自己満足とは何か

最近、「自己満足」という言葉がやたらと使われます。
しかし、多くの場合、適切でない文脈で使われているため、何を言っているのかよく分からないことがあります。
そこで、少し「自己満足」ということばの意味を考えたいと思います。

まず、感じるのは、この「自己満足」という言葉に対しての不自然さです。
「満足」というのは感情や心の状態をあらわす言葉であるため、自己がそれを感じるのは当然すぎることで、「自己満足」という言葉には重言(例、馬から落馬する)のようなくどさがあります。
別の言葉に入れ替えると分かりやすいのですが、「自己不満足」「自己幸福」「自己喜び」「自己怒り」などは、相当くどい表現です。
英語などと違い、主語を省略する傾向のある日本語においては特にそうです。

では、なぜわざわざ「自己満足」などというくどい言葉が使われるかというと、それが他者や社会に与える満足「社会的満足」と、対比的に使われているからです。
「自己満足」という言葉を使う人の隠れた前提として、「満足というものは自分だけでなく、他者や社会のためになるものでないといけない」という考えがあります。
それは、「満足は自分だけで占有するな」あるいは「満足は社会化されたものでないと許さない」という、宣言です。
「自己満足」という言葉を多用する人は、社会の平和を守る正義の人な訳です。

しかし、個人の満足を追及する人からしたら、それは余計なお世話です。
とくにそこが資本主義社会であれば、「自分の満足だけ追及して何が悪い。社会の満足も追及せよというのはあなた個人の世界観であり、私には関係ない」となります。
また、満足は社会化されたものでないといけない、というのは、さらに余計なお世話です。
おばあちゃんのお古のレトロな古着や、ただ同然のフリマの洋服でお洒落を楽しむ人は、モード(流行)の最前線にいる自称お洒落な人達に「自己満足」なファッションだと批判されます。
なぜなら、お金を落とさないお洒落は経済を回さない悪い満足であり、流行に合わせない者は社会的文脈を読めない自分勝手な人間だからです。
逆にモードを追いかけ沢山お金を消費するお洒落は社会化された良い満足であり、社会的に適切な洋服を着こなすことは、優秀な社会人の証しなのです。

しかし、流行の高級バッグを集めて喜ぶ人がいるのと同様に、海岸の砂浜で貝殻を集めることに満足を感じる人もいる訳であって、それはもう生き方の問題であり、「自己満足」という言葉のもとに満足の社会化を強要されるいわれはないわけです。
価値の客観性(社会性)と主観性、どちらが優も劣もありません。
二百万円のダイヤのリングと、母の形見の二千円のガラス玉の指輪のどちらをとるかは、人それぞれです。

だから、「自己満足」という言葉が使われることを許される唯一の文脈は、社会的満足を明確に公示された状況においてだけです。
例えば、会社組織やスポーツのチームプレーなどの場合、満たされるべきは組織の利益であることは明白であって、成員個人がいくら優秀な成績を取っても、それが組織に良い影響を与えていないなら「自己満足」です。
学校は生徒の教育が目的であるため、もし先生が自分のプライドや出世のために、生徒をムチ打ち進学率を上げようとするなら「自己満足」です。
また、「私は他者のために生きている」と明言しながら、結果的に他者に貢献せず、自己の利益のみ得ているなら「自己満足」です。

要するに「自己満足」という言葉は、他者や社会のために生きる事を責務にしながら、自己の利益を追求している無責任な人にしか使えない言葉なのです。
そもそも他者の利益など眼中になく、ただ自分の好きなように満足を得てる人に「自己満足」という言葉を投げるのはまったく無意味であり、それは勝手に自己の理想(社会のために生きろ)を押し付け、勝手に批判しているだけの話なのです。
ニヒリストを気取った人が「どうせ人間の行動なんて全部自己満足だ!」と嘆く時、彼の内には「人間はみな、他者のために生きねばならない」という無理な希望を持っており、そんな叶わぬ夢を勝手に抱いて勝手に絶望している、センチメンタルな人間なのです。
やたら「自己満足」という言葉を使いたがる人もこれと同様です。

ただ他人を批判したいがために自己満足という言葉を乱用する者、ただ自分の誠実さを誇りたいがために自分の行為を自己満足と言う者・・・。
そんな自己満足という空虚な言葉で溢れかえって、満足というものの本質が見え難くなった時は、その言葉の裏にある意味を読み取り、虚偽の言葉を一掃すれば、星の数ほどあった「自己満足」という言葉は、数えるほどになるでしょう。