スピノザの『エチカ(倫理学)』(2)精神と認識

(1)のつづき

真理観

現実のすべてが必然の連鎖であるのなら、平行論的に、それに伴う観念もすべて真なる観念となります。
では、偽なる観念とは、一体何なのでしょうか。
それは人間精神が、不可能なもの(ありえないもの、必然でないもの)を、想像知(臆見のような主観的な認識)によって必然と勘違いする時に生ずる観念です。
スピノザにとっては、真偽にしろ、善悪にしろ、それは世界の中に存在するのではなく、あくまで個々人に与えられた個別の状況下の中にしかないものなのです。

真理の規範は事柄の必然性にあり、真理とは私の観念がその規範(必然)をどれだけ有するかの問題であって、私の観念が現実の事物と対応しているかなどという既存の真理観(真理の対応説)だけでは不十分なのです。
なぜなら、真理の規範を現実の事物とした場合、その現実の真正性を保証するものを別に立てなければならなくなるからです。
それは、スピノザの全てはひとつの汎神論の世界に、外部の他者を措定することであり、神より偉い神を無限後退的に無数に産出することになります(アリストテレスのイデアのイデアの問題提起と同じ)。
例えば、「地球は丸い」という現実を一体何が保証するというのでしょうか。
私にとってはメディアの映像や宇宙飛行士の証言を通して見ただけの丸い地球であって、デカルトの懐疑のように、それがフェイクであると疑うことはいくらでも可能なわけです。
そうではなく、私が「地球は丸い」という観念を持つとき、それが現段階で開示されている事物(情報)において必然的だ(そうとしか考えられない)からこそそれは真なる観念なのであって、真理の規範は現実対象でも超越的なイデアでもなく、私の内にあるのです。

内的に真理の判定基準を持っているからこそ、そもそも外的現実の何をどう観察すれば、観念や経験の真理性を確保できるかが分かるのです。
水平線の湾曲と星の動きから、地球は丸いことが真理(必然)だと判定できるのは、この規範があるからであって、もしこれがなければ、水平線の湾曲も、星の動きも、地球は丸いことも、すべては可能性の混沌の海のなかにたゆたい存在するだけの靄のようなものになります。
ただの虚構と科学的な仮説との違いは、この真理規範を明確に意識して観念や経験を組み立てているかどうかの違いです。

精神の本性

では、「延長の属性」と「思惟の属性」がつながるスピノザの心身平行論的な世界において、倫理の基盤になる人間の精神の構造は、一体どういうものなのでしょうか。
『観念の秩序と連結は、物の秩序と連結と同じである(引用)』と言われるように、人間の延長の属性である身体と思惟の属性である精神が、同じものの別の様態によるあらわれであるわけです。
精神に生ずる変化は即、身体のそれと対応しているということは、すなわち、外部の事物によって身体の受けた変化を精神が認識するということです。

精神の本質はものを認識することですが、スピノザにとって認識とは、外部の物体を認識することではなく、身体の変様の認識であるというのです。
非常に単純化していうと、私がバラの赤を美しいと感じる時、私の精神が認識しているのは、外部にあるバラの赤ではなく、網膜にあたった電磁波による身体の変様です。
私がビロードの布をなでて心地よく感じる時、私の精神はビロードを認識しているのではなく、私の指先の細胞の小さな変様を認識しているのです。
精神は身体の変様の認識をとおして、外界の事物をも同時かつ間接的に認識するのであり、この相関性「精神=身体×外界」があればこそ、精神は外的事物や身体だけでなく、精神自身(思う我)をも反省的に認識できるのです。
比喩的にいえば、カメラに写った画像のパースのつき方によって撮影者の位置を正確に把握できるように、私はこの相関性の中で非主題的かつ反省的に(そこはかとなく)精神自体を認識しています。
もし、外的事物の認識が直接的に精神に与えられるなら、透明で反省する余地のない自己意識は、意識されることはありません。

スピノザはこの認識というものを、三つのカテゴリーに分けます。
受動的で非論理的なたんなる経験の受容としての個人的認識である「想像知(imaginatio)」。
能動的に秩序付けながら身体の変様をとらえ、普遍的な共通概念を認識する「理性(ratio)」。
その上位にあり、神の本質において物の本質をとらえる完全な認識「直観知(scientia intuitiva)」。

想像知と理性

想像知とは日常的な経験の認識を指し、受動的にただ受けいれるだけの知のあり方です。
基本的にこれは常に虚偽の認識でもあります。
先述のように、認識(身体の変様の観念)とは「外界×身体」で形成されているのであって、それは身体の本性と外的事物の本性を同時に含んでいます。
だから、たんに受動的に認識物を受けいれるだけでは、身体や外界の本当の姿を知ることが出来ず、必然的に虚偽の認識となってしまうのです。
身体の変様の観念と外的事物の観念の各々の影響を考慮しその影響を除去することによって、各々の正しい認識が得られるのです。

たとえば、単純に受動的な認識として空を見れば、太陽より月の方が大きいことになります。
この感覚自体に誤りはないのですが、認識としては誤っている、これが「想像知(虚偽の観念)」のありかたです。
そこで、正しい認識のためには、身体と外界の本質を考慮し、その影響関係を把握し、能動的に認識を秩序付ける必要があります。
「想像知としてはそう認識してしまうが、私から月と太陽の距離は400倍ほど違うため、実際には太陽の方がはるかに大きい」と、いうように。

このように能動的にとらえる認識のはたらきが「理性」であり、理性がとらえる観念は、万人共通の普遍的な認識になります。
例えば、お台場の観覧車が網膜に映る視直径(身体変様の観念)は、それぞれ個人の立ち位置よって変わる想像的な認識ですが、それを身体と外界の関係を考慮した認識で理性的にとらえれば、誰もに共通の普遍的な観念「直径100mの観覧車」の認識がえられます。
「真の観念とはその対象との一致(引用)」であり、想像知がえた観覧車の観念はその対象と一致しておらず「偽(不可能)」であり、理性がえた観念はその対象と一致しており「真(必然)」であるのです。
身体の変様の観念(認識)から、身体の観念と物体の観念を区別し秩序づける能動的な精神独自の働きが、万人共通の十全な観念をもたらすのです。

想像知は身体の変様をただ漠然と受容するだけですが、理性は身体と諸物体の関係性においてそれをとらえ、共通のものを認識します。
共通のものなしに諸事物の相互関係は成立せず、相互関係をとらえるということは、身体の変様(認識)をその原因から理解するということです。
原因から認識するということは、すなわち、ものの必然性の認識でもあります。
真理とは必然性の認識であるということは、前項でも詳しく述べました。

直観知と神の認識

理性とは必然性の認識であり、すなわちそれは神の本性の認識でもあります。
前々項において挙げたRPGゲームの例において、必然性を知らず自由という名の無知の中で生きていたプレーヤーである私は、理性という必然性の認識によって、その世界を動かすルール(必然)を知れば、徐々にクリエーター(神)に近付いていくことになります。
人間にとって神さまの認識とは、「ヒゲを生やし杖を持った柔和な顔をしたおじいさん」などではなく(それは主観的な想像知)、理性的な必然性の認識によってのみかなうものなのです。

例えば、物理学者が世界を動かす必然性のルールを発見し、あまりにもよくできているこの世界というものに驚嘆する時など、そういうものが神の認識なのです。
諸物の底に流れ、自他を相互に結び付けているこの共通普遍なるもの、それが神なのです。
この普遍の認識こそが「永遠の相のもとに」事物を見るということであって、これが先に述べた第三の認識である「直観知」です。

真理はいま以前のいつか、ここ以外のどこかにあるものでもなく、私の外部にあるのでもなく、つねにすでに私の中にあります。
真理とは理性による十全な認識そのものであり、外部にその規範があるのではありません。
外部に真・偽の裁定を求める精神は、裁定者の裁定という無限の懐疑に陥り、デカルトのようなレトリックによる誤魔化しによってそれを乗りきるしかなくなります。
真理とは彼岸にある何かしらの積極的な求心力をもつものではなく、懐疑の欠如(疑いようのない)という形の当たり前においてある此岸のものなのです。

(3)につづく