感想とは何か

人生/一般

はじめに

「それってあなたの感想ですよね」という言葉が、2022年末発表の小学生の流行語ランキング1位となりました。
ちなみに、この言葉の後には「なんかそういうデータあるんですか?」が、続きます。
これは2015年の討論番組における西村博之氏の発言ですが、2020年4月ごろからグーグル検索数が急上昇し、2022年末にピークに達しています。
コロナ禍(2019末~2023)に生じた大人の流行語「エビデンス(証拠)」が俗化する過程で掘り起こされ、利用されたものと推察されます。
当頁で述べる「感想」とは、そういう特殊なものを指します。

感想とデータの意味するもの

「正しさ」には、理論としての正しさと、事実としての正しさがあります。
この二つが揃って、はじめて本当に正しいものであると認められます。
理論的に正しくても、事実において正しいかが検証(つまり実証)されなければ不完全です。
反対に、事実としての正しさは理論がなければ意味をもちません。
建築設計図がなければ建材はただの土砂にすぎないように、理論なき事実はただ混沌とした何ものでもないガラクタの集積です。

先ず仮説的な理論があって、それを客観的事実によって検証するというのが、科学的な正しさを決定する手続き(実証)です。
「それってあなたの感想ですよね。なんかそういうデータあるんですか?」を言い換えるなら、「それって主観的仮説ですよね。なんか客観的証拠あるんですか?」となります。
ディベート(議論)において相手の理論に論理的な誤りがある場合、そこを突けば「理論としての正しさ」を崩すことができ、相手の仮説の誤りを明らかにすることができます。
しかし、相手の仮説に理論的正当性がある場合は、次の段階に移り、客観的証拠を求め、「事実としての正しさ」を争うことになります。

データはある方が珍しい

つまり、データやエビデンス(つまり証拠)を求め反論する時、相手の理屈そのものは概ね認めているということです。
「あなたの言い分、理屈としては分かるけど、証拠ないなら無効だよ」と、言いたいわけです。
そこには、検証されていない仮説を乱暴にすべて無効にしようとする、強迫観念的な極論思考が見えます。
証拠のある仮説(実証済みの理論)など、ごくごく限られています(そもそも実証そのものが仮説的なものであり、厳密に言うと世界には仮説しかありません)。
普通、証拠のある仮説は世界に僅かしかないということを理解した上で、それがありそうな領域に関してのみ証拠を求めます。
どんな下らない仮説にでも証拠を求めるのは、当人の幼稚さと議題に対しての無理解を示すことになるだけです。

例えば、遅刻してきた生徒Aに対し教師が「クラスのやる気を削ぐ。皆の為にも時間通りに来い」と叱り、それに対し生徒Aは「それって先生の感想ですよね?なんかそんなデータあるんすか?」と反論したとします。
勿論、こんなデータがある可能性は低いでしょう。
学者は暇ではないので、重要な理論しか検証しません。
世界中にある無数の命題の九割九分九厘以上、実証されていません。
「生徒個人の遅刻がクラス全体の学習意欲に及ぼす影響」などという、どうでもいい些事を研究する人は稀でしょう。

データは自分で集めるしかない(その一)

仮にそういう研究とデータが存在したとしても、学問は基本的に一般論なので、個人には当てはまりません。
個人の仮説はその個人自ら検証するしかないのです。
クラスの優等生が遅刻をするなら、遅刻の原因が「講義のつまらなさ」に帰属される可能性があり、周囲の生徒の学習意欲が削がれてもおかしくはありません。
反対に、のび太君のようなクラスの劣等生の遅刻であれば、遅刻の原因は「本人のだらしなさ」に帰属される可能性が高く、あまり影響がないかもしれません。
生徒A君は、自分の遅刻がクラスのやる気を削いでいるかどうかのデータ(証拠)を先生に求めても意味がありません。
自分自身が遅刻することを止め、それによってクラス全体の成績が上がったなら、先生の呈示した仮説は正しかったのだと実証され、上がらなければ反証されます。

データは自分で集めるしかない(その二)

基本的に人は他人に仮説を提供しているのであり、親切に真理(仮説と証拠のセット=実証された仮説)を提供してはくれません。
喩えるなら、飲食店にクレーム(改善の要求)を入れるお客さんのようなものです。
お客さんに、従業員の接客態度に関するクレーム(批判的命題)を与えられた場合、優秀な店長であれば、自らその命題の証拠を集め、それが実証されたなら、従業員を指導し、サービスの品質向上に努めます。
しかし、自分のことしか考えていない無能でプライドだけが高い店長は、「なんか、そんな証拠あるんすか?」と、高慢な態度でお客さんのクレームに対応するでしょう。
他人にデータを求め、それが無いなら無効という喧嘩腰の態度そのものが、自分の保身だけを考え、真摯に議題に向き合っていないことの証しになります。

生産的な人であれば、相手の仮説に証拠を求めるのは、「証拠付きであれば、なお助かります!(自分で調べる手間省けてラッキー)」程度のもので、証拠が呈示されない仮説でも基本的に議題や自説の改善のためのヒントとして受け取ります。
相手の仮説を無かったことにするために証拠を求めるようなセコイ真似はしません。
勿論、クレーマーのように悪質で破壊的な批判(というか誹謗中傷、名誉棄損)を行う者である場合は、証拠を求め、その批判の無効性を明らかにするべきでしょう。

データを書き換えてしまう人間というバグ

自然科学的な領域(物理学や生物学など自然現象を扱う領域)であれば、データ(証拠)は必須です。
エビデンス(証拠)を用いない医者はヤブ医者です。
しかし、社会科学的な領域(人間および社会現象を扱う領域)において、データは自然科学ほどの強い拘束力を持ちません。
それは、単純に自然科学に比べ人間的事象は証拠が集めにくいということではありません。
人間自身が媒介となり仮説を元にして証拠を書き換えてしまう、という問題です。

社会学者のマートンはそれを「自己成就的予言」と呼び、証拠(根拠となる客観的状況)のない偽の命題を、真理(証拠ある真の命題)であると信じた人間の行動が、証拠(客観的状況)そのものを作り出し、その命題を実現してしまうことがある、というものです。
逆に、証拠のある命題を信じない人間の行動が証拠そのものを壊してしまい、その命題が実現されないことを「自己破滅的予言」と言います。

引き出したい人全員に支払う金がない銀行なら、破綻する(法則)
A銀行は引き出したい人全員に支払う金がない(状況)
よって、A銀行は、破綻する(結論)

実際は支払い能力があり、上の複合命題が「偽」であったっとしても、このうわさ(偽の命題)を聴いた人々が銀行に殺到し、健全な支払準備率を超える引き出しが生じた場合、状況が真になり、結論が実現されてしまいます。

証拠(客観的状況)が安定している自然科学と異なり、人間的事象を扱う社会科学においては、仮説そのものが人間を媒介とし証拠を変動させてしまうため、社会科学的な予測が困難であることを述べたのが、ポパー(科学哲学)の「オイディプス効果」です。

データのない感想の合理性

ウィリアム・ジェームズは、証拠のない仮説を信じない合理主義者は、むしろ不合理であるといいます。
自身で証拠を書き換え、証拠のないはずの仮説を自ら実証してしまうのが人間なのであれば、人間にとって有益な”証拠のない仮説”は信じ、人間にとって無益な仮説(証拠の有無関わらず)は信じないという選択が、最も合理的だからです。
マートン風に言えば、良い予言は自己成就させ、悪い予言は自己破滅させることが、最も合理的な選択です。

証拠のない仮説を信じない合理主義者は、自らこの可能性(根拠なく信じることによって実証される仮説)を一切合切捨ててしまう不合理な選択をしてしまっているということです。
これは、AIの問題ともかかわってきます。
データからのみ求められた合理性に従い、人間の行動を決定すれば、この合理主義者と同じ過ちを犯すこととなり、人間の多くの可能性は失われ、人類は非常に狭い箱庭世界に永久に閉じ込められることになります。

むすび

テレビやネット番組などで為される議論は、相手の理論理屈を打ち負かした方が勝ち、というようなラップバトルとしての議論であり、ただのエンターテイメントです。
両陣営、真剣に議題に向き合っているわけではなく、自分の自尊心のみに向いています。
2015年の西村博之氏の発言は、その手の番組で為されたものにすぎません。
人々も、「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」という言葉を、概ねそういう文脈(ラップバトル)で使っています。

しかし、これまで述べたように、問題に真剣に向き合っている人であれば、証拠のない仮説であっても、その有益性を検討し、有益であればそれを活かすという方法を採るはずです。
お客さんから証拠のないクレーム(批判的仮説)があった際、それが有益なものであれば、証拠が提示されなくても自身で証拠を探し実証する、あるいは証拠が無いような事象であっても実際に(自己成就可能な仮説かどうか)試して自ら検証する、立派な店長になるということです。

 

おわり