スピノザの『エチカ(倫理学)』(3)感情

哲学/思想

 

(2)のつづき

 

感情の三要素

ものが動くことや、存在が自己の存在を維持しようと努めることなど、世界を動かしている根源的な活動力を、スピノザは「コナトゥス」と名付けます。
「存在そのもの」という概念が、それ以上遡行できない根本概念であるように(ハイデガーの項参照)、コナトゥスも世界の動きを説明するために、どうしても措定しなければならない根本概念です。
すべての動物は生存維持として活動し、すべての物体はつねに動き続けます(停止しているように見えるのは相対的なものです。赤道付近の校庭の銅像は時速約1700kmで地軸を回転し、かつ太陽を中心に時速10万kmで回転し、かつ天の川銀河の中を時速86万kmで・・・無限に続く)。
生物が活動を止めるのは死ぬ時であり、物体が停止するのはその存在が消滅する時です。
存在=活動であって、「コナトゥス」が存在そのものと同様に、それ以上遡行不能な根本概念である所以です。

この「コナトゥス」が精神にのみ関係付けられる時「意志」と呼ばれ、精神と身体の両面に関係付けられる時は「衝動」、そしてこの「衝動」を人間が自分で意識する時に「欲望」ととらえられます。
意志と欲望はけっして対立するものではなく、同じものを別の形であらわしたものでしかありません。

「コナトゥス」というものは、現実的な活動力である以上、増大したり減少したりします。
理念と物体、精神と身体が、同じものの別の様態での現われであった様に(心身平行論)、身体の活動力の増大に見えるものは、精神においては「喜び」として発現し、身体の活動力の減少に見えるものは、精神においては「悲しみ」として発現します。
スピノザの感情論はこの基本的な三つのもの「欲望」「喜び」「悲しみ」によって、すべての感情を導出します。
他の様々な感情も、この三つの基本感情に還元することが出来るのです。
例えば、愛とは外部原因の観念を伴う喜び、憎しみとは外部原因の観念を伴う悲しみ。
例えば、希望とは不確定な結果の観念を伴う喜び、恐怖とは不確定な結果の観念を伴う悲しみ、などです。

 

感情の受動と能動

昔からよく言われるように、基本的に感情とは受動的なものです。
私の精神(身体の変様)が外部のものによって動かされるからです。
それは、対象Aによって生ずる喜びはAの本性を含み、Bによる喜びはBの本性を含み、対象の数だけ多様な種類の喜びがあるということでもあります。
初恋の人の笑顔が私に与える喜びと、誕生日にラジコンを買ってもらった時の喜びは、同じ喜びといってもまったく別の本性の感情であり、共通するものといえば、私の活動力を増大させるということだけです。
一般的に感情と言われるものは、外部の対象の本性に依存し、私の精神および身体は受動的な状態に陥ります。
前項にあったように、外部のものの本性と私の本性を同時に把握する理性的な認識が崩れ、十全でないどちらか一方に偏った認識が「想像知」でした。
受動感情というものは、この想像知から生ずる観念によって成立するものです。

では、反対に理性的な観念から生ずる十全な認識による能動感情とはどういうものでしょうか。
外部刺激に対する随意反応のような受動感情と違い、精神の能動的な働きによって(心身平行論的に身体がそれを)外部の物体に働きかけ、動かす力となるような感情です。
ここにおいては「悲しみ」の感情は消え失せ、「喜び」の感情しかありません。
なぜなら想像知の不完全な観念が人間の活動力を減少させる感情を生むのであって、理性的な十全な観念においては活動力を増大させる要素しかないからです。

まとめると、受動的喜び(外部要因による活動力の増大)、受動的悲しみ(外部要因による活動力の減少)、能動的喜び(自発的に生ずる活動力の増大)、の三つの類型です。
具体的にそれらの喜びの差を日常の例として挙げてみます。
例えば、先生や親に褒めてもらうために仲間を助けるて得るのは受動的な喜び、仲間と私がかけがえのない関係性の間柄であることの認識から自発的に助け共に喜ぶのが能動的喜び。
例えば、ライバル店を打ち負かし喜ぶラーメン屋は受動的、美味いラーメンとサービスを追求しその完成によって喜ぶラーメン屋は能動的。
それは想像知のように受動的な他者依存の不安定で脆い喜びではなく、理性的な認識と企図によって存在の維持を能動的におこなっていく努力(理性に制御されたコナトゥス)の中で生ずる躍動感のような喜びです。
前者が心の弱さを埋めるための反動的な喜びであるのに対し、後者は心の強さから生ずる自発的な喜びです。

 

 

(4)へつづく