スピノザの『エチカ(倫理学)』(1)神即自然

神即自然

「神即自然」というスピノザ哲学の有名なフレーズは、彼の汎神論を言い表わしたものです。
汎神論とは事物の汎(すべて)が神であるという考え方です。
現実を超越した場所に人格神がいて、その神が自由意志によってこの地上(現実)を作ったということではなく、神は現実の事物に内在しており、あくまで事物は神が姿を変えてあらわれた別様態だという一元論的考え方です。

例えば、粘土の塊で精巧なジオラマを作ったとします。
山や街、車に人、食卓の上のリンゴや塀の上の猫まで、粘土を変形して精緻に作ったそのジオラマを私たちが生きる現実の世界と喩えるなら、その根本にある変幻自在の存在そのものともいえる得体の知れない粘土塊(存在X)が、汎神論的な神のイメージです。
リンゴはリンゴであると同時に、姿を変えた神でもあるのです。
もちろんそれは自然物に限ったことではなく、アインシュタインが感動した宇宙法則のような摂理や、生きていることそのものに対しての不思議の底にある存在そのもの、それらすべてが神の表われであるわけです。

伝統的な哲学においては個物も被造物も実体(それ自身において存在するもの)であったわけですが、スピノザにおいて実体は神のみです。
それ自身において存在し、その存在のために他の何ものも必要としない完全自立の存在です。
それに対して個物(有限な存在者)は、他のものに限定されることによって成立し、相互関係の対立の中でのみ存在できるものです。
黒は白との対立(限定)によってはじめて存在ができ、内は外との対立がその成立条件です。
個物である有限者は神である無限者(実体)のいち様態でしかないため、あくまでそれは相対的な装飾であり実体ではありえません。

神が真に絶対であるためには、神は万物に内在するものであらねばならず、もし人格神のように現実から超越するものを立ててしまえば、神は現実に対する相対的なものになり、完全でも実体(それ自身において存在するもの)でもなくなってしまいます。
また、人格神が自由意志によって天地を創造したりしなかったりすることは、別の世界の可能性、いわば偶然や恣意性を意味し、必然的存在である神として矛盾します。
神の活動に自由意志など介在する余地はなく、それは神を擬人的に見てしまう人間の想像でしかありません。
仮に三角形が神を知ることができるなら、きっと神は三角の形をしていると言うでしょう。

神(自然)の構成

この万物に満つる汎(すべて)である神を質的に規定するものが「属性」です。
本来神は無限に多くの属性によって成り立っているのですが、有限である人間によってとらえられるのは「思惟の属性」と「延長の属性」というたったふたつの属性のみです。
分かりやすく言えば、「心」と「物」です。
カント哲学のように人間にとらえられる世界は、人間の知覚能力に事前に限界づけられているわけです。

この属性を形式(フォーマット)として捉えるなら、その形式内で具体的に個々の差異を生じさせるものが「様態(変様)」です。
目の前にある「リンゴ」は独立した存在者ではなく、神という唯一の「実体」が人間の延長の「属性」において捉えられた個別的な「様態(変様)」であるということです。
「実体(存在そのもの)」→「属性(それを表す形式)」→「様態(その形式内の個々の内容)」です。
リンゴというものが、神の表われであるのです。

あらゆる有限存在は別の有限存在によって限界づけられ規定されており、かつそれら有限存在は根底でひとつの無限存在(実在・神)につながっています。
そのため、これは必然的に機械論的決定論のような世界となります。
空間的にいえば個々の事物はパズルのピースのように隙間なく互いを限界づけあい存在し(ソシュールの項参照)、時間的にいえばルーブ・ゴールドバーグの機械のように原因結果の作用の連鎖によってひとつの実在(神)という世界の枠の中で物事が進行していきます。

これは勿論、延長の様態(物の世界)においてだけでなく、思惟の様態(心の世界)においてもあてはまります。
意志の自由は否定され、私の持つ意志はたんなる実体(神)のいち様態としてその必然が表れているものでしかありません。
「いまリンゴを食べたいが、弟が帰ってくるのを待って、半分こして食べよう」という私の意志は、神の表われです。
私がこの思惟に意志の自由を感じるのは、ただ私が全体としての世界(無限)を把握できない有限存在であるがゆえに勝手にそう考えてしまうからです。

たとえばドラクエのような冒険ゲームをするとき、私は自由に選択決定する意志によって冒険を楽しんでいるかのような錯覚を覚えます。
しかし、ゲームの全体を完全に知るゲームプログラマーは、私の冒険が事前に仕組まれた必然的な工程を機械的に巡っているだけだということをよく知っています。
一度クリアしてしまった冒険ゲームが面白くないのは、私もその世界の全体を概ね把握してしまったため、ほとんどが必然になり、冒険の醍醐味である自由意志という錯覚を味わうことができなくなるからです。

しかし、人間は有限存在であり、完全に全体を把握することができないため、自由意志という錯覚から逃れることはできません。
意志と目的と価値は三つ揃い一式で、古代から中世にかけて思考の枠組みであった目的論を構成します。
スピノザにとってこれら意志も目的も価値も、すべて有限存在である人間独自の想像の産物であり、それは三角形が三角の神を見たように、人間の有限性を無限である実在(神)に投影しているだけのものでしかありません。

世界観

スピノザ以前の世界観というものは、概ねプラトンに代表されるように現実の世界と理念の世界を別々のものとしてとらえます。
しかし、スピノザにおいては理念も現実も同じ実在(=神)を別々の属性で表すものでしかありません。

仮に神を川に喩えるとします。
私の目の前の川は、「光」と「音」という別々の形式で私に捉えられます。
光と音というものはあくまでそれぞれ別の位相にあり、互いに自立しており、交わることのない並行関係にあります。
しかし、そうでありながらもそれらは対応し、同じひとつの川を別々の形式で表わしています。
光の形が大きく変化の緩やかな時(悠々と流れる)は、音はそれに対応し穏やかで静かな音になります。
の形が細々として変化の激しい時(轟々と流れる)では、音はそれに対応し騒々しくうるさい音になります。
このように、理念の世界も現実の世界も、それぞれ「思惟の属性」と「延長の属性」の自立的な平行関係にありながら、かつ共時的につながっています。

スピノザの真理観というものも、前項の神即自然の汎神論同様、観念と現実が一体となった自己充足的なひとつの世界のみが存在するということになります。
勿論、人間はそのごく一部しか把握できませんが。
世界の部分である<樽の中に猫がいる>という物体的な現実と、「樽の中に猫がいる」という真なる観念は、対応しているかどうかということではなく、端的に同じひとつのものの別々の属性の形式による表現でしかありません。

<風が吹く→樽が転がる→猫が飛び出す>という物体的な現実の因果は、「風が吹いたから樽が転がって、(そのせいで)猫が飛び出した」という原因-結果の観念とシンクロしています。
風が吹くの先にある原因の<気圧配置>や、飛び出した猫の先にある結果<驚いた人が自転車でこけた>という現実は、延々とたどることができ、原因-結果の幾重にも重なった複雑な網の目のような物体的現実空間と、それと同期する、すべての真なる観念によってつなげられた無限知性とがあるのです。
そして、この「延長の属性」の全体と「思惟の属性」の全体が、「神」なのです(厳密には神のあらわれ)。

(2)へつづく