駆使する者が強くなってしまうのはそのためです。

昔のフランスのカフェのように、三日三晩徹夜で議論し合うような時間が必要なのです。
あるいは議論は一回で終わらせるものではなく、継続的に議論の場をもうけ、宿題として考える時間を与え、言説を折り重ね続ける必要があるのです。

喩えるなら、議論の理想の形は、ジャンプ漫画です。
ライバルがおり、片方が勝負に勝つ。
負けた方は修行をして強くなり、やり返す。
そのやってやり返される応酬の中で、互いは強くなっていき、やがてライバル同士は意気投合し、仲間になり、力を合わせてもっと強大な敵と戦います。
飽きもせずにその繰り返しです。
これができるのは、ジャンプが連載漫画(週刊)だからです。
時間性と継続性と回数性があるからこそ成り立つ成長物語です。

お互いが意見を対決させ、自分の意見に対するクリティカルな批判がでた時こそが、議論の本当のはじまりなのです(主人公が負けることが物語の幕開けです)。
時間のない議論では、このはじまりが終点になってしまうのです。
反対意見と自分の意見を照らしあい、じっくり考え、さらに高次な意見へと昇華し、その上で再度争うという、その繰り返しによってしか、議論は実を結びません。
考える時間のない議論は対話ではなく、知識のファッションショーです。

三、自分と同じ目的を持つ人と議論する

意見は対立しても目的は同じでなければ、議論は成立しません。
それもかなり明確にしておく必要があります。
一見、皆が同じ目的について議論しているように見えても、内実は全然違っていたりします。

例えば、「経営危機にある会社を立て直す方法を考える」というテーマで三人の人が議論していたとします。
a.今の会社を愛する生え抜きのAさんは、十年後も会社が存続しているような堅実な方策を提示します。
b.今の会社はあくまでも次のステップへの踏み台として考えているBさんは、とりあえず短期的にでも成果を挙げる危険な特効薬のような方策を提示します。
c.上司の前で自分の能力をアピールしたいだけの出世狙いのCさんは、会社の存続そっちのけで、とにかく議論で相手を打ち負かすことに終始し、ひたすらハリボテの方策とレトリックで自分の案を通そうとします。

こんな状態では、議論をしても何の実りもありません。
そもそもおたがいの行き先(目的)が違うため、目的地への正しいルート(手段)の合意など生まれるはずがないのです。

例えば、インターネット上の議論が不毛な結果しか生まないのは、そもそも議論についての明確な目的の同意がないからです。
「論破」というほとんどネットスラング化した言葉が流行るのは、彼等が目的意識をもった議論ではなく、何ら共通に目指すべきものを持たない論理のラップバトルの場として、議論を利用しているだけだからです。

四、意見そのものを議論の主役にする

議論においてもっとも大切なものは、意見そのものです。
自分のプライドや羞恥心や負けん気は、ただ自分の目を曇らせ、相手の貴重な意見を得る機会を失うことにしかなりません。
議論において勝ち負けという概念は、一番どうでもいいものです。

重要なのは、自分の意見より相手の意見の方が有益ならば、それを迷うことなく捨てられる、真理への開かれた姿勢です。
たとえ自分の意見が打ち捨てられてしまったとしても、それはロケットが宇宙へ飛び立つときに切り捨てられるエンジンと同じで、それがあるからこそ次の意見へとつながっていくものです。
それは結果へ到達するための最も重要な過程です。
最終的な意見というものは、その裏側に無数の意見を背負って成立しているということを知らねばなりません。
ただ単に最終的に見える部分(ロケットの先端!)だけを重視するのは、ロケット(議論)の構造を知らない素人だけです。

有益な議論に向けて

きちんと議論の条件を整え、実りあるものにしなければ、やがてみな議論に対する信頼を失います。
現在インターネット上に溢れる議論のイメージ、「議論はどんな手段を使ってでも勝てばいい。なぜなら真理が勝つのではなく、勝った者が真理になるからだ」という、古代ギリシャ以前の幼稚な詭弁術に逆戻りしてしまっています。

「真理など相対的なものだから議論なんて無意味だ、だから勝った者が真理になる」
そんな訳はありません。
相対的なのは真理ではなく、目的の方向性です。
議論する各人の目的の方向性を明確に合致させれば、意見は必ずひとつの方向へ収斂します。

議論において最終意見がバラバラ(相対的)になるのは、明確にかつ具体的に目的を設定していないからです。
当たり前の話、問題設定が曖昧であればあるだけ、対立する無数の解が存在することになってしまいます。
答えが出ないのは、問題の立て方が悪いためです。

 

おわり

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